7・オオカミ カ(ク)ホ ~その2~
夜7時。仕事を終えたわたしは、自分の車が停めてある駐車場へと足早に歩いてた。
身を切るような冷たい風が顔の頬をなでるように吹きぬけていき、わたしはそのたびに肩を震わせた。
駐車場の外灯に照らされたとき、左手首にはめている自分の腕時計をチラリと見た。
文字盤には日付けの窓があり、そこには「23」の数字が表示されている。
そういえば今日は、<夕陽から眼球を守る会>の会合があった日だ。
狼さんは荒木と会ったのだろうか。
どんな話をしたのだろうか。
荒木はどんな男だったのだろうか。
荒木とは仲良くなったのだろうか。
ホモの話をしてやしないか。
そんなことを考えながら車に乗り込むと、きゅうに狼さんのことが気になりだして、しばらく運転席に座りこんだままボーっと自分の携帯電話の画面を眺めていた。
考えていてもしかたがない。
狼さんはおとなしい性格ではあるけれど、人当たりが良く他人に好かれやすいタイプだ。
しかも色白で鼻すじが綺麗な整った顔と、そのかわいらしい雰囲気から、男性にも好かれやすく道を歩いていると見知らぬ男に声をかけられることも多いという。
その反面、あまり人を疑うことを知らず、過去の話を聞いていると危なっかしい面も多々ある。
いまのところは卑劣で極悪な男には遭遇していないようで、狼さんの「純真無垢」は保たれている。
人間社会の世俗的な部分にまだ直面していない、良く言えば「清らかな」、悪く言えば「子供っぽい」、狼さんのそんなところがわたしは好きだった。妻がいる身なので、「マブダチとして」と付け加えておこう。
しばらく眺めていた携帯電話を助手席に放り投げ、エンジンをかけて広い敷地にほんの数台の車しか停まっていない駐車場を走り抜けた。
途中で自宅の近くにあるコンビニエンスストアに寄り、缶コーヒーを買った。
わたしは無類のコーヒー好きで、食後や仕事のあとなどにはたいていコーヒーが飲みたくなる。品質などにはとくにこだわりはなく、缶コーヒーでも十分満足するほどだ。
レジで支払いを済ませて外に出たとき、わたしの車の横に停まっている、白のコルベットに目がいった。
シボレーの2ドアタイプのスポーツカーだ。
車の尻を店側に向けて駐車している。
かなり大切に乗っているようで、店の窓ガラスから漏れてくる明かりに照らされたボディーは洗車したばかりのように輝いている。
そのとき、コルベットの運転席に男が乗っていることに気付いた。
顔までははっきり見えなかったが、運転席の男がじっとこちらを見ているような気がした。
わたしは自分の車に乗り込み、缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んだ。
そしてそのままエンジンをかけてコンビニの駐車場を後にした。
もう自宅に着くかというあたりで、交差点を左折するときに何気なくサイドミラーを見た。
サイドミラーに映っていた後続車は、先ほどの白のコルベットだった。
少し気味が悪かったが、たまたま同じ方向に目的地があるのだろうと思い、気にせず自宅マンションの駐車場に車を停めた。
わたしがマンションの駐車場に入ったとき、コルベットはどこかへ走り去っていた。
エアコンで暖まった車内でしばらく缶コーヒーを飲んでいると、わたしの携帯電話からスーパーマリオのコインの音が鳴った。
メールの着信だ。
送信者は狼さんだった。
「やっほー スナちゃん元気ですか?」
わたしは、「元気だよ。夏帆ちゃんはどう?」と返信した。
しばらく狼さんとのメールのやりとりが続いた。
今日の<ゆうひ会>の会合のことや、ひさびさに会った会員の人達のこと、あいかわらずクスノキさんのテンションが高かったこと。
そして、荒木のこと。
そこでとつぜん狼さんからのメールが途絶えた。
「なにか用事をしてるんだろう」と思い、わたしは自分の部屋に入り、妻との食事を終えてリビングでパソコンのメールチェックをしていた。
そのときにまた狼さんからメールがきた。
狼さんは、どうしても大事な話があるのでいまから出て来れないか、と言ってきた。
時計を見ると夜9時を過ぎていた。
狼さんに突然こんなことを要求されるのは初めてのことだったので、ただならぬ雰囲気を感じたわたしは彼女の申し出に応じた。
妻には「ちょっと友達と会ってくる」とだけ言っておいた。
わたしの自宅から車で40分ほど走ったところに狼さんが住んでいるマンションがある。
そこでわたしたちは、お互いの中間地点に位置する、神戸市内のカフェで落ち合うことにした。
建物の中に入ると、すでに狼さんは店内の隅のほうにある4人掛けのテーブルについていた。
スマートだが痩せすぎではない身体に、ふんわりした茶系のニットのワンピースがよく似合っていた。
店内は少し照明を落としてあり、アンティーク家具が置かれた落ちついた雰囲気だった。
ほっそりしたウェイトレスの若い女性が注文をとりにきたので、狼さんはホットコーヒーを注文し、わたしはホットカフェラテを頼んだ。
いつもはコーヒーにするのだが、そのときはなんとなくラテが飲みたくなった。
はじめはメールでやりとりしたときと同じようなことを話していた。
わたしは早く狼さんの「大事な話」の核心にふれたかったが、じっと我慢をして彼女の話を聞いていた。
しばらく雑談をしていると、アルバイトとおぼしき大学生くらいの華奢な体つきの男性がコーヒーとラテを運んできた。
そのウェイターは、少し身長が低めで、黒ぶちの細長い眼鏡をかけていた。
わたしが自分のラテに目を落としたとき、ラテ・アートが目に飛び込んできた。
ミルクでかわいらしいハートの絵が描かれていた。
「すごい。ハートだ」思わず顔をほころばせながら、わたしは声を上げた。
「それ、さっきの男の子からの、スナちゃんへのメッセージでしょ」
また狼さんがとんでもないことを言いだした。
「いやいやいやいや、そんなわけないやん」わたしは即座に否定した。
「じゃあなんでハートなんですか? もっとほかにあるでしょうに」
確かにさっきのウェイターは伏し目がちで、なぜだか恥ずかしそうに飲み物を運んできた。
だがそれがどうだと言うんだ? まだ仕事に慣れていなくて、少し照れがあるだけなのかもしれないではないか。
そんなことはなんの問題もない。
しばらくはウェイターのホモ疑惑の討論が続いたが、ようやく狼さんはわたしの目をじっと見ながら「大事な話」とやらを話しはじめた。
「荒木さん、めっちゃカッコよかったですよ。スナちゃんも来ればよかったのになー」
「そうなんだ。ぼくは仕事だったからねぇ。どんな人だった?」
わたしはおもわず声がうわずってしまうかと思ったが、どうやらまだいつものトーンで話せるようだ。
「なんか、荒木さんにしつこく電話番号を訊かれて、教えちゃったんですよ」
「そうなんだ」
「はい。わたし、ゆうひ会のディナーパーティーには出ずに途中で帰ったんですけど、そのあと荒木さんから電話があって『今度、食事しよう』って誘われました」
「ほう」
わたしはハートの絵をかきまぜてラテを一口飲んだ。
狼さんも同時にコーヒーに口をつけた。
「さいしょは断ってたんですけど、荒木さん、押しが強いんですよ。クリスマスの予定はあるのか訊かれて、つい無いですって言ったら、『じゃあ神戸の良いお店を知ってるから行こう』って……」
「へぇ。荒木さんは神戸の人?」
「いやー、埼玉から来たって言ってました。なんか、断りきれなくって……」
ふいに狼さんの表情が暗くなった。荒木の誘いを断れなかったのが不安なのだろうか?
「スナちゃん、どう思います?」コーヒーを一口飲んで、狼さんが訊いた。
「どうって?」
「行っても大丈夫なんかなぁ……たしかに荒木さんイケメンですけど、わたし、ああいう押しが強い人苦手なんですよね」
わたしはどう答えれば良いのか迷った。
まだ告白していない自分の好きな女の子が、違う男とデートをするような、学生時代の複雑な記憶が甦った。
わたしは狼さんと恋人として付き合っているわけではないし、わたしには妻がいて、狼さんと愛人契約を締結しているわけでもない。
わたしと狼さんとの関係は、狼さん風に言うと、「マブダチ」だ。
もしかすると荒木は単純に狼さんに一目惚れし、強引になってしまうほど好きになってしまっただけなのかもしれない。
たしかに肉体関係が目的だけの男は、この世に吐いて捨てるほど存在する。
かといって、荒木がそんな唾棄すべき男だとは言い切れない。なにしろ、わたしは荒木と会ったことがないのだから。
それにしても荒木は、「断られても必ず2回以上は誘う」という鉄壁のマイルールでもあるのか?
ぐるぐると頭の中でそんなことを考えていると、狼さんが「スナちゃんごめんね。こんなことで呼び出して」と言った。手もとのコーヒーカップに目をとめたまま、うつろな表情をしている。
「いや、ぜんぜんいいよ。一度食事してみて、荒木さんと合わないと思ったらそれ以降はキッパリと断ればいいんじゃないかな?」
これがわたしの精いっぱいの苦肉の策だった。
本当は荒木と食事をしてほしくないが、わたしがそれを阻止する理由もないし、そんな権利もない。
狼さんは「そうですね」と一応は納得した様子で、そろそろ「二人の時間」を切り上げることにした。
二人で肩をならべて外へ出たときに、「スナちゃんは、奥さんとずっと仲良くしていてほしいな……」と狼さんがつぶやいた。