失望
山川に風のかけたるしがらみは
流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹
……山中の川に、風が掛けた流れを遮る柵は
流れきれずにいる紅葉の集まりであったなあ……
わたくしが生まれたその日、父はそれはもう大変な喜びようであったと言う。私はこの家の希望。私こそが父を出世に導くこの家の誉れであるはずだった。
わたくしが生まれる三年前に、帝待望の皇子様が御誕生になっていた。帝は多くの女御様方をお迎えになっておられたにもかかわらず、何故か内親王様はお生まれになっても皇子様には恵まれずにいた。そうして何年もの時が過ぎてようやく一人の皇子様がお生まれになり、必ずこの皇子様を次の帝になさりたいと考えていらっしゃったと言う。
そしてわたくしが生まれた。帝が誰よりも貴く、この世のすべてであるこの人の世では、帝に娘を妃に差し上げることは、帝に最も近しい人間になれると言う事だ。父は生まれたわたくしを抱き上げると、
「美しい子だ。幼くしてこの美しさ。末は必ず帝になられる方のご満足いただける美女となるだろう」
と、わたくしに飽きることなく見入っていたそうだ。
「帝と縁戚を結び、帝の御信頼を得る。それは誰よりも高い地位につき、権力者となることを意味している。まして差し上げた娘が帝の正妃である中宮となり、その皇子を産んで次の帝にでもなれば、権力者の権勢は盤石となり、その家の繁栄は代々約束されたも同然。この娘はそんな貴族ならだれでも夢見る希望を、叶えてくれるだろう」
わたくしは父や母、他のこの家に連なる者達の期待を一身に背負って生まれてきた。まさにわたくしはこの家にとって希望そのものだった。
だからわたくしはごく幼い時から帝の皇子様の女御になるための躾けを受けてきた。帝に相応しい娘となるために、誰よりも美しく、誰よりも賢く、誰よりもしとやかで気高くあることを求められて育った。着るもの、触れるもの、目にするもの、すべてに最高の物を与えられてきた。
その品々はすべてが素晴らしく、人の目を奪うに十分な品だった。私はそう言う物を扱うにふさわしい仕草と知性、品格を求められた。
乳母とは別に、わたくしは長く内親王様にお仕えしていた知性あふれる「侍従」と呼ばれる才女を自分の女房として召し抱えていた。その人は私がまだ何も分からぬ赤ん坊の頃から私の仕草が美しくあるように、私の目の前で美しい立ち居振る舞いを見せてくれた。さらにものごころが着きはじめると和歌を聞かせ、言葉が理解できるようになると筆を取らせたり、琴に触れさせたりして、とてもまめやかにわたくしを淑女に育ててくれた。
わたくしは幼いころから自分の容姿には自信があった。母上から美しい姿を譲り受けているし、自分でも常に美しくあろうと努力した。育ち方もあるかもしれないが、私は自分の中にある感性として女は美しくあるべきだと思っている。
父はわたくしに甘く、欲しがるものを何でも手に入れてくれる。わたくしは女房や母の美的嗜好に影響を受けて、幼いころからどんなものでも一級の品を求めていたらしい。それでも父は、
「未来の中宮に相応しい物を用意するのは当然のこと。なんでも一流を求めるとは末頼もしい事だ」
と言って、無理をしてでも手に入れてくれた。おかげでわたくしはこの世の美しい物はすべてが善であり、美しさ、気高さこそがこの世の価値であることを学んだ。帝はこの世で最も価値のある神の様なお方。その方の中宮となる以上、私は身も心も知性さえも、すべてにおいて美しくありたいと願い、努力を積み重ねた。
わたくしは父母の満足のいく少女に育っていた。侍従にしっかりと厳しくしつけられたおかげで、わたくしは日頃の仕草一つにも十分に気を使う事が出来るようになった。幼いころから「美しさ」とはどういうものなのかよく知っていたので、自分がどのようにすれば周りに認められるのかは肌ですべて分かっていた。わたくしに家のすべてを賭けているだけあって、大人たちはわたくしの行動の一つ一つに反応を示した。わたくしはいつも人々の中心にいた。
幼い時は泣いても笑っても人々はわたくしに注目した。それが年が上がるごとに大人の真似事をすればするほど大人たちが喜ぶ事に気が付いた。喜びも悲しみも体いっぱいで表す事が人目を引いたのも五つ、六つくらいまで。それ以後は女房の言うとおり出来るだけ大人の真似をして、泣きたい時も無様にしゃくりあげたりせずに声をこらえて目に涙を浮かべた方が、ずっとわがままが通ってしまう。
嬉しい時も喜びの表情は袖の中に隠しておいて、瞳が一番輝く瞬間を見計らって、その目だけを人に見せる。これは父上だけでなく母上にも覿面に効く。笑う時も口元を袖で隠すのはもちろんだが、その口も出来るだけ開かないように気をつけて上手く息を混ぜ、心持声を高く「くっく」と出すようにする。すると私の声はまるで鈴の音のように響くのだ。その笑い方はとっておきの時で無ければ決して漏らしたりしない。そうすればこの声を聞きたいばかりに人々はわたくしをいつも機嫌よくしておこうと懸命になってくれる。
中宮を目指すなら何よりも心が美しくないといけないと母や乳母は言うが、そんなことわたくしには造作も無い事だった。時には自分の心が先んじて、邸の外で日の光を浴びてしまいたいとか、庭で思い切り毬をつきたいとか、大きな口を開けてあくびをしたいとか思う事もあるけれど、そんな気持ちはほんのひと時の事。
侍従に気の効いた物語でも読んでもらって、自分が心美しい女主人公になったつもりで聞き入れば、小さな不満などすぐに忘れてしまう。そして女主人公の心そのままに、清らかな微笑みを皆に向けることが出来るのだ。
女の子は人形遊びから離れるのに時間がかかると言うけれど、わたくしはそんな事は無かった。人形の素晴らしい所はその美しい様子に自分を重ね、憧れて美しい装束などを身につけさせるから楽しいのである。わたくしはそんな憧れをそのままになどしておかない。自分自身が美しくなり、大人のように振る舞い、時には無理を言って大人と同じ姿をする。美しくても表情の無い人形よりも、わたくしのほうがずっと人を魅了するすべを持っている。あえて言うならわたくしこそがこの世で一番美しい人形なのだ。
人々はわたくしのことを、
「なんて美しくお幸せで、何もかもに恵まれたお姫様なのでしょう!」
と賛美した。そしてあと少しで宮中に入内して、誰よりも美しい自分を帝に差し上げ、すべての人々の尊敬を受けるようになる。父や母や、この家の者たちすべてに喜びを与えられる。わたくしにはそれが出来るのだ! わたくしこそがこの家の希望であり、幸せなのだから。
ああ、それなのに。わたくしの運命は突然変わってしまった。帝の皇子が元服を直前に控えた中亡くなられてしまったのだ。
世の中は帝と亡くなられた皇子を気の毒がってはいたが、すぐに次の東宮がどなたになるかと騒ぎ始めた。他に皇子がいない以上仕方がないと、帝は御自分のすぐ下の弟の親王を東宮に据えられた。その方と帝は以前帝の地位を争った事があったそうで、帝は内心気が進まなかったそうだが、父が言うには、
「世の中は東宮様が決まっていないと、落ち着きをなくすものだからね。致し方ない事なのだよ」と言っていた。
なんだか父も残念そうにしていた。父は帝には目をかけていただき、親しくもして頂いているらしいのだが、どうも新しい東宮様とは疎遠な御様子。しかも東宮様にはすでに多くの女君や男の御子様がいらっしゃるので、年の離れたわたくしが成人しても入内は考えられないと言う。
「え? それでは、わたくしは入内出来ないのですか? わたくしは帝となる人の妃となって、いずれは中宮、国母となるのでは無かったのですか?」
わたくしは心底驚いてそう父に聞いた。わたくしはものごころついた時からそれだけが人生の目標で、他の生き方など考えた事も無かった。
「ああ、姫や。そなたが悪いわけではないのだ。私がいたらぬばかりに東宮となる方を見誤ってしまったのだ。他の事なら何でも叶えてやれるだろうが、中宮だけは無理な話となってしまったのだよ」
わたくしは目の前が真っ暗となった。こんな事があろうとは考えた事が無かった。わたくしは中宮になるために生まれてきて、家の期待を一身に受けて、すべてを中宮となる事だけに捧げてきたのに。
「お父様。そんなことおっしゃらないで。わたくしは中宮になれなければ、これからどうして生きていけばよいのでしょう……」
正直、神に等しいお方と言われても、一度も会ったことのない亡くなった皇子様をそれほど慕わしいとか、恋しいとか思ったことは無かった。わたくしの憧れの対象はあくまでも中宮と言う地位であり、宮中と言う場所での暮しであった。そしてこの家を幸せにすると言う誇りが、入内する事のすべてであった。この家の幸せ、父の幸せこそがわたくしの幸せなのに……。