決意
ところがそんな時に帝が病に罹られてしまった。さまざまな祈祷や治療が行われたが、その病は重く、長引いた。内親王様のご心痛は大変深く、出来る事なら私が内親王様を直接お慰めして差し上げたいと思った。今や内親王様の苦痛は私の苦痛であり、私の悲しみでもあった。私は心に落ちた一滴の雫が恋の始まりであり、今やその水は深い深い淵となって、わが身が溺れそうなほどになっていることに気がついた。私は本当に本気で内親王様に恋していたのだ。
ある日、友人が暗い顔をしてやってきた。
「帝は、御退位を考えていらっしゃるらしい。最近は御公務も滞りがちになられているからな」
帝の病はそれほど重いのか。私は内親王様の御心を想って苦しかった。
「それで末の内親王様を東宮の後ろ盾をなさっておられる、内大臣殿のもとに御降嫁させることを考え始めたようだ。御年はかなり離れていらっしゃるが、皇女様にご不自由をおかけしたくないという思いがお強いらしい」
「内大臣殿に……!」
内大臣殿は五十歳をとうに過ぎておられる。そろそろ六十の声も聞こえているのではないか。
当然だ。二位という高い位にそう簡単にたどり着けるものではない。位にはその中にも正、従、下の三種の段階があるので、それを経て一つ位を上げるのも容易ではない。大臣の子は元服時にはたいがい従五位下から始まる。親王様でさえ四位からが普通。たとえ良家の子息と言えども、それほどの官位は遠い物である。しかし、内親王様はまだ十三、四歳だ。だから帝は位の高い内大臣への御降嫁をためらわれていたのだ。
だが、帝が御退位すれば内親王様を守って下さる後ろ盾は宮中にはいなくなる。御母上のいらっしゃらない内親王様に必要なのは、今は位の高い方の後ろ盾だ。今、誰よりも内親王様をお守りできる方は、御権威が高まっておられる内大臣様であろう。時は私が成長するのを待ってはくれなかった。私はまだ若すぎた。内親王様に相応しい男になる事が出来なかったのだ。
「あきらめるな。内親王様は内大臣殿と結ばれることを望んでいない」
私の顔色を読んで友人は言った。
「いいか? 今度、帝の御病気の平癒を願って、臨時の賀茂の祭りが開かれることになった。そこで君は俺と共に舞人に選ばれた」
「私が? 何故?」
「都一の舞手である俺が推挙したからさ。君は今までの努力の甲斐あって、ずっと年上の方々よりも学識が優れている。それは高貴な方々もよく御存じだ。しかし君は若い。地位も低ければ経験もまだない。君は若さに似合わぬ腹の据わりを人々に示さなくてはならない」
「腹の据わり?」
「舞の奉納の席には帝はもちろん、内親王様も内大臣殿もいらっしゃる。そこで君は舞の名手と言われる私よりも、美しく舞うんだ。どんな厳しい状況でも内親王様をお守りできる強さがあることを、帝にお見せしろ」
さすがに私は驚いて、
「無茶だ。私が君ほどの舞を舞えるはずがない。世に君ほどの舞手はいないし、それでなくても私は大学寮に籠って『論語』や『史記』ばかりを読んでいる身。舞などめったに舞わぬのだ」
私は友人が私をからかっているのかとさえ思った。どうせあきらめるなら、最後に恥をかいてでも内親王様に自分の姿をお見せしろと言うのかと。しかし、
「無茶ではない。君の祖父殿はもともとは雅楽寮で雅楽頭を務めていたそうじゃないか。昔は素晴らしい舞人であったとか。俺は前から思っていた。君の舞はまだ不器用だが筋はいい。真剣に舞えば祖父殿の血が開花するのではないかと」
「そんな事を引き合いに出されても困る。私は祖父から舞を習った事など無い」
ためらう私に友人はため息をついた。
「分かってないな。舞というのは人に教わるものじゃない。確かに型は人から受け継ぐ。しかし舞の優劣を決めるのは舞人の心だ。論語に人の道の倫理があるように、舞には舞人の心を表す道がある。漢文によって表すか、肉体によって表すか、違いはそれだけだ」
確かに表現というのは文字によるものばかりではない。雅楽もあれば、舞もあろう。
「だが、私は自分の表現したいように身体が動かない。型をなぞるだけで精いっぱいだ。心の表し方も分からない」
「心は自然に現れるさ。君がこの国を帝と共に背負ってでも、内親王様をお幸せにしたいと願う強い心があるのなら」
この国を背負って……。そうだ。それほどの覚悟がなくては、私が内親王様をお幸せにするなどおこがましい事だろう。私は若輩者。果してそんな事が可能なのか?
だが、このままでは内親王様は孤独な心をお抱えになったまま、内大臣に御降嫁されなくてはならない。あんなにも私を信頼し、優しい文を贈り続けて下さった高貴な方の御信頼に、私は何も応えられずにいる。
私は自問自答した。本当にそれでいいのか? と。
私がこれまで学問に情熱を傾けてきたのは何のためだ?
いずれはこの国のお役に立つため、ひいては国を背負う一人となるためではなかったのか?
目標が早まったと言うだけで、私は怖気づいてしまう程度の男だったのか?
いや……
私は、意を決した。
「私は、内親王様をお幸せにしたい。この国を背負ってでも」
私はまだ若い。官位も決して高くはない。だからこそ、どんな覚悟も出来る。どんな崇高な目的のためにも人生を捧げられる。
友人は私の言葉に微笑んだ。
「いい覚悟じゃないか。これなら俺の鍛錬にも耐えられるだろう。舞の心は自分でつかむしかないが、心を表す身体は俺が鍛え、作ってやる」
友人の指導はやはり厳しかった。ちょっとした動きにも身体をしっかり緊張させて、自在に動かすことを要求された。だがその身体は僅かな動きにもふらつき、美しく動くどころか静止すらままならない。すると容赦なく罵声と扇子が飛んできた。
「全身に神経をとがらせろ! 指先一本、目玉の動きすら自分の思うように動かせるようにしろ! 足腰はもちろん、首と腹と背にしっかり力を入れて、身体を揺らすな!」
私は何も考えられず、ただひたすらに体を支えることに集中する。すると、
「違う! そこは柔らかく舞え! ああ、フラフラするな! 膝で支えろ! 腹と背は力を抜かず、腰を軟らかく動かしながら他の部分の力を抜くんだ!」
幾度も、幾度も、同じことを繰り返すうちに身体は慣れて来る。どうにか、友人の言われたとおりに身体が動くようにはなった。だがそれだけで全力を使ってしまい、とても心を表すどころではない。
「これでは……とても君の舞になど及ばない」
私は絶望的な気分に打ちひしがれる。
「いや、やはり君は筋が良い。身体さえしっかり動くようになれば大丈夫だ。後は舞その物が、君に舞を教えてくれるだろう」
友人の言葉は本音か、ただの励ましなのか。私には判断する余裕も無い。ただ、友人を信じて舞を舞い続けるしかない。
これからの人生も同じかもしれない。学問を究め、帝の政を支え、必要ならば舞も舞おう。国を背負って、内親王様をお幸せにすると決めた自分を信じて、ひたすら人生という舞を舞い続けていく覚悟を持つより、私の恋に道はない。
出来ないなどとは考えない。泣き言も言うまい。どんなことにも立ち向かう勇気を持つのだ。