8 こちらからお断りいたします
断りなく家を出るな、とアキレウスはユカリに言った。
本当なら彼女を匿うのも危険なのだと。
ヘラに知られたら、どんな罰を受けるかわからないのだと。
どんだけ恐れられているんだ、ヘラ。
ゼウスよりも最強なんじゃないかと思えてくる。
というか、万能の神なら、奥さんの手綱もしっかり握っておいてくれ、ゼウス。
不用意に男に会わなくて済むから、ユカリにとっては嬉しいことでもある。だが、外での用事の一切を引き受けてくれるアキレウスには申し訳なくなってしまう。
一度そのことで謝ったら、「俺はそこまで鬼畜に見えるかこの馬鹿が」などということを言われたので、それきり言わないようにはしている。
だがしかし、やっぱり申し訳ない。せめて家の中のことはしっかりとやらねば! と、両手を握りしめるユカリであった。
女装をする男と、言葉を話さない東洋人の女。
そんな奇妙な共同生活にも、互いにだんだん慣れてきたある日のこと、突然珍客が訪れた。
というよりも、アキレウスが連れてきた。
男嫌いのユカリのためにと、極力男を家に上げないようにしていた彼にしては、珍しいことだ。
反射的に隠れようとするユカリを手で制し、気まずそうに頬をかいている。
「待てって、ユカリ。こいつは悪い奴じゃない……多分。きっと。おそらく」
「おいアキレウス、何だその紹介は。私の品性が疑われるではないか」
「てめえの行動を胸に手を当てて考えてみろ」
言葉だけ聞けば非常に険悪な状態だが、どちらも気にしてはいないようだ。彼らの仲の良さがうかがえた。
――おそらくは、ユカリと彼女の親友のように。
じゃれ合う(少なくともユカリにはそう見えた)彼らを見ていると、些細なことで冗談を言い合っては笑う、ユカリ達自身を彷彿とさせた。
彼女とも、こんな風に悪態をつき合っては笑い合っていた。
どんな事でも、それこそ家族にも秘密の相談でも打ち明けられた、一生涯の親友。
互いに支えられ合って毎日を過ごしていた。
彼女は今、心配してくれているだろうか。
意外に気の弱いところがあったから、泣いてはいないだろうか。
弱さも強さも、補い合っていた二人だったから。
生まれる場所を間違えた双子だね、と笑い合った彼女の笑顔を、ユカリははっきりと覚えている。
ぼんやりと思考の海に沈んでいるユカリを不審に思ったのか、アキレウスが彼女の顔を覗きこむ。
「ユカリ? どうした」
その声に我に返ったユカリは、予想以上に近くにあったアキレウスの顔にほんの少しだけ後ずさった。敏いアキレウスはその僅かな動作にも気づいたようで、苦笑して身を引く。
その行動にほうと息を吐いたユカリは、改めて何でもないとかぶりを振った。
『少し考え事をしていました。すみません、お客様の前で』
走り書きの羊皮紙を渡すと、アキレウスはそれ以上客人がユカリに近づかないように腕で牽制しながら、その客人をくいと顎で示した。
「こいつはアポロンだ。まあ、アテナの所にいたお前なら、聞いたことぐらいはあるかもしれねえが……」
アポロン。
と聞いてまず思い出すのは、アルテミスの苦々しい顔だ。
「あの愚弟め」と言っていたような気がする。その横でアテナが、「あの好色最低男のせいで、またニンフが犠牲に」と憤慨していたような気がする。
その時給仕をした茶葉の種類まで思い出しつつ、ユカリが微妙な距離を作ったのは、まあ仕方がないことだろう。
「おい、何だその距離のとり方は」
「正しい判断だ、ユカリ」
心外そうに顔をしかめるアポロンと、したり顔でうなずくアキレウス。
どちらがユカリにとって信ずるに値するかと問われれば、間違いなくアキレウスを選ぶ。
ユカリの中でのアポロンの地位は、地を這うほどに低かった。
「何だ、この小娘は。この私が直々に、予言をしてやろうと来てやったというのに」
偉そうにふんぞり返り、目を細めてユカリを睨むアポロン。その姿に、ユカリは小さく首を傾げた。
彼女の知識の中では、アポロンはアルテミスの対となる存在。太陽の守護神ということしか項目にない。
それがどうして予言につながるのかと眉根を寄せたユカリの疑問を、アキレウスが正確に読み取ったようだ。
「ユカリ、こいつは一応、予言の神だ。性格的にはちょっとアレだが、予言に関しては信頼できるぞ」
「一言多いわこの阿呆が。――まあいい。そこの娘、アキレウスに免じて、特別に、予言を行ってやる」
やけに「特別に」を強調していたが、アポロンは不敵な笑みを浮かべると、おもむろに目を伏せた。 気分でも悪くなったかと心配したユカリが一歩踏み出したところで、アキレウスに手振りでじっとしていろと制される。どうやら、彼は「予言」の最中らしい。
やがて瞼を上げたアポロンは、何度かユカリを見ては眉根を寄せた。
「『最終的には己の望む道を歩む』……か。途中経過がさっぱり見えんのは何故だ、アキレウス」
「知るか。俺に訊くな」
どうやら、中途半端な予言の結果が、アポロンの予言神としてのプライドを刺激したらしい。
幾度も予言を行っては同じ結果に眉根を寄せ、最終的には諦めたようにため息をついた。
「……ユカリ、だったか? おい、ちんくしゃ。この予言がはっきりするまで、不本意ながら私はお前の力になろう。これほどすっきりしない予言は、生まれてこの方初めてだ」
「おいアポロン、ユカリは男嫌い――」
「何度も言わずとも分かっているわ、たわけが。それに、私にも好みというものがあるからな」
お前など眼中にないと言外に言われ、ユカリのこめかみが小さく引きつる。
だが、言い返すにも声が出ない上、そもそも口もききたくなくなっていた。
彼女がとった方法は、ただ一つ。
『奇遇ですね。私にも好みがございます』
丁寧に羊皮紙に書いた文字を、ひらりとアポロンに見せつけただけだった。