4 予兆
「ユカリ、ちょっと」
ある日、いつになく神妙な面持ちで、アテナがユカリを手招いた。
小首を傾げながら傍に寄ったユカリに、アテナは美しい蜂蜜色を顰ませる。
「ヘラがあなたを呼んでいるの。良くない予感がするわ、私が断ってもいいけれど……」
聞けば、ものすごい剣幕らしい。あんなところに可愛いユカリを行かせられないと、アテナは眉根を寄せたまま続けた。
「理由を尋ねても、身に覚えがあるはずだの一点張り。――念のために訊くわ。ユカリ、心当たりは?」
「あ――ありません!! 第一私、ヘラ様にお会いしたこともありません!」
そもそも、アテナにべったりのユカリが、他の神と出会うこと自体が珍しいのだ。
神(しかも女神限定)自身がアテナの宮殿に訪れなければ、ユカリと顔を会わせることもない。
アテナもそれを知っているからこそ、「念のため」と前置きをしたのだろう。
不安に瞳を揺らすユカリの頬をなで、アテナは心底悔しそうに唇を噛んだ。
「非常に不本意で勝手極まりない申し出ですが、断るわけにはいきません。ヘラはあれでも父ゼウスの妻。あんなどぐされ野郎が私の生みの親だということ自体認めたくないのですが、万能の神、そして神々の長であるゼウス。その妻であるヘラには、誰も逆らうことができないのよ」
あの若作り、やら年増、やら、不穏な言葉をアテナが呟いている気がしたが、いつも優しいアテナがそんな暴言を吐くはずがない。まして、自分の父親をどぐされ野郎などと呼ぶはずがない。
ユカリは全てを気のせいだと自分に言い聞かせ、大丈夫だと両の拳を握ってみせた。
「だ、大丈夫です! アテナ様のお母様なら、きっと何か理由があるはずです!」
もっとも、その拳はぷるぷると頼りなく震えていたが。
アテナの父親の妻なら、当然母親になる。
そんな単純思考で言い切ったユカリに、アテナは何ともいえない表情になった。
「……ヘラは私の母ではないのよ」
「え!?」
「私は自力で、父の額をかち割って出てきたの。あの男が! 私の母上を! 自分の正妻を!! 丸ごと呑みこんだせいでね」
アテナの笑顔が怖い。ユカリは初めてそう思った。
美しいかんばせに、何やらどす黒いものがあふれかえっている。
それでもまあ、なんとかなるだろう。
話が通じない相手でもなし、きちんと誠意を持って臨めば問題はないはずだ。
********
などと思っていたユカリは甘かった。
たとえて言うなら、小さい子供が綿飴の袋を親にねだって、結局食べるのに辟易するくらい甘かった。
「そなた……人間の分際で、よくもわたくしの夫につきまとえるな」
「え? はあ? あの、それ、何かの間違いじゃ……」
「嘘を申すな!!」
びりりと空気が震えるほどの気迫で大きな声をあげたヘラは、美しい顔を怒りに染めてびしりとユカリを指さした。
「生意気で愚かな娘。身の程を知らぬ娘。その傲慢さ、今再び思い知るがよい!」
そうして、彼女は今に至るのだった。
口がきけなくなる上に、女神達と離ればなれにされるという、絶体絶命の状態に。