36 選択できる幸せ
「ユカリ。さあ、帰りましょう」
また一緒に、あの夢のように穏やかな日々へ。
アテナが手を差し伸べる。
嬉々としてその手をとろうとして、けれどあと数ミリのところでユカリの手は止まってしまった。
――アキレウス。
ここでアテナについていけば、きっともう二度と会えない。会えるとしても、それはほんの僅かな確率になってしまう。
彼女の戸惑いを見透かしたのか、アキレウスが笑う。大丈夫だと、安心させるように。
「行けよ、ユカリ。あんなに慕ってたアテナだぞ?」
「アキレウス……」
いつもと同じような笑顔を見て、二人の生活を思い出す。色々なことがあったけれど、彼との生活もまた、穏やかで楽しかった。
惜しんでいるのはユカリだけなのだろうか。アキレウスは、ユカリのことを何とも思っていないのだろうか。
――この気持ちは、一方通行なんだろうか。
「……ユカリ」
アテナの柔らかな声。
「今ならばどこにいようと、私達はすぐに会えます。呼び寄せることも可能なら、私がそちらに赴くこともできるでしょう。――あなたは一体、何を迷っているのですか?」
そう。
言葉にしないと通じないものがある。
いくら態度で示しても、口に出して言わなければいけないことがある。
アテナに生涯を捧げようというあの時の思いは、けして消えてはいない。仲良くしてくれたニンフ達の顔も、仕草も、表情も。全て鮮明に思い出せる。
アテナと共に戻れば、あの優しくて穏やかな日々が戻ってくるのだろう。
けれどそこに、アキレウスはいない。
適当なベッドメイクを直したり、二人分の料理を作ってはたまに失敗したり、石鹸の匂いを胸一杯に吸い込みながら洗濯物を干したり。そういった「日常」はもう手に入らない。
処女神たるアテナの加護の元にいる限り、男である彼との接触はとても難しくなる。
女であるユカリは簡単に赴くことができるが、アキレウスは彼の女神の領域に入ることすらほぼ不可能だ。処女神の結界が、彼を阻む。
アテナか、アキレウスか。どちらか一方を選ばなければならない。
ならば、自分は。
「アキ、レウス」
ああ、声が震える。
「私、私ね、あの、わたし……」
頑張れと、自分で自分にエールを送る。
「私、アキレウスが好き。男は嫌い、でもアキレウスは好き!」
目を瞑って、ユカリは一気に言い切った。
恥ずかしさに身体が熱くなる。強ばってしまった身体はどうにもできなくて、ますます恥ずかしさに拍車がかかった。
これで「何言ってんだ?」と笑われたらどうしよう。アキレウスが応えてくれなかったらどうしよう。
嫌な想像しかできず、じわりと涙がにじみ始めた頃、彼女のすぐ近くでため息が聞こえた。
「……ったく、お前は」
ふわりと、優しく包まれる感覚。
おそるおそる目を開けたユカリに、アキレウスが困ったような苦笑を向ける。
「言っただろ? お前は俺が守るって」
この馬鹿が、と額をこづかれ、じわりじわりとその意味を理解し。
「…………!」
ぎゅうと抱きついた。
ユカリの細い身体に、温かい腕が回る。
アキレウスの胸に顔を埋めた状態のままで、ユカリは意を決して口を開いた。
「アテナ様、大好きです」
「私も大好きよ、ユカリ」
アキレウスの服が濡れる。それでも、彼は黙ってユカリの頭をなでていた。
「でも、アキレウスが大事なんです」
「ええ」
アテナの声も湿っている。誰かが鼻をすする音が、小さく聞こえた。
最後の未練を振り払って、彼女は別れの言葉を口にする。
「だから、私。アキレウスと一緒に行きます」
大切な人と、やっと巡り会えたから。
弱かった自分と、今度こそ決別できたから。
「アキレウス、ユカリを頼みますよ。泣かせたら承知しませんからね」
「いや、泣かせないでずっと過ごせるかどうかは微妙なんだが……まあ、守るって決めたからな。任せとけ」
彼らしい言葉を返して笑ったアキレウスが、ユカリの頭のてっぺんにキスを落とす。それを嫌と感じないユカリは、少なくともアキレウス限定で、男性恐怖症は治ったようだ。
ぎゅうと抱きつきながら、ようやくユカリの口から小さく笑いがもれた。
これにて終幕となります。機会があったら、番外編で小話をちょこちょこ書いていきたい……(白目)(あくまで願望)