35 姉上、と呼ばれて
どれくらいタルタロスにいたのだろうか、時間の感覚がよくわからない。ただ、まぶしい光は久しぶりだと感じた。
青い空を見上げ、ユカリはその澄んだ色に眼を細めた。
足下に咲き乱れる花々。あちらこちらに見える、豪奢な白亜の宮殿。頬をくすぐる風も、優しくて甘い香りがする。
――天界に戻ってきたのだ。
「ユカリ」
懐かしく優しい声が、ユカリの耳をくすぐる。自然に涙がこぼれるのを感じながら、彼女は迷うことなくたおやかな腕の中に飛びこんだ。
「アテナ様、アテナ様、アテナ様!!」
「ユカリ……あなた、声が――」
「お会いしたかったです! ずっとずっと、お会いしたかったです!」
驚いているアテナにすり寄り、強く抱きつく。
声が出るようになったこともそうだったが、やはりアテナに再び会えたことが一番嬉しかった。
「私も会いたかったですよ、ユカリ。どんなに心配だったか」
元気そうでよかった。
とろけるような微笑みでユカリの頬をなでたアテナは、顔を引き締めるとプロメテウスに向き直って深々と頭を下げた。
「貴方には本当に感謝しています、先見の神よ。知らせを送ってくださったこと、心より御礼申し上げます」
「なに、ユカリには私も助けられたからね。ヘルメスに送ったにしては、動きが遅かったようだけれど?」
からかうようなプロメテウスの言葉に、アポロンを張り倒していた男神が肩をすくめる。
「どこかの馬鹿が、ユカリユカリと騒ぎたてたものでして。暴走をくい止めるのに少々手間取りました」
ヘルメスについては、アテナから伝令神だと聞いた記憶があった。同時に「あのアポロンの親友をしているなんて、気が知れないわ」などと呟いていた記憶もある。
なるほど、あの酷い扱いにも納得である。
恨めしげに見ているアポロンを華麗に無視しているあたり、ヘルメスの性格がうかがえた。同時にそれを冷ややかな目で見ているあたり、ユカリの変貌具合もうかがえる。
アテナに寄り添っていたユカリに、横から声がかかった。
「姉上」
緊張で張りつめた声音。
彼女が振り向いた先には、ゼウスが小さく震えながら立っていた。
「名前を授けられる前に、父上によって奪われてしまった貴女。だから私達は、貴女を姉上としかお呼びできません」
「あの、もうちょっと離れてください」
シリアスな場面をぶち壊す発言だったが、あまりにも距離が近すぎる。
男性恐怖症が治ったわけではないので、控えめにお願いしてみると、意外にも数歩離れた。
「最後の兄弟がいると知った時、私がどんなに悔しかったことか。全ての兄弟を救い出せたのだと自負していた自分の傲慢さに、やっと気づきました」
ゼウスの目が潤んでいる。震えは徐々に大きくなって、わななきへと変わっていた。
ああ、わたしのかわいいおとうと。
ごく自然に浮かんできたその言葉に、ユカリは激しく動揺する。
いい歳をした大人に向かって、弟とはこれいかに。しかも相手は最高神だ。
けれど、その言葉を口に出せば、きっと目の前の男は喜ぶのだろうとわかった。
「不本意ながらも、父上によって貴女がここに喚ばれたと知った時の、あの歓喜。どれほどのことか、きっとお分かりにはなっていただけないでしょう」
ゼウスが、片膝をつく。全能の神が跪くことの重大さは、神になったばかりの彼女にも充分にわかった。
「やめてください、ゼウス様。他の神に示しがつきません」
「お帰りなさいませ、姉上――ユカリ」
慌てるユカリの前で深々と頭を垂れたゼウスは、晴れ晴れとした表情で立ち上がる。
「これより、ユカリを正式に神の一員として認める。この決定に異議がある者は申し出よ」
誰も、何も言わなかった。ふと目があったヘラは、気まずそうに視線をそらす。
「では……姉上。ヘラの呪いも解けたことですし、一緒に参りましょ――ぐはあっ!?」
きらきらと輝かんばかりの笑顔が、不自然なところで絶妙に歪んだ。
見れば、ヘラがヒールの踵でゼウスの足を踏みつけている。
「元はといえば、貴方がきちんと説明をせなんだせいで――!!」
「ちょ、ヘラ、悪かった! 一人で舞い上がっていた私が悪かった! だから足をどけてく痛たたたたたたた!!」
……ヘタレ属性か。
やられキャラなのか。
アポロンと血がつながっているのだと、ユカリは今初めてはっきりと認識した。
更新箇所を著しく間違えておりました…!!ご指摘いただいた皆様、ありがとうございました。