34 覚醒
口移しに血を飲ませた瞬間、アキレウスの身体が強い光に包まれた。
プロメテウスの姿も、光の膜も、クロノスの姿も。何もかもが白く塗りつぶされる。
「この……馬鹿が!」
反射的に目をかばったユカリの頭に、ぐしゃりと乱暴な手が乗った。
「逃げろっつったろうが。――ま、おかげでこっちは助かったけどな」
光の奔流がおさまったそこには、さっきまでの傷なんか嘘だったかのようなアキレウスが、苦笑して立っていた。
「伊達に癒しの神じゃない、ってか。今までよりも身体が軽い」
調子を確かめるように手足を動かしていたアキレウスが、不敵な笑みを浮かべる。
ああ、これだ。これでこそ、アキレウスだ。
ユカリは不思議な安堵に包まれた。
彼ならば、きっと大丈夫。
「それじゃあいっちょ――神に喧嘩売ってみますかね、と!」
アキレウスが跳んだ。いや、飛んだ。
一足で彼の背丈以上の高さに跳んだそれは、人間の跳躍力ではない。ヘファイストスの剣を構えて、クロノスに向かって飛んでいく。
「だりゃああああああああ!!」
『人間風情が、我に挑むか!』
嘲笑したクロノスは、しかし彼の手にある剣を見て顔色を変えた。
『それは――ヘファイストスの!』
「ああ、そうさ! 神が作ったものなら、神にだって効くだろ!」
アキレウスは先程まで半死人だったとは思えないほど軽やかに動き、不敵な笑みを絶やさずにいる。自分が劣勢だとは、これっぽっちも思っていないのだろう。
圧倒的な体格差。圧倒的な力の差。
それでも、何故か彼が負けるとは思わなかった。
アキレウスならば、勝ってみせる。必ず。
「半神化してるな」
再び光の膜を生み出したプロメテウスが、食い入るように戦闘を見つめるユカリの横で呟く。それはいいことなのか。悪いことなのか。
ユカリにはわからない。アキレウス自身が決めることだ。
哀れと言われようと、ユカリは神になったことを後悔などしていなかった。
今までの思い出も絆も気持ちも記憶も、彼女自身の存在さえも引き替えにしても、アキレウスを助けたかった。その気持ちに嘘などない。
後で責められたならば、全身全霊で謝ろう。人になった神がいたかどうかは知らないけれど、ゼウスにも頼んでみよう。
両手を固く握りしめ、ユカリはアキレウスとクロノスの戦いをじっと見つめる。
身軽にあちこちを飛び回り、確実にダメージを与えていくアキレウス。彼自身もあちこちに傷を負っていたものの、それを気にしている様子はなかった。
「どうした、クロノス! 人間風情に手間取ってるぞ?」
『小癪な……!!』
からかうようなアキレウスの言葉に、クロノスが激高するのがわかった。
そんなに挑発して大丈夫なのか、アキレウス。自分だって怪我してるくせに。
「――それにしても、遅いな」
頭上を見上げたプロメテウスが、うんざりした口調で小さく何かを呟く。どうかしたのかとユカリが聞き返そうとした、その時。
「クロノス!! そこまでだ!」
聞き覚えのある声が、凛とその場を支配した。戦っていた二人も、見守っていた二人も、同時に動きを止める。
そこにいたのは。
「……アテナ様」
十二人の神々。
その中にあるのは、彼女がずっと求めていた、アテナの姿。
アフロディーテのやヘファイストスの姿もある。あれほど恐れていた、ヘラの姿も。ついでに余計な男が二人ほど。
「ユカリ! 無事だったかブッ!!」
「はーいはいはい、いい加減変態的につきまとうのはやめましょうね、アポロン」
一人はしばらく会わなかったうちに、いつの間にか変態へと進化していたアポロン。金の杖を持った見知らぬ男神に、笑顔で張り倒されている。
そして、もう一人は。
「クロノス――父上。もう二度と、姉上には手出しをさせません」
全ての元凶、ゼウスだった。
そうか、私がクロノスの最初の娘なら、ゼウスにとっては姉になるのか。
一人納得するユカリをよそに、新旧長対決は続く。
『ゼウスよ――満足か。我をここに幽閉し、覇権を握って満足か!』
「満足も何も、治める者として成すべきことはしていますよ。それに、貴方に呑み込まれるような趣味は、あいにく持ち合わせていない」
吠えるように叫んだクロノスを冷めた表情で見やったゼウスが、そう言い放ちながら手を掲げる。今までよりも太く頑丈な鎖が、じゃらじゃらと重い音をたてながらクロノスに絡みついた。
十二人の神全員が手を掲げ、それをクロノスに向ける。
『おのれ……おのれ、ゼウス! レイアの悪知恵にだまされなければ、今でも我が覇王だったというのに!』
「オリュンポスは今、私を長として調和している。貴方の出る幕はありません」
『名も無き娘を手中に収めんと呼び寄せたが……よもや、邪魔をしたのはお前か!』
「タルタロスの中とはいえ、貴方の神力は強すぎる。動向はすぐにわかりましたよ。――さて、おしゃべりももう仕舞いにしましょう」
鎖が絡みつく。きつく、きつく。
一ミリたりとも動けないように。
不気味な扉は、再び閉ざされた。今度はきっと、永遠に開くことはないだろう。