32 人の器、神の魂
「……だった?」
言葉の意味全てがわからなかったけれど、とりあえず引っかかった部分に反応して問い返す。ユカリの視線を受けたプロメテウスは、何故か哀れみの表情を浮かべていた。
「カウカリス山で、私を助けた時。あの時、君の人としての生は終わった。そうして、神としての魂が表に現れた」
鎖のきしむ音が大きくなっていく。
クロノスが咆哮をあげた。
「だから君は、無傷で目を覚ますことができたのさ。今の君は、人としての器を持った神」
「――え?」
ユカリは日本で、それもおそらくは違う世界で、ごく普通に生まれて生きてきた人間のはずだ。
あまりにも突拍子のない話に、思わず彼女の動きが止まる。脳が理解を拒否していた。
がしゃり。
大きく金属の割れる音が響く。
「そして、その魂は――クロノスとレイアの、初めての娘。クロノスが唯一呑みこまず、食いちぎって飲みこんだ、再生しなかった癒しの女神」
他の神々は、そのまま一呑みに呑みこまれたから、ゼウスに倒されたクロノスから吐き出された。けれど、『ユカリ』は――すでにクロノスの血肉となっていたのだ。
人間で言うカニバリズム。
クロノスも『ユカリ』で懲りたから、後の神達はそのまま呑みこんだのだろう。その光景を想像して、せり上がってきた嘔吐感に口元を押さえる。同時にあの悪夢が蘇って、あれは前世の己の記憶なのだと、彼女はようやく気づいた。
もしそれが、本当だとするならば。クロノスがユカリに言った、「解放」の意味は。
頭が真っ白になった瞬間、頭上に大きな影が落ちた。クロノスの手だと、どこかでぼんやりと考える。動くことはできなかった。
「――ユカリッッ!!」
再び訪れた衝撃。奇妙にゆっくりと動いていく視界。
突き飛ばされるユカリ。
振り下ろされるクロノスの腕。
その真下にいる、アキレウス。
「――っ、アキレウス!!」
全ては一瞬だった。
勢いよく吹き飛ばされたアキレウスは、酷い裂傷を負っている。とめどなく流れ落ちる赤い川に、何の知識もないユカリでも、それがかなりの重傷だとわかった。
「どうして……」
「……んなの、決まってんだろ?」
呆然と呟いたユカリに荒い呼吸をしながら、それでもアキレウスはいつものようににやりと笑う。
「お前を――守る。俺がそう決めた」
そんな――。
勝手に涙があふれてくる。馬鹿だ、正真正銘の馬鹿だと、心の中で毒づいた。
どうして勝手に決めるの。
どうしてそんな大変なこと、勝手にしょいこむの。
どうして――今この場で、そんなことを言うの。
「逃げろ……ユカリ」
「やだ!! あんたをおいてけるわけないでしょ!?」
涙目でわめくユカリの腕を、アキレウスが強くつかむ。その手の冷たさに、ぞっとした。
「俺なら、平気だ。これでも……英雄だ、ぞ?」
明らかに虫の息。それなのに、アキレウスは笑い続けている。ユカリの涙腺がさらに緩くなった。
背後から、地響きと共に足音が迫ってくる。
じゃらじゃらとこすれ合う金属音が、ユカリの心に焦燥と共に恐怖心を芽生えさせる。
「立って! ねえ、英雄なら立ってよ!! 一緒に逃げよう!」
ぐいと腕を引いても、ユカリの力ではびくともしなかった。僅かに顔をもたげたアキレウスが、激しく咳きこむ。ごぽりと血の塊が口から溢れ出て、ユカリが思わず悲鳴をあげた。顔から血の気が引いていくのが、彼女自身にもわかる。
助からないかもしれない、そう思った彼女に、けれどアキレウスはいつも通りの口調で返した。
「馬鹿……それじゃ、守れねえだろ」
「アキレウス!」
地響きはすぐそこまで迫っている。ユカリだけ立ち上がって逃げることはできた。けれど、アキレウスをおいては行けない。
打開策が見つからない。
自分のふがいなさにユカリが唇を噛みしめていると、不意に地響きが止まった。
「――やれ、本当に手がかかる子だね、君は」