31 生まれなかった女神
太いな鎖で、がんじがらめにされた重厚な扉。
どうやって開けるのかと見ていたら、彼が手をかざすだけで鎖が解けていった。
呆気にとられたユカリの視線に何を感じたのか、プロメテウスは苦笑して小さく肩をすくめる。
「この鎖は装飾のようなもの。他のティターン族に対する、見せしめのようなものかな」
あっさりとそう言ったプロメテウスが、力を込めて扉を押し開ける。重い音と共に開いていったその先は、漆黒の闇だった。
脳裏に蘇る、毎日の悪夢。
知らず震える足を叱咤して、プロメテウスに続く。
その手に掲げられた炎がひときわ大きくなって初めて、クロノスの姿を目の当たりにした。
強大。
その一言で全てが表せそうな存在感。
ユカリ達の十倍はあろうかという身長に、人間の彼女ですらわかる力の強さ。それを封じるように、何重にも鎖が絡みついていた。
『来たか、哀れな娘よ』
「誰が哀れだ」
確かにつらかった。家族のいる世界を熱望し続けてきた。
けれど、ユカリは今の自分を哀れだとは思っていない。もう逃げないと誓ったから。
クロノスの低い声に吐き捨て、ユカリはまっすぐに巨大な神を見据えた。
「約束通り、プロメテウスを助けてきた。ヘラの呪いから助けて」
アキレウスの心配そうな視線が痛い。
プロメテウスの視線は――何を考えているのか、わからなかった。
けれど、負けるつもりは毛頭ない。
『こちらへ来い、娘よ』
「行かない方がいい、ユカリ」
プロメテウスがささやく。
ああ、何か悪いことが待っているのだ。
けれどきっと、行かなければヘラの呪いは解いてもらえない。
片手で短剣を握りつつ、ユカリは慎重にじりじりと距離をつめていく。
「本当に、ヘラの呪いを解いてくれるの?」
『こちらへ来れば、ヘラの呪いから解放しようではないか』
「ここからでは解けないの?」
『こちらへ来れば教えよう、哀れな娘よ』
完全な水掛け論だと判断すると、ユカリは小さくため息をついてかぶりを振った。
「……私、行くわ」
「ユカリ!? 本気か!?」
「だって、このままじゃ何も始まらないもの」
悲鳴に近い声を上げたアキレウスに肩をすくめ、ユカリは歩調を通常のそれに戻した。近づく彼女を待ちわびるように、じゃらじゃらと鎖の音が重なる。
恐ろしい姿。
むき出しにされた牙。
まさに猛獣そのものだ。
一時とはいえ、この神が神の世界を支配していたことが信じられず、ユカリは思わず足を止めた。
もう一度頭上を見やると、神と言うよりもむしろ怪物と言った方が正しいのではないかという表情のクロノスがいる。
かろうじて動く太い腕が、彼女にむかって差し伸べられた。
『さあ、早よう――』
一歩、また一歩。
足を踏み出すごとに、隠れていた不安が胸を満たしていく。
自分の呼吸が、やけに大きく聞こえた。
鎖だらけの腕に、手を重ねた瞬間――。
「――っっ!?」
後ろに強く引き戻された。
同時に感じる、灼熱の痛み。
以前にもそれと似たような感覚を経験していたユカリは、きつく眉根を寄せただけで声を押し殺す。
『おお……これぞ! これぞ!!』
「ユカリ、無事か!?」
歓喜に震えるクロノスの声。
アキレウスの必死な声。
彼に大丈夫だとうなずきながら、ユカリは深く切り裂かれた腕を強く押さえる。警戒していたにもかかわらずの失態に、思わず舌打ちがもれた。
「怪我は!」
「大丈夫」
焦るアキレウスに、大したことはないとうなずく。睨み付けたクロノスの目は、狂気に染まっていた。
『満ちあふれる……力が戻ってくる! やはりそなたは、我が娘!!』
歓喜に満ちたクロノスが、彼女達に近づこうと身動きをしている。その度にぎしぎしと音を立てる戒めは、あちらこちらに細かなひびが入り始めていた。
無言で進もうとするユカリと、それを強い力で止めるアキレウス。静かな攻防を繰り広げる二人の背後から小さなため息が落ちた。
「……だから言ったのさ、行かない方がいいと」
思わずユカリが振り向くと、プロメテウスが静かな声で続ける。
「君は生まれなかったはずの、クロノスの娘。正確には、その魂を持った人間――だった」