3 女神達の優雅な日々
ニンフから受け取ったティーセットを、こぼさないように気をつけながら小走りで駆ける。
大理石の床は、不思議と裸足でも冷たくなくて、むしろ靴を履いていた方が滑って転びそうだ。
かちゃかちゃと食器が音を立てる。
はしたないとは分かっていても、一秒でも早く敬愛する彼の神に会いたかった。
「アテナ様! お菓子をお持ちしました!」
「ユカリ、そんなに慌てることはないのよ」
ゆったりと微笑むのは、麗しい女神。
彼女をあの地獄から救った、そして暗闇から解き放った、ユカリにとって最も優先すべき対象。
金色の長い髪をゆるりと流し、華奢な椅子にゆったりと座った姿は、まるで一枚の絵のよう。そんなアテナの滑らかな手で頬をなでられて、ユカリは無意識にうっとりと目を閉じてしまう。
蜂蜜色の瞳がそんな彼女の姿を映していたが、その半分は長い睫で隠れてしまっていた。
そんなアテナと一緒にいるのは、やはり麗しいアフロディーテ。豊かな蜂蜜色の髪を豪奢に結い上げて、生花で飾っている。
ユカリもけして容姿が劣っているわけではないのだが、彼女の隣に立つのもおこがましいと感じてしまうほどの華やかさだ。アテナの宮殿のはずなのに、自分が主であるかのように、すっかりくつろいでいる。
アーモンド色の瞳は大きくて、長い睫はくるりと上にカールしている。
白魚のような手も小さくてすっと通った鼻筋も、男ならば絶対に守りたくなるような可憐さ。
けれど、全身から放たれるのは、アテナには絶対にない「色気」だ。
たとえ世界中の美女を集めたとしても、その中に隠れたアフロディーテは、絶対に一瞬で見つかってしまうだろう。
そんなアフロディーテに手招きされて近寄ると、ユカリの身体はさっと攫われ、豊かな胸にぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
別に貧相な体形というわけではないが(むしろ日本では標準以上だったと自負している)、アフロディーテの前では子供も同然だ。
「ああ、この小ささ! すっぽり収まる大きさ! やっぱりユカリは可愛いわねえ」
「アフロディーテ! 何をしているのですか!」
「何よ、減るものじゃないんだし。可愛いものを愛でるのは、神として当然のことでしょう?」
「確かにユカリは可愛いです! けれど、それとこれとは話が別です!!」
アテナの頬が、興奮で赤く染まってしまっている。そんなアテナも美しいと思うのだが、早くアフロディーテがからかっているだけだと気づいてほしい。
明らかにおもしろがっている口調で、アテナに聞こえないようにくすくす笑っているのだから。
ユカリへの親愛の情は本物だが、ダシにされている感が否めない。
「ア、アフロディーテ様、もうそのくらいで……。アテナ様がお気の毒です」
「ユカリはいつも一生懸命ねえ」
「だって……アテナ様は、私の命の恩人ですもの」
桜色の唇でくすりと笑うアフロディーテに、頬が熱くなるのを感じた。
あの時のアテナの凛々しさといったら、何度思い出しても素敵なのだから。
面白がるように群がる太い腕の中を逃げまどっているユカリの悲鳴を聞きつけ、アテナがニケを飛ばしてきたのだ。
『乙女に何という仕打ちをしているのです! その汚い手を放しなさい!!』
ニケが突き刺さった半径五百メートルの神々が吹っ飛んだ。
文字通り吹っ飛んだ。
そして、涙目で息も絶え絶えになっているユカリに、優しく微笑みかけたのだ。
もう大丈夫だと。
ちなみに、アテナの横にちょこんと控えている、亜麻色の髪の幼い少女。背中から真っ白な羽が生えていて、肌はすべすべふにふに。
文字通り天使のように可愛いこの子供が、実は武器になるなど、一体誰が想像できるだろう。
彼女はニケ。
アテナの腹心のような存在で、勝利の女神と呼ばれているらしい。
ユカリは(興味のない科目については)あまり真面目な生徒とは言えなかったが、美術の教科書か何かで、「勝利の女神ニケ像」とかいう彫刻を見た気がしないでもない。頭と両腕がなくて、船首につけられていたものだとか聞いた覚えがある。
いざという時はぴょんと飛び上がって、器用に空中で一回転する。するとたちまち一本の槍(この時の姿がニケ。アテナ愛用の武器)に姿を変えるのだから、初めて見せてもらった時にはそりゃあ驚いた。
こんな可愛い子が、まさか半径五百メートルの神方を吹っ飛ばすほどの力を持っているなんて!
ニケはしゃべらない。少なくとも、ユカリはしゃべっているところを見たことがない。
けれど、いつもにこにことしているから、少なくとも好意を抱いてくれているのだと思っている。
戦争に出ると、毎回のようにアテナもニケも怪我をして帰ってくる。
その度にユカリが泣きながら手当てをするのだけれど、そんな時でもアテナは彼女に優しいのだ。
『ユカリが手当てをしてくれると、なんだか治りが早い気がします』
『そんなことないです! お願いですから、怪我なんてしないで帰ってきてください!』
ぐしぐしと泣く情けない頭を、ニケがそっとなでて慰めるのもいつものことだ。アテナが彼女の心の支えなら、ニケは心の癒しだった。
それについて話すと、アフロディーテはいつも爆笑するのだが。
「アフロディーテ様も、こちらの果物はいかがですか? ニンフの皆さんに人気なんです」
「ええ、いただくわ。ニンフはこういうものには敏感よねえ」
艶やかに笑ったアフロディーテが、綺麗に切り分けられた果物を一房、優雅につまむ。満足そうにうなずくアフロディーテも、同性のユカリがうっとりしてしまうほど美しい。
「ユカリ、こちらにいらっしゃい」
「はい」
涼やかなアテナの声に導かれて近寄ると、ネクタルが注がれた杯を差し出された。
ネクタルは神の飲み物。人間のユカリが口にするには、畏れ多くてためらうものだ。
ユカリが慌ててかぶりを振っても、アテナもアフロディーテも笑うばかり。
「ここで生活しているんだから、食すのもおかしくないでしょ?」
「で、でも……私、人間です! こんなものをいただくわけには……!!」
「いいのですよ、ユカリ。誰が反論しようとも、私が許します」
アテナの優しい言葉に促され、震える唇でネクタルを一口含む。言葉に表せない程の芳潤さと芳香が口一杯に広がって、ユカリの頬が無意識にだらしなくゆるんだ。
「おいしい……」
「でしょう? ユカリにも一度、是非楽しんでもらいたかったのよ」
うふふと柔らかく笑うアテナからは、戦争の時の勇ましい姿は想像できない。
けれど、「戦に赴きます」と仰る時の凛とした美しい佇まい!
毎回毎回うっとりしてしまうユカリだが、絶対に誰でもそうなると信じている。
「ユカリ、あなたも私達の世話ばかりで疲れたでしょう。少し休んでいらっしゃい」
「そんな! 私、アテナ様のために働くの、幸せです!」
「嬉しい言葉をありがとう。でもね、ユカリ。あなたは人間なのですよ。少しは休息をとらなければ」
そう言って微笑むアテナの、なんて美しいこと!
ああもう、私ここに来れてよかった! 美人さん万歳!!
こっそり悶えるユカリの横で、アフロディーテがのんびりととんでもないことを言い出した。
「あら、でも。私、ユカリは神にしてもいいんじゃないかと思ってるわよ? 人間にしては親しみやすいし、可愛いし、ニンフ達も仕える相手として認識してるみたいだし」
ニケも一生懸命にこくこくとうなずいていて、ユカリは一瞬、状況も忘れてその愛らしさに頬をだらしなくゆるませてしまった。
慌てて顔を引きしめて否定しようとしたところで、よりにもよってアテナまで同意してしまう。
「確かに……ニンフがあのように、人間に対して献身的に仕えるのは珍しいですね。もしかしたら、神になるべくしてここに来たのかしら? ユカリは」
うふふと笑ったアテナは、しかし次の瞬間表情を一変させた。
「ああ、でも、人間を神にするにはあの忌々しい父上の許可を得なければ……! ユカリをこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいきません!」
どこがどう危険なのか、ユカリにはよくわからなかった。
だが、父上というからにはゼウス。
そしてイコール、男の神。なるべく会いたくはない。
想像しただけで涙目になりながらアテナにすがりつくと、大丈夫というように優しく髪の毛を梳かれる。
それはまだ、彼女が平和に暮らしていた頃のいい思い出。