29 タルタロスへ
クロノスのところへは、彼女一人で行くしかない。というよりも、これほど人を振り回してくれたクロノスには、一発お見舞いしなければユカリの気が済まなかった。
単なる私怨にアキレウスを付き合わせるのは、さすがに申し訳ない。
そう割り切ってはいても、別れを惜しんでいる自分自身に、ユカリは僅かに戸惑った。
そんな彼女の耳に、思いがけない言葉が飛び込んできた。
「――何言ってんだ、お前。俺も行くに決まってんだろ」
首を傾げた彼女に、アキレウスは小さくため息をつく。どうやら、別れる気満々だったことは気づかれていたようだ。
「ここまできて逃げ出すなんて、ありえねえし」
そう笑うアキレウスは、本当に当然のことを言っているように見えて。
何故か涙があふれた。
そんなユカリに、アキレウスが苦笑する。
「泣くなって。――プロメテウス、クロノスの居場所はわかるな?」
「私に案内しろと?」
「取引のためとはいえ、助けてやったんだ。見返りを求めるのが人間の性だっつーの」
「やれ……人間は、本当に欲深い。クロノスの元に行くのは、お勧めしないけれどね」
プロメテウスは、控えめに言ってもあまり乗り気ではないようだ。思いっきり顔をしかめている上に、口調も苦々しい。案内はしたくないと、全身で表現していた。
ユカリとしても、そんな態度で案内されるのは御免だったのだが、アキレウスが声を出せないユカリの代わりに交渉を始めてしまった。
「ユカリはヘラの呪いを解きたがってる。そのために、クロノスのところに行くんだ」
「クロノス、ねえ……」
もって含めたようないい方が、ユカリの神経をざらりとなでつける。
アキレウスが壁になってくれているからよかったものの、まともに対面していたら、間違いなく彼女の拳がプロメテウスの鳩尾に沈んだだろう。
冷たい視線を送るユカリをしばらく眺め、彼は小さくため息をついた。
「――たとえ何があろうとも、私は責任をとらないよ」
「何があるってんだよ」
「私の口からは、何とも。確定した未来ではないし、好き好んで言うべき内容でもない」
つまり、あまりいい内容ではないと。
不吉な話は聞かないに越したことはない。
それに、この男に言われるのも癪だったので、ユカリも言わなくていいとうなずいた。
「では行こう、タルタロスへ。――しっかりとついておいで、さもないとヘカトンケイル達の餌食になるからね」
プロメテウスがもたれていた身体をどけると、そこに冥い入り口ができあがっていた。
一瞬アキレウスと視線を交わし、一歩踏み出す。
いつの間にか、女神達の姿は消えていた。
その代わりというように、青い小鳥が一匹羽ばたいていったのを見やり、ユカリは闇の中に足を踏み入れた。




