28 プロメテウスの、問い
ギリシャ神話の中で死んだならば、やっぱり行くのはハーデスのところなのだろうか。
そう思いながら目を開けたユカリの目に入ったのは、困惑した表情の女神達と驚いているアキレウス達の姿。
「何故――」
女神の一人が、信じられないというようにハサミを見やる。何度も彼女の胸の上で開いたり閉じたりしては、他の女神達と顔を見合わせている。
むくりと起き上がったユカリに、女神はおののいてすらいるように見えた。
「貴女は人の子。そのはずなのに、私達の鋏では定められた命運の糸を完全に断ち切れない。貴女は一体、何者なのですか」
早口でまくし立てる女神に、ユカリが思った正直な感想は、「そんなこと言われても」。
動かなかった身体が、いつの間にか思い通りに動くことができた。ただそれだけなのだが。
ひとまず女神達に会釈をしたユカリが、状況説明を求めてアキレウスに近寄る。
目が覚める前とは、何かが違っていた。
小さなことでくよくよと悩むのが馬鹿らしいと思えるほどに、ユカリの思考はクリアになっている。
『この方々は? 何があったの?』
「何があったのって、お前……」
ぐしゃりと髪をかき乱したアキレウスは、しばらく声にならない声で呻くと、女神達を指し示した。
「この三柱は、運命の女神達。ざっくり言うと、人間の命の長さを決める神だな」
ざっくりすぎて参考にならなかった。だから何だと冷たい視線を送るユカリに、アキレウスはもう一度ため息をつく。
「そのハサミで、人の命の糸を断ち切る。――ユカリ、お前は死んだはずだ」
「それなのに、君は生きている。傷すらも全て癒えた状態で」
枷がはまったままの両腕を組み、岩にもたれかかって脚を組んでいるプロメテウスが続ける。
疲れは隠せていないものの、その瞳は面白そうに輝いていた。彼もまた、傷はすっかり癒えている。
そうか、私は怪我をしていたのか。
ずれた部分に納得するユカリに、プロメテウスが思いがけない変化球を投げつける。
「さて、ユカリといったか。ここで君に質問だ。君は誰と取引をした?」
瞬間、彼女の細い身体が強ばった。
彼女もアキレウスも、「誰かとの取引のために」プロメテウスを助けに来たとは口にしてはいない。
何故知っているときつく睨みつけても、プロメテウスの余裕は崩れなかった。絶対的優位者の空気を感じとり、ユカリは小さく歯ぎしりをする。
言ってもいいのだろうか。この場で幽閉されているあのクロノスの名前を出して、何事も起こらないという保証はあるのだろうか。
というか、あったらプロメテウスに全ての責任を押しつければいいか。
悩んだのは一瞬だった。
脳内でそう結論づけ、ユカリは短剣を地面に突き刺す。
『――クロノス様』
鋭い切っ先で書いた文字は、緊張で小さく震えていた。その文字を見た女神達が息を飲み、プロメテウスはしたり顔でうなずく。
「やはりそうか。見たところ、ヘラの呪いがかかっているようだし? そんな状態の君に取引を持ちかけられるのは、ティターン族ぐらいしかいない。それも、かなり上位の」
そして、力を行使できるティターン族は数少ない。
そんな理屈を述べられたけれど、ユカリは彼の、全てを見透かすような瞳が気に入らなかった。
隠していることまでも全て暴きたてられそうで、自分の汚い部分をさらけ出されそうで。
それを他人にされることは、彼女にとってこの上ない侮辱だった。
小刻みに震える手に、気がつかれてしまっただろうか。気がつかれたとしても、それをプロメテウスに対しての怒りではなく、クロノスへの恐怖だと思ってもらえただろうか。
落ち着け、私。
ここでこの男を殴り飛ばしても、何も変わらない。
必死に怒りを静めるユカリを、アキレウスの大きな身体が遮るように隠す。見慣れた彼の姿に安堵と緊張からの解放が一気に押し寄せ、ユカリの身体から力が抜けた。
「ユカリ。クロノスのところに行くか?」
小さくうなずく。
ここでアキレウスともお別れだろう。少なくともユカリならば、この上なく危険だとわかっている場所に、単なる情の移りだけでついて行きはしない。
『――さよなら、アキレウス。今までありがとう』
文字を書く手が、何故か震えた。