24 懐かしい手紙
「ユカリ。ユカリ、起きろ」
男にしてはちょっと高め、女にしては低いアキレウスの声。もうすっかり慣れ親しんでしまったそれに促され、ユカリも手早くベッドから起きあがって身支度を整える。
人目を避けながら二人がこっそりと向かった先は、草一本生えていない、ごつごつとした岩場だった。一歩踏み出すごとに小さな砂埃が立つその中、洞窟はさらに奥まった場所にひっそりとあった。
暗闇の中にぼんやりと見える人影を認め、アキレウスがユカリを制して立ち止まる。
「……三人」
呟く彼の声が固い。それにつられて、ユカリの身体も強ばった。
ヘファイストスがその中にいるにしては、どの人影も小柄に見える。男だと判断するにしては、奇妙な大きさだった。――罠だろうかという考えが、二人の脳裏をよぎる。
背中にしがみつくユカリをかばうようにして、アキレウスがじりじりと洞窟に近づく。
あと数メートルとなったところで、中から女性の小さな声がかかった。
「アキレウス。そして、人の子よ。早くこちらへ。時間がありません」
その声で、アキレウスの肩から力が抜けた。歩幅も一気に大きくなる。
「ユカリ、行くぞ」
アキレウスが心を許す神。ということは、害はない。
何故か自分の胸がもやもやしているのを感じたが、それよりも味方だということが嬉しかった。
足下を確かめながら中に入ると、ぼんやりとしか見えなかった人影が、一気に鮮明になった。明かりがついたというわけではないから、そこは多分神だからという理由で納得しなければならないのだろう。
そう自分を納得させて、ユカリは改めてアキレウスの後ろから身体を離した。
彼女達の目の前にいたのは、三人の女神。
その中の一人が、一歩進み出た。
「アキレウス、久しいですね」
「相変わらずだな、ディケ」
親しそうな二人の会話に、ユカリの胸のもやもやが大きくなる。
世間話はいいから、早く情報がほしい。
もやもやの正体を知る事を無意識に避け、ユカリはぽつりと思った。
置いていかれた形になっていたユカリに、アキレウスが笑顔で振り向く。その手は女神の肩に回されていて、今度は胸がちくりと痛んだ。
「ユカリ、この三人はアフロディーテの侍女みたいなもんだ。ヘファイストスが送ってくれた」
アフロディーテに侍女がいるとは初耳だが、言われてみれば、彼女達の髪を彩るのは四季折々の花だった。小さく目礼をしたユカリに、女神達が微笑む。
「特に、このディケ――まあ、正義を司る神だな。こいつとは、生きていた頃から色々と世話になってた。信頼できる」
アキレウスの紹介を受け、ディケが柔らかく口を開いた。
「私達の母はティターン族。父はゼウスですが。プロメテウスならば、またゼウスの怒りを買ってカウカリス山に磔にされていますよ」
「カウカリス山? ――また、あの罰か」
アキレウスの顔が渋くなる。ディテも彼もさらりと流したが、ユカリは磔という言葉に背筋が寒くなった。その脳裏に、イエス・キリストの磔の像が思い浮かぶ。
手足を釘で打ち抜かれ、そこからとめどなく流れ出る血。
絵画でよく見たあの姿を、生で見ることになるのだろうか。
血の気が引いていくユカリに気づいたのか、アキレウスがディケから離れて彼女に近づく。
触れはしないものの、彼がユカリを心配しているということは、彼女にもはっきりと感じ取れた。それだけで、少し呼吸が楽になる。
「大丈夫か? どうした、ユカリ」
『何でもない。大丈夫』
かぶりを振ってそう返すと、アキレウスもほっとしたようだった。そんなユカリに、女神達が話しかける。
「人の子よ。これを」
手渡された数枚の羊皮紙に、ユカリは小さく首を傾げる。この女神達とは全く面識がないはずなのに、手紙とはどういうことだろうか。
その疑問は、開いてみてすぐに解けた。
『ユカリ、元気にしていますか? あの若作りのヘラにあなたをかっ攫われて、私達は毎日眠れぬ思いです。誰か頼れる人は見つけられたでしょうか? まさか、小汚い男にいやらしいことを強要されていませんね? もしそうだったらすぐに返事を下さい、どこであろうと必ず駆けつけて、鉄槌を下しに行きますから。
あなたがいない宮殿は、大輪の花がなくなったようにどこか色あせて見えます。貴方の声が聞きたい、ニンフ達もそう言っては寂しがっています。
ユカリ、ユカリ、早く帰ってきてくださいな。私も全力を尽くします。あの若作りの宮殿に、勝負を仕掛けに乗りこみますから、その隙にこの手紙を届けてもらう手筈を整えてあります。どうか、この作戦が成功しますように。 アテナ』
――アテナの筆跡だっだ。
この流れるように繊細で美しい文字を、彼女が見間違えるわけがない。
毎日毎日、時間を見つけては彼女に教えていた、女神の優しい笑顔が目に浮かぶ。
続いての羊皮紙を開くと、そこには見覚えのない几帳面で綺麗な文字。
そして、華やかな飾り文字をつけた文字。
その二つが、仲良く並んでいた。
『ユカリ、私の短剣は役に立っているだろうか。ヘラの暴挙を、改めて謝罪したい。本当にすまない、君は巻きこまれただけだというのに。ヘラを説得しようとしても、聞く耳を持たない状態だ。私にできるのは、ただ武器を鍛えるだけ。アキレウスに合わせた剣を新たに打った。この手紙と共に持たせるから、どうかアキレウスの力としてほしい。
アテナ達がヘラと戦っているうちに、アフロディーテに頼んでこれを届けてもらう。うまくいくことを祈っている。最後にユカリ、本当に困ったことがあったら、いつでも私を呼んでくれ。ヘラの息子として、できる限りの助力をしよう。 ヘファイストス』
『ユカリ、元気? まあ、完全に元気じゃないわよね。あなたがいなくなってから、アテナ達が意気消沈しすぎて辛気くさいわ! これじゃあ、からかおうと思ってもできないじゃない。しょうがないからあの子に入れ知恵をして、ヘラの所に殴りこみをかけに行かせたわ。元々あの二人、仲悪いからねえ! どんな大爆発が起きるか、今から楽しみだわ。
この手紙を持っている子達は、私の侍女。だから安心してね。季節も司っている子達だから、地上の巡回云々って言ってごまかしてるし、ヘラも気づかないと思うわ。どうしてプロメテウスの居場所を探しているのかはわからないけど、私の情報網をもってすれば簡単よ! というわけで、伝言を頼んだから。
早く帰ってきてね、あなたを抱きしめて可愛がって、アテナをからかい倒したいわ。また会える日を楽しみにしてるわね。 アフロディーテ』
食い入るように文面を読むユカリの横で、女神の一人がアキレウスに剣を渡した。
鞘から抜き放って刀身を確かめたアキレウスは、満足そうに唇の片端を上げる。どうやら、彼のお眼鏡にかなうほどの逸品だったようだ。
全ての手紙を読み終えたユカリと剣を鞘に収めたアキレウスに、女神達は軽く礼をとった。
「では、私達はこれで。ヘラの監視は厳しさを増しています。どうか気をつけて、人の子よ」
「我らの主も、貴女をずいぶんと気にかけていました。どうか無事で」
「幸運を祈ります」
すうと消えていく女神方に、ユカリは深々と頭を下げた。
アフロディーテとヘファイストスに、心からの礼を思いながら。