20 天の中の人間界
人間界は天界と比べるとどこか薄暗く、大理石の色もくすんで見える。草花で覆われておらず、踏み固められた土の道は整然としていたけれど、ユカリにはただ土埃が邪魔だとしか思えなかった。
アテナからもらった、大切なキトンを売り払って、代わりに麻でできた筒のようなキトンに着替えた。ごわごわした感触と、アテナとの思い出の品が無くなってしまったことに、少しだけ泣いた。
逃げ出す時に持ち出した、唯一のよすがを失うのには、さすがの彼女も抵抗した。それでも、万一神気がまとわりついているといけないからとアキレウスに説得され、唇を噛みしめて衣装屋へ手渡した。
それ以上に全てを捨ててくれたのは、アキレウスの方だったから。
どんなことがあっても我慢しよう、石造りの埃っぽい街並みを見ながら、そう決心したのに。
ユカリを待っていたのは、厳しい現実だった。
夜になるのを待たずに、毎日聞こえる男女の声。終わった後の女達から放たれる、独特の臭い。部屋中に充満した、あの臭い。
男達から貢がれた装飾品を身に纏い、きらびやかに装った女達にさえも、ユカリの拒絶反応が出そうだった。
隠れながら行動していても、時々見つかって、男に捕まりそうになった。声が出ないから、悲鳴を上げることもできない。必死にもがいて逃げ出して、誰もいない部屋の隅っこで泣き続けた。
ここでは誰も、彼女を気にしない。そういう約束でユカリ達は雇われた。
普通の裏方と同じ、単なる女中。
当然、行為の後片づけもしなければならない。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
頭の中がその単語でいっぱいになる。
どうして男はこうなの? どうして歓楽街なんてものがあるの? 別に、こんなことをしなくても生きていけるじゃない。奥さんがいる人もいるだろうに。どうして愛している人以外の相手とできるの?
ここで働く女達は、何故この道を選んだのだろうか。好きでもない相手に毎晩何度も抱かれて、どんな気持ちなのだろうか。
一度、訊いてみた。答えは簡単だった。
「気持ちいいもの。それに、あたしにできることも他にないしね。みんな金払いがいいから、結構割のいい仕事よ?」
答えを聞いて、ユカリは一瞬でその女を軽蔑した。あるいは、金に困って売られたのだと聞かされれば、反応は違ったかもしれない。
けれど、自分の快楽を優先するなんて。好きな人がいないからって、数え切れないほどの男に抱かれて何とも思わないなんて。裏方で生きる道だってあっただろうに。
そう考えるのはユカリが平成の世の中に生きていたからであって、実際には女が働く事など言語道断の世界だったのだ、古代ギリシャという場所は。
彼女達にも様々な背景があって、事情があって、それでも負の部分まで丸呑みして受け止めて、彼女達なりに生きているのだ。
それをユカリにわかれというのは、彼女達に平成の日本を理解しろと言うくらい無茶な注文だった。
『そうですか。ありがとうございます』
そっけなく書いて突き返した後に、ちらりと女に悪かったかという思いが心をよぎった。けれど、嫌悪感をごまかすために、ユカリはそうするしかなかったのだ。
裏の仕事は厳しい。
敷布の洗濯。部屋の清め。めまぐるしくやってくる客のための、女達の衣装の整え。その他小物の管理。
とにかく、情事に関することが多いのだ。
小物の管理なんて大したことはないと思うかもしれないが、個人的な貢ぎ物を除けば大切な店の備品。一つでもなくなっていたら、誰がどこで失くしたのかを徹底的に追及される。ユカリはしゃべることができないから、意思の疎通も難しい。自然と追及の手も厳しくなる。
しゃべるよりも書く方が遅い分、その間にもさらに責められるのだ。
その度にアキレウスが助けに入るのだが、汚い言葉で激しく罵られる精神的な苦痛は、回を重ねるごとに酷くなっていった。
男の気配が纏わりつく仕事は辛い。裏方の仕事も、覚悟していたよりもずっと辛い。
――逃げ出したい。
歓楽街は、けして彼女に優しい隠れ場所ではなかったのだ。
もちろん、好意的な妓女も何人もいた。自分の花代から少しだけ取り分けて、ユカリに「好きなものを買っておいで」と言ってくれた人もいた。
けれど、それで帳消しにできるほど、彼女の心の傷は浅くなかった。
そんなある日、店の裏の方にある倉庫の整理を頼まれた。普段は古参の者が担当する、特に注意を払わなければならないものがたくさんある場所だ。
何故、自分にその役割が回ってきたのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、ユカリは言われた通りにおとなしく倉庫に向かった。
古い備品がたくさんある倉庫。その中の一つ一つを丁寧に拭って、埃を払っていく。壊れやすいものもあるから、手つきも自然と慎重なものになる。
集中して、集中して、繊細な装飾に傷をつけないように気をつけて。
息を止めるほど集中していたから、気づいた時にはもう遅かった。
「ユカリ」
耳元で聞こえる、記憶にある声。
もう二度と会いたくないと思っていた声。
ぞわりと、全身に寒気が走った。