2 目覚め
薄手のカーテンから差しこむ柔らかな光が、一人の少女を包んでいる。大きく豪奢なベッドに横たわる彼女は、真っ白なシーツに埋もれて、静かに瞼を閉じていた。
艶のあるまっすぐな黒髪が白いシーツに広がり、抽象画のようなコントラストを描いている。閉じられた瞼を縁取る睫は長く、精巧なビスクドールを思い出させた。
白い肌。薄く色づいた唇。
今にも動き出しそうなそれは、しかし固く閉ざされたままだ。
床も天上も調度品も、全てが大理石でできた真っ白な部屋の中で、彼女だけが漆黒を纏っていた。
やがてその部屋に、ニンフ達が滑るように入ってくる。
カーテンを開け、水差しや着替えを手にした彼女達は、一様ににこやかな表情で少女を囲んだ。
「おはようございます、ユカリ様」
朝でございますよ。
最も少女に近いニンフが、そっと彼女の肩に触れる。人形のように身じろぎ一つしなかった彼女の瞼が、小さく震えた。
ゆっくりと開かれた瞼からのぞいた瞳の色は、やはり黒。
大きな瞳が完全にあらわになると、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「おはようございます、皆さん」
意志の強そうな、涼やかな声。けれど喜色を含ませたそれは、とても柔らかく響いた。
そしてまた、一日が始まる。
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ユカリは人間だ。しかも、日本人。
そんな彼女が何故、仮にも神の端くれであるニンフにかしずかれているのかは、ユカリ本人にもわからない。
けれど、一様に好意的に接してくれる彼女達に、ユカリはそれ以上の好意を示していた。
美しいものを見つければ、彼女達に見せに行き。おいしいと感じた果物を、みんなで分けて食べ。
身の回りの世話をする者とされる者、その垣根を越えて交流していた。
薔薇の花びらを散らせた洗面器で顔を洗い、ふわふわのタオルで丁寧に拭われる。その後の肌の手入れも、ニンフ達が競うようにして念入りに行う。
それを黙って人形のように受けているユカリは、しかし柔らかに微笑んでいた。
これもまた、毎朝の光景。
たっぷりとドレープを作ったキトンは、一体何でできているのだろうか。シルクよりも格段に肌触りが良く、しかし羽のように軽かった。
化粧台に腰掛けたユカリの髪を、ニンフの細い手が器用に結い上げ、そこに生花がいくつも飾られる。
「相変わらず、美しい漆黒の御髪。指触りも最高ですわ」
「白い花がよく栄えますわね」
「せっかくの桃色の唇を、紅で隠してしまうのは惜しいこと。軽く蜜を塗るだけにしておきましょう」
「せっかくの大きな瞳ですもの、もっと華やかにしてさしあげなければ」
「お粉も少しで結構ですわね、これだけきめの細かいお肌ですもの」
口々にユカリを褒めながら、ニンフ達は好きなように彼女を飾りあげていく。けれどそのセンスに間違いはなく、黒髪に生けられた花々は、真珠のように彼女を彩っていた。
西洋人と比較すると幼く見える容貌も相成って、ユカリは海から打ち上げられた人魚姫になったような錯覚を覚える。
「ユカリ様、今日もお似合いですよ」
「ありがとうございます」
笑顔で礼を言ったユカリに一礼し、ニンフ達が静かに部屋を出て行った。姿鏡で自分の格好をチェックして、ユカリは彼女達の仕事の完璧さにため息をつきたくなる。
薄く施された化粧。睫の一本一本まで、くるんと上を向いている。
もちろん、唇も蜜で濡れて輝いている。それらは男を誘うような色気ではなく、どこまでも無垢な少女の印象を強く押し出していた。
一部の乱れもない、美しいドレープ。多ければ多いほど位の高さを表すといってもいいそれは、女神達に負けないほどたっぷりと惜しげなく生地を使って作られている。くるりと一回転してみると、裾がふわりと舞ってその美しさがさらによくわかった。
綺麗に結い上げられた髪。生花は絶妙な配置で、うるさすぎず寂しすぎず、彼女自身が見てもうっとりしてしまうほどだった。
運ばれてきた朝食をゆっくりと食べながら、窓の外を眺める。
天候の荒れなどありえないこの天界は、今日も綺麗な青空が広がっている。
地面には一面に花々が咲き乱れて、やっぱりここは神の住む世界なのだと実感する。
あちらこちらに建っている白亜の宮殿と、色とりどりの花々。そして、青い空のコントラストがとても美しかった。
この景色にも、すっかり慣れてしまったと、ユカリはぼんやりと考える。ここに落ちてきた当初は、あれほど毎日泣いてばかりだったというのに。
恋しかった。
家族との何気ない会話、携帯でのメールのやりとり、友人とのウィンドウショッピング。
元の世界の全てが恋しかった。帰りたくて帰りたくてたまらなかった。
どうして私が。なんでここに。望んできたわけじゃないのに!
食事を出されても、食欲がわかなかった。
違う世界だとまざまざと見せつけられる、外の景色が怖かった。
豪奢なベッドが、かえって自分の部屋ではないのだと思い知らされるようで嫌だった。
分厚いカーテンを閉め切って、夜も昼もなく泣き続けたユカリに、彼の神はずっとついていてくれた。自身の仕事もあっただろうに、ずっと彼女を抱き寄せて頭をなで続けていた。
『泣かないで、愛しい子。きっといつか、あなたの世界に帰る日が来ます』
『大丈夫、必ず私が方法を見つけてみせますから』
『ユカリ。ほら、果物の汁を搾ってもらったの。泣いてばかりでは、そのうち身体を壊してしまうわ。帰る日のために、力をつけなければ』
その時のユカリには時間の感覚などなかったから、それが何日間だったのかはわからない。けれど、少なくとも彼女にとっては、長い長い時間だった。
それこそ、永遠に思えるほどに。
いつになったらこの悪夢が終わるのか、それしか考えていなかった。
そんな長い間、彼の神は文字通りつきっきりでいてくれたのだ。
ひたすら彼女の体調を心配し、なぐさめ、時には手ずから食事を与えてくれた。
帰る手段がないとわかった時は、泣きわめくユカリを抱きしめて、自らもほろほろと涙をこぼした。
涙も枯れ果てて、人形のようになったユカリに、彼の神は言った。
『心配しないで、ユカリ。私の力の及ぶ限り、全力であなたを守るから』
そうして開かれたカーテン。
その向こうに広がっていた突き抜けるような空の青さと、彼の神の光のような笑顔を、彼女は一生忘れない。
たとえ二度と戻れなくとも、このお方に一生を捧げようと、そう思った。