表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Αの女神とΩの娘  作者: 真咲 楓
本編
19/38

19 逃亡

                  ********





 彼は覚えていた。

 あの感触、あの味。

 思い出したくはなかった。

 だがしかし、彼は飢えていた。力が必要だった。

 今一度禁忌を犯そうとするほどに。

 獲物はすぐ側にいる。焦ることはない。

 全ての舞台は整った。

 後はそう――待てばいいのだ。ただ。





                  ********





 走る、走る、走る。

 見えない追っ手に怯えて、ひたすら走る。


 荷物はほとんど、アキレウスが持っている。家財道具も何も持たず、本当に生きていくのに最低限のものだけだ。

 服もずっと簡素なものにして、もう数日風呂に入っていない。履き慣れたサンダルはぼろぼろにすり切れて、随分と薄汚れてしまった。


 眠る時は大抵野宿。獣が寄りつかないように気をつけながら、固い地面の上で横になるのにも慣れてしまった。おかげで髪も砂だらけ、触れた指にじゃりじゃりと嫌な感触を返してくる。


 人間界に逃げる。


 あの後、アキレウスはユカリにそう言った。天界にいるよりは、ヘラの目を誤魔化しやすいだろうと。


 どこをどう走っているのかすらわからない。ここが天界なのか、人間界なのか、――それとも、全く違うどこかなのか。


 どこまで気づかれているのだろうか。

 ヘラは、ユカリの現在位置まで把握できるのだろうか。

 ――アキレウスが一緒だということも、知られているのだろうか。


 面倒事を嫌っていたアキレウス。ヘラに目をつけられたくないからと、アテナのところへの案内を断ったアキレウス。けれど結局、彼の優しさに甘えて、巻きこんでしまった。

 対して、自分は何も持っていない。唯一役に立ちそうなものは、ヘファイストスが餞別にとくれた短刀一本のみ。――アキレウスに返せるものは、何もない。自分の不甲斐なさに、悔し涙が出てきた。


 それをたまたま振り返ったアキレウスが見つけて、心配そうに眉を顰める。



「ユカリ、休むか?」

『だい じょ ぶ』



 そこらにあった棒きれを拾って地面に書き殴った文字は、はたして読めただろうか。厳しい表情でうなずいたアキレウスが、また走り始める。荒れた道に、砂埃がたった。


 やっとの思いでそれについていきながら、ユカリはからからの喉に唾を飲み込む。血の味がするような錯覚を覚えていた喉は、唾ごときでは治らなかった。

 それでも、ユカリが文句を言うのは筋違い。アキレウスは彼女に合わせて、かなりペースダウンしてくれているのだから。



『どこ 行く?』



 ようやくとれた休憩中、水で乾きを潤しながらそう訊くと、言いにくそうにしたアキレウスが微妙な顔をして答えた。



「歓楽街。あそこなら女だらけだし、ヘラの目も少しはごまかせるだろ」



 女だらけという単語に、ユカリが小さく反応した。

 彼女の予想が外れていなければ、アキレウスはわざわざ男が極力少ない場所を選んでくれたはずだ。


 男嫌いのユカリのために、女装をしてくれているアキレウス。その上、居場所まで考えてくれているアキレウス。

 ありがたすぎて、言葉も出ない。


 だからというわけではないだろうが、最近ようやく手をつなぐのだけは大丈夫になった。

 手をつなぐだけは。


 他は無理。いくらアキレウスでも無理。見た目美女でも無理。


 自分の様々な涙ぐましい努力と、それに反比例するかのような結果の数々に、ユカリは思わずほろりとなってしまった。そんな彼女に、アキレウスが真剣な声をかける。



「いいか、ユカリ」



 何事かと思って視線をやると、アキレウスは怖いほどの鋭い眼差しだった。



「歓楽街は、欲望の街だ。当然男も大勢くる。お前、それに耐えられるか?」



 ――そうだった。

 軽く考えていたけれど、歓楽街ということはつまり、そういうことをする場所で。


 そんなところで、自分は嫌悪感を隠さずに生活できるだろうか。特に、女性を買いにくる男達に。


 想像してみて、背筋がぞくりとした。

 同時に感じる、男への強い拒否反応。


 その感覚が伝わったのだろうか、アキレウスが気遣わしげな表情になる。強ばった表情を無理矢理微笑みに変えてうなずくと、かえって心配された。



「……嫌ならやめるぞ?」

『大丈夫。お姉さん達の陰でこっそりしてる』

「そうか……無理だと思ったら、いつでも言えよ」

『ありがとう』



 優しいアキレウス。

 自分のことなんてそっちのけで、ユカリを第一に考えてくれるアキレウス。

 本当なら、縁もゆかりもない彼女のことなど、放り出すのが一番いいというのに。


 けれど、見捨てられたなら、きっと自分は泣くのだろうと、ユカリはぼんやりと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ