19 逃亡
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彼は覚えていた。
あの感触、あの味。
思い出したくはなかった。
だがしかし、彼は飢えていた。力が必要だった。
今一度禁忌を犯そうとするほどに。
獲物はすぐ側にいる。焦ることはない。
全ての舞台は整った。
後はそう――待てばいいのだ。ただ。
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走る、走る、走る。
見えない追っ手に怯えて、ひたすら走る。
荷物はほとんど、アキレウスが持っている。家財道具も何も持たず、本当に生きていくのに最低限のものだけだ。
服もずっと簡素なものにして、もう数日風呂に入っていない。履き慣れたサンダルはぼろぼろにすり切れて、随分と薄汚れてしまった。
眠る時は大抵野宿。獣が寄りつかないように気をつけながら、固い地面の上で横になるのにも慣れてしまった。おかげで髪も砂だらけ、触れた指にじゃりじゃりと嫌な感触を返してくる。
人間界に逃げる。
あの後、アキレウスはユカリにそう言った。天界にいるよりは、ヘラの目を誤魔化しやすいだろうと。
どこをどう走っているのかすらわからない。ここが天界なのか、人間界なのか、――それとも、全く違うどこかなのか。
どこまで気づかれているのだろうか。
ヘラは、ユカリの現在位置まで把握できるのだろうか。
――アキレウスが一緒だということも、知られているのだろうか。
面倒事を嫌っていたアキレウス。ヘラに目をつけられたくないからと、アテナのところへの案内を断ったアキレウス。けれど結局、彼の優しさに甘えて、巻きこんでしまった。
対して、自分は何も持っていない。唯一役に立ちそうなものは、ヘファイストスが餞別にとくれた短刀一本のみ。――アキレウスに返せるものは、何もない。自分の不甲斐なさに、悔し涙が出てきた。
それをたまたま振り返ったアキレウスが見つけて、心配そうに眉を顰める。
「ユカリ、休むか?」
『だい じょ ぶ』
そこらにあった棒きれを拾って地面に書き殴った文字は、はたして読めただろうか。厳しい表情でうなずいたアキレウスが、また走り始める。荒れた道に、砂埃がたった。
やっとの思いでそれについていきながら、ユカリはからからの喉に唾を飲み込む。血の味がするような錯覚を覚えていた喉は、唾ごときでは治らなかった。
それでも、ユカリが文句を言うのは筋違い。アキレウスは彼女に合わせて、かなりペースダウンしてくれているのだから。
『どこ 行く?』
ようやくとれた休憩中、水で乾きを潤しながらそう訊くと、言いにくそうにしたアキレウスが微妙な顔をして答えた。
「歓楽街。あそこなら女だらけだし、ヘラの目も少しはごまかせるだろ」
女だらけという単語に、ユカリが小さく反応した。
彼女の予想が外れていなければ、アキレウスはわざわざ男が極力少ない場所を選んでくれたはずだ。
男嫌いのユカリのために、女装をしてくれているアキレウス。その上、居場所まで考えてくれているアキレウス。
ありがたすぎて、言葉も出ない。
だからというわけではないだろうが、最近ようやく手をつなぐのだけは大丈夫になった。
手をつなぐだけは。
他は無理。いくらアキレウスでも無理。見た目美女でも無理。
自分の様々な涙ぐましい努力と、それに反比例するかのような結果の数々に、ユカリは思わずほろりとなってしまった。そんな彼女に、アキレウスが真剣な声をかける。
「いいか、ユカリ」
何事かと思って視線をやると、アキレウスは怖いほどの鋭い眼差しだった。
「歓楽街は、欲望の街だ。当然男も大勢くる。お前、それに耐えられるか?」
――そうだった。
軽く考えていたけれど、歓楽街ということはつまり、そういうことをする場所で。
そんなところで、自分は嫌悪感を隠さずに生活できるだろうか。特に、女性を買いにくる男達に。
想像してみて、背筋がぞくりとした。
同時に感じる、男への強い拒否反応。
その感覚が伝わったのだろうか、アキレウスが気遣わしげな表情になる。強ばった表情を無理矢理微笑みに変えてうなずくと、かえって心配された。
「……嫌ならやめるぞ?」
『大丈夫。お姉さん達の陰でこっそりしてる』
「そうか……無理だと思ったら、いつでも言えよ」
『ありがとう』
優しいアキレウス。
自分のことなんてそっちのけで、ユカリを第一に考えてくれるアキレウス。
本当なら、縁もゆかりもない彼女のことなど、放り出すのが一番いいというのに。
けれど、見捨てられたなら、きっと自分は泣くのだろうと、ユカリはぼんやりと思った。