18 請い願う手紙
癇癪を起こしたように見えたのだろうか。
ただただ泣き続けるユカリを、男性陣はどうすることもできずに困っているようだった。
やっとの思いで泣きやんだ彼女が顔を上げると、あからさまにほっとした顔になった。
震える手で手元にあった羊皮紙を引き寄せ、ユカリは自分にできる限りの丁寧な文字を綴る。
『初めまして、ユカリです。さっきはすみませんでした。よろしくお願いします』
まるで小学生の作文。けれど、今の彼女にはこれが精一杯。
アキレウスの後ろからそっと手を伸ばして差し出すと、受け取ったヘファイストスの顔がほころんだ……ように見えた。目元が柔らかくなったから、多分そうなのだろう。
「私はヘファイストス。貴女のことは、アフロディーテからよく聞いていた」
アフロディーテ。
アフロディーテ、美の女神。
あの美しい女神とこの男は、どんな関係なのだろうか。
首を傾げたユカリに、アキレウスがあっさりとその答えを教えた。
「ああ、こいつ、アフロディーテの旦那。んでもって、ヘラの息子」
己の耳を疑った。
ヘファイストスが、アフロディーテの夫。
控えめに言っても美しくないこの男神(神だとさえ思えなかったのだが)が、彼女と結婚しているとは。
アフロディーテが既婚だということは知っていた。旦那がいることも聞いていた。幸せそうに顔をほころばせる女神は、本当に美しかった。
だがどうして、この男神なのだろうか。彼女ならが、どんな美神も選びたい放題だろうに。
混乱しているユカリに首を傾げつつ、ヘファイストスは思いもよらないことを口にした。
「妻経由なら、多少の伝言はできる。アテナに何か伝えるか?」
――アテナ様に?
ユカリの脳裏に、あの優しい笑顔が弾けて消えた。
『大好きです。寂しいです。お会いしたいです。でも、頑張って早くお会いできるようにします。大好きです。見捨てないでください。絶対お会いできるようにします。待っててください。アテナ様、アテナ様、アテナ様、頑張りますから』
ただがむしゃらに書き続ける。
自分でも支離滅裂なことはわかっていたが、今まで抑えてきた思いは、一度弾けたら止まらなかった。
必死にペンを動かすユカリを、二人が痛ましいものを見る目で見下ろす。見ていられなくなったのか、とうとうアキレウスがその手を止めさせた。
「もうやめとけ」
ついさっきさんざん泣いたはずなのに、羊皮紙にぱたぱたと雫が落ちる。頭に乗ったアキレウスの手を、何故か振り払えなかった。
どうして声が出ないのだろうか。
泣きわめきたいのに。
アテナの名前を声の限りに叫びたいのに。
ペンをそっと抜き取られて、羊皮紙を取り上げられて。アキレウスから受け取ったそれを、ヘファイストスがにじまないように丁寧に持っている。
「ユカリ。私はこの属性上、ほぼ全ての女神と接触ができる。母上――ヘラも、私が本気でかかればそれなりには渡り合える。女神は皆、ヘラから貴女への接触を禁じられている。何かあったら、私を呼んでくれ。――今度の母上の仕打ちは、あまりにも目に余る」
息子として、せめて少しでも罪滅ぼしをさせてくれと。
ヘファイストスが不器用にぎこちなく頭を下げた。
どうやら、息子は母に似ず、謙虚で誠実なようだ。アフロディーテも、彼のそういう部分を愛したのだろうか。
「だからユカリ、早くここから逃げろ。母上がこの家を打ち砕こうとしている」
何故そこで「だから」につながるのだろうか。
内心で訝ったユカリに、アキレウスが補足した。
「こいつはヘラが俺達を狙ってるって聞きつけて、ここまで駆けつけてくれたんだよ。お前のことは、アフロディーテから色々聞いてたんだと」
嘘だ、ととっさに思った。
ヘラが憎んでいるのはユカリであって、アキレウスではない。彼が家主である家まで攻撃する必要が、どこにあるだろうか。
冗談でしょう? と期待をこめて見上げたアキレウスの表情は、けれどとても真剣で固かった。
ユカリは忘れていたのだ。
アテナ達でさえ、憎しみを向ける対象には手段など選ばずに攻撃をすると。
「しくじった。アポロンの野郎が派手に騒いだせいで、俺がお前を匿ってることがヘラにばれた。案内しなきゃいいだろうと思ってたが、どうやらあちらさんはお前を安住させるつもりもないらしい」
その言葉は、とても正確に彼女を貫いた。あの夜に怒られてから、それ以上の迷惑はかけまいと心掛けていたつもりだった。
けれど実際は、ただ居候しているだけで多大な迷惑をかけていたのだ。
その事実が、ユカリを打ちのめす。
「母上から、新たな武器の製造を依頼された。だましだまし納期を延ばしてはいるが、もう限界だ。ここにいてはお前達がその身を討たれて死んでしまう」
無情なヘファイストスの言葉が更に追い打ちをかけたが、ユカリには関係なかった。
彼女はこれ以上ないほど打ちのめされていたから。
彼は有名な鍛冶の神らしい。
材料の調達と偽って、幾多もの監視の目をかいくぐって、ようやくここに来てくれたのだという。
そして、武器の納期の引き延ばしは、あと二日が限界。
迷っている暇はなかった。
機械的に動いてヘファイストスを見送り、ユカリはのろのろとアキレウスを見上げる。何と言って詫びていいのかわからなかった。
そんな彼女に、アキレウスは優しく苦笑する。
「気にすんな、住む家に執着するたちじゃない。必要なもんまとめとけ」
それはつまり、彼もついてくるということで。
ユカリの無言の問いに気づいたアキレウスは、今度こそ呆れたような表情になった。
「お前、俺が人を追い出して安全を確保して満足、なんて人間だと思ってたのか?」
彼の優しさが、今は痛くてたまらなかった。