17 エゴと醜さと
それからはユカリも懲りて、家の周囲以外は出回らないようにしていた。
何故かアポロンの姿が見える度にアキレウスが追い出しにかかってはいたが、ユカリは喧嘩でもしたのだろうという認識しかしていない。
そんなアキレウスの努力もむなしく、平穏な生活は長く続かなかった。
アテナの時といい、アキレウスとの生活といい、ヘラはどこまでユカリが嫌いなのだろうか。
その会話が聞こえたのは、本当にたまたまだった。
「……だ。早く……」
「マジかよ。でも……だろ?」
「い……、ない。時間かせ……」
珍しく、アキレウスが真剣な声で誰かと話し合っている。
基本的に客の相手をするのはアキレウスだったから(英雄は男ばかりだ)(そんな人々の相手をユカリに任せるほど、アキレウスは鬼畜ではない)、その日も誰か仲のいい英雄が来ているのだと思っていたのだが……何やら様子がおかしい。
家の中なのに声をひそめる理由が、どこにあるのだろうか。
訝りながらそっと中を覗きこんだユカリは、思わず出ないはずの悲鳴を上げそうになった。
手足が変な方向にねじ曲がり、顔の半分がつぶれている男。
骨が折れているわけではなさそうで、歩きづらそうに足を動かしては、身振りを交えて話している。
この世界に来てから、ユカリと関わったのは美しい存在ばかりだった。時折やってくる英雄達も美男ばかりで、だからそういう人しかいないのだろうと無意識に思っていた。
けれど、こんな存在も確かにもいるのだ。
――怖い。
吐き気をもよおし、口元を押さえながら、ユカリは目を背ける。
男というくくりではなく、本能的に怖かった。
顔は目を背けたくなるほどの惨状だし、変な方向に曲がった手足もあまりに不自然だ。
ユカリのいた世界にも、きっとこのような状態の人はいるのだろう。その人のサポートを生き甲斐にしている人がいるのも、知識として知っていた。人間は見た目ではないということもわかっている。
けれど、そんな言葉で全部許容できるほど、ユカリは綺麗な人間ではなかった。
通っていた高校の教育の一環で、ユカリも一度だけ、障害者の人達がいる施設で介助の手伝いをしたことがあった。授業だからと仕方なく行ったが、本当は触ることすら嫌だった。失礼だ、最低だとわかっていても、どうしても「汚い」という概念が頭から離れなかった。
家に帰ってから、念入りに手を洗った。何度も何度も、手がふやけるまで。
そんな自分が情けなくて、でもどうすることもできなくて。「誰かの役に立つって素敵だね! かえって元気もらっちゃった」とあの日のことを話す友人に、曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。
視線をそらしながらじりじりと後ずさりをしていたユカリが、壁に立てかけておいた箒につまずいた。がたんと大きな音をたてながら、箒ごと床に転がってしまう。
「――大丈夫か?」
差し出される手。心の底から心配してくれているとわかる声。
けれど、彼女は。
「――っ!!」
声なき悲鳴を上げて、力一杯その手を弾き飛ばしてしまった。
アキレウス以外の男だったからという理由ではない。それよりももっと最低なもの。
心配してくれた、その人の異様さが怖くて。
――気持ち悪くて。
無意識に後ずさるユカリに、男は困ったような、悲しそうな笑顔を浮かべて手を引いた。そんな彼に、アキレウスが声をかける。
「ヘファイストス、悪いな。そいつ、男性恐怖症なんだよ」
「男性恐怖症?」
「あー……男嫌い。俺でも不用意に触るとはたき落とされる。だから、あんまり気にしないでやってくれ」
「……そうか。悪かった、ユカリ」
元から引きつった顔で、笑顔らしいものを浮かべる男――ヘファイストスに、アキレウスが苦笑を返す。そんな二人を見ていたユカリは、無性に泣きたくなった。
違う、違うの。
アキレウス、私そんな理由で払いのけたんじゃないの。
激しくかぶりを振っているうちに、とうとう涙があふれてきた。
汚い自分が嫌いで。情けなくて。
私、今、声が出ないことを理由に、アキレウスの誤解に甘えてる。
ヘファイストスの優しさでそれがくっきりと浮かび上がり、ユカリは自分の汚さを思い知らされた。その場から逃げ出したくなるほどの恥ずかしさがわき出てくる。
「ユカリ? そんなに怖かったか?」
涙を拭おうとしてくれたアキレウスの手を、ユカリはうつむきながら乱暴に払いのける。
そんなことをしてもらう資格など、今の彼女にはなかった。