16 芽生え:彼女の場合
「アキレウス。この娘と関係が?」
「一緒に暮らしている。いいからとっとと離れろ!」
アキレウスの細い腕が、強引にユカリと男――ヘラクレスを引き離す。彼女を背中にかばう形で、アキレウスはヘラクレスと向き合った。
「こいつのことは、他言無用だ。いいな?」
いつもユカリが聞いている声とは全く違う、低くドスのきいた声。
縋るようにアキレウスの服をつかんでしまっていたユカリは、別の意味でびくりと震えた。
睨みつけながら獣のようにうなったアキレウスに、ヘラクレスはきょとんとした後、盛大に笑い出す。
「なるほど! 最近付き合いが悪いと思っていたら――そういうことか! 任せろ任せろ、誰にも言わんさ」
豪快にばしばしとアキレウスの背中を叩き、ヘラクレスは何を思ったのかにやついた表情で彼に耳打ちをする。それに対して馬鹿野郎と怒鳴ったアキレウスは、ヘラクレスの背中を蹴飛ばし返して追いやった。
やけに上機嫌のヘラクレスが見えなくなってから、アキレウスがくるりとユカリに向き直る。
そして。
「この馬鹿!!」
大声で怒鳴った。
「勝手に外に出るなっつただろうが! こんな夜中にそんな薄着で、襲ってくれっつってるようなもんだろう!」
ばさりと彼が着ていた上着をかけられ、ユカリもようやく自分が寝間着のままだったことに気づく。冷え切った身体に、柔らかい上着の暖かさが気持ちいい。
しかしそれよりも、ユカリにはアキレウスがここにいること自体が不思議でならなかった。
赤い耳のアキレウスは、顔を背けたままじっと立ち尽くしている。その彼の服の裾を引っ張り、地面に文字を綴ってみせた。
『どうしてここに?』
ばれてはいなかったはずだ。
途中何度も後ろを振り返って確かめたし、足音だってしなかった。
疑問をそのまま書いて見せたユカリに、アキレウスは盛大なため息をついた。
「お前なあ……。俺を見くびんなよ? 家を出た瞬間に気づいたっての。何をしに行ったかは、大体想像がついたから、後をつけるだけにしといたら……」
ちらりと意味ありげな視線をよこされて、ユカリは先程の醜態を思い出す。
間近に迫った息づかいが、今でも耳に残っていた。
ぞくりと背筋を嫌な寒気が走り、思わず自分で自分を抱きしめる。
今更ながらに自分がどんなに危険な状態だったのかを思い知って、ユカリの中の何かが音を立てて切れた。地面にぼたぼたと黒いしみが落ちる。
「泣くなって」
無理。
「あー……お前、泣いてても何もしてやれねえからめんどくせえ」
うるさい。
「大体、泣く時ぐらい声出せよ。んな健気なキャラじゃねえだろ」
無茶言うな。
「そのうち好きな奴もできるかもしれないぞ。試しに俺でやってみるか?」
『冗談も休み休み言え』
書き殴って、条件反射で右アッパー。
もちろん、素人のユカリの拳は軽々とかわされたが、アキレウスがなぐさめてくれているのは何となくわかった。彼女とて、伊達に数ヶ月一緒に暮らしているわけじゃない。
『アキレウス』
「ん?」
書こうか、書くまいか。暫くためらってから書き殴った羊皮紙を見せて、注意を引いて。
『ありがとう』
恥ずかしさで、お礼の言葉は無意識に小さくなった。アキレウスもそれがわかったらしく、にやりと笑う。悔しさがこみあげるが、それよりも普段通りに接してくれる彼の態度が嬉しかった。
アキレウスなら好きになれるかもしれないと、彼女は心の奥でそっと思った。




