15 自覚:彼の場合
「――悪い、もう一回言ってくれ。耳が馬鹿になっちまったみたいだ」
悪友とも呼べる知人の言葉に、アキレウスは思わず耳を疑った。
何度か叩いて調子を確認し、それでも異常がないと分かると、今度は目を見開いて相手を見る。
「ユカリに惚れたって……マジかよ、こんな展開予想してねえぞ」
「私が誰を愛しく思おうが勝手だろう」
ふふんと鼻を鳴らしたのは、最近よく出入りをしているアポロン。
確かに女好きで有名だが、ユカリが標的になる可能性は、アキレウスの想像の中には入っていなかった。
彼の好みは、清楚でたおやかな女性だったから。
「どこがどうしてそうなった」
「なに、興味本位で見ていたが……何かと気配りのきく、いい娘ではないか。よくよく見れば見てくれも悪くはないし、あれほど飽きない女は初めてだ」
実に楽しそうに笑いながら、アポロンが窓の外で働くユカリを眺める。その目には、神独特の傲慢さがあふれていた。
「アキレウス。あれは、私のものだ」
噛みしめるように呟くアポロンは気づいているのだろうか、自分が恋という名の狂気に染まっていることを。じっとユカリを見つめるその目に、欲望がうずまいているのを。
ざわりと、アキレウスの心が波立った。
極端に男を嫌うユカリに、今のアポロンは害にこそなれ、味方にはなりえない。
恋に狂ったこの男は、周囲の状況など考えもしないのだから。
「……ユカリに迷惑だけはかけるな」
「私がいつ、誰に迷惑をかけた?」
お前が色恋沙汰に陥る度に、相手と俺達を含む周囲全体だよ。
思わずこめかみに青筋が浮き出そうになったが、そこをぐぐっとこらえる。
天上天下唯我独尊を絵に描いたようなこの男に何を言おうと通じないのは、これまでの永い付き合いで分かっていた。
これから、ユカリの身辺は騒がしくなるだろう。そしてそれは、すなわちヘラへ居場所を教えることと同意。
不幸にするために堕とした人間が幸せになろうとすれば――それも、神と婚姻を結ぼうとすれば、当然気性の激しいヘラは烈火の如く怒るだろう。
今度は間違いなく、命を狙われる。
そんな彼女を見捨てるには、情が移りすぎていた。
これから厄介なことになるとため息をつきつつ、アキレウスは微かな胸の焦燥を持てあます。
その正体がわからず、かといってアポロンへの警戒とユカリへの気配りを怠ることもできず。
ユカリに気づかれないようにアポロンを追い返すこと数十回、その夜は訪れた。
「……あの馬鹿が」
ユカリがいなくなった。いや、抜け出した。
本人はうまく誤魔化せたと思っているようだが、アポロンの一件から気を張り詰めているアキレウスには筒抜けだ。
舌打ちをしながら、それでもユカリが何をしようとしているのかを見極めるため、気配を殺して後をつける。
寝間着一枚の薄着のままで、ユカリはふらふらと進んでいく。
右手にサンダルを持っているのは、足音を立てないようにだろうか。
気づかれないよう彼女なりに考えているのだと、思わず苦笑がもれた。
あんなに怯えて、腰も引けていて。
それでもなお、ユカリは何かを求めているのだ。
「……ま、予想はつくけどな」
街の方へと視線を向ける姿を、何度も見ていた。
その瞳は張り詰めて今にもぷつりと切れてしまいそうな危うさをはらんでいて、口元は耐えるように引き結ばれていて。
女神関連のことを考えているだろうと、簡単に予想がついた。
そして、小規模の森を越えたところにある、一つの神殿。
もちろん彼は、それがアスクレピオスのものだと知っていた。
この世界では、万が一に備え、街の近くや要所要所にアスクレピオスの神殿があるのが常識だったから。
けれどユカリは、それを知らない。
問われなかったから、アキレウスもあえて教えることはしなかった。
ただ、神殿を介して神と英雄とが連絡を取り合うことだけ教えてあった。
これらから導き出せる答えは一つ。ユカリは、あの神殿に助けを求めに行くつもりだ。
視界の先で、白い夜着がひらりとはためく。薄暗い森の中で、白いそれはよく月の光を反射した。
獣の鳴き声に身体を強ばらせ、服の裾を固く握りしめ。
不安げに何度も辺りを見回しながら、それでもユカリは進んでいく。
あれほど闇を怖がって、灯りを絶やさない彼女が、松明も持たずに。
「馬鹿野郎」
家から出るなと言ったのは、彼自身だ。けれど、「一人で」出るなと言っただけ。
頼んでくれば、いくらでも連れて行ってやったのに。
強がっているけれど、本当はそこらの娘と変わらないほど気弱な少女。
本人は用心深く隠しているつもりだろうが、アキレウスはちゃんと見抜いていた。
ヘラにまつわる一連の話も耳に入ってはいたが、実際に本人を目の当たりにして、幾月か共に過ごせば、それが全くの言いがかりだろうことは容易に知れる。
もっと頼れと言いたくなった。
彼女が自分には気を許してくれていると、うぬぼれていたのかもしれない。
闇に同化するために羽織った黒暗色の上衣が、アキレウスの苛立ちを代弁するように震える。
ばさりとそれを振り払い、彼は神殿に入っていくユカリをじっと見つめた。
希望が打ち砕かれるだろうと知りながら、それでも最後まで彼女の意思を尊重して。
気分は子の巣立ちを見守る親鳥のそれだったが、すぐにそんな悠長なことも言っていられない状況が訪れた。
ユカリが呆然としながら出てくるのは織り込み済みだ。
だが、そこにヘラクレスが現れるとは予想していなかった。
立ち直った頃を見計らって出て行こうとしただけに、アキレウスの焦りは必要以上に大きくなる。
酒に酔っているのか、いつもよりも絡み方のたちが悪い。
友人の様子を見て即座にそう判断したアキレウスが、いい加減にしろと足を踏み出した時。
ユカリが、ヘラクレスに口づけをされそうになった。
「あいつ――!」
頭が沸騰したかと思った。
怒りにくらんで何も考えられなくなって、気がついたら大声を出していた。
「ヘラクレス!! そいつから離れろ!!」
ヘラクレスがこちらに向き直る。ユカリの視線も、こちらに向かう。
その目の淵に涙がたまっているのを見て、また怒りがわいてきた。
夜露にしっとりと濡れたユカリの服は、その柔らかな曲線をくっきりと映し出してしまっている。
かたかたと小さく震えるその身体に、改めて儚さを思い知らされた。
――ユカリは、俺が守る。
それがどこからきたのかはわからなかったが、確かにアキレウスが自覚した、ユカリへの初めての思いだった。