14 実行不可能な試練
『あの……ここ、どなたの神殿でしょうか?』
おそるおそる彼女が羊皮紙を差し出した時の、巫女の表情といったら。
「恐れ多くも、アポロンのご子息、医療の神アスクレピオスの神殿です。ご用がないならば、早くお引き取りください」
ご子息。ということは、男神。
…………駄目だ、完全にアウト。私の苦労が全て水の泡。
今までの期待が大きかった分、絶望感がユカリの全身を襲う。
へなへなと座り込みそうな彼女を追い立てるようにして、巫女達に神殿から出されてしまった。
どうしよう、とユカリは途方に暮れる。
ここ以外に街の外にある神殿を知らない。街中など、怖くて歩けない。
それよりもアポロン様、子供いたんだ。ということは、奥さんがいたのか。
奥さんがいるのに、女好きなんて……やっぱり最低だ、あの方。
思考回路が変に脱線して、最終的に「アポロン最低」で落ち着いた。
うん、全てはアポロンが悪い。
責任転嫁をしているとは彼女自身わかっていても、この絶望をどうしたらいいのかわからなかった。 先程まで朝焼けに思えていた神殿の紅い色が、地獄の釜の色に見える。
敷地から一歩出た場所、そこにへたりこんでいたユカリの頭上に、不意に大きな影が落ちた。
「ん? どうした、怪我でもしたのか?」
野太い声。がっしりとした影の形。
男だとわかっても、もはや動く気力が湧いてこなかった。
そんなユカリをしげしげと眺め、ふむ、と男はうなずいた。
「足に怪我はしているようだが……大したものではないな。お前、家はどこだ? 名前は?」
送って行ってやると言われて、ユカリは必死にかぶりを振る。
気力がないこの状態で、これ以上男と共にいたくはなかった。
それにユカリには、アキレウスに悟られずに帰るという重大な任務が残っているのだ。
けれど男はただ笑うばかりで、彼女の必死の訴えを汲み取ってくれなかった。
仕方なく棒きれを拾い、暗い地面に目をこらしながら文字を綴る。
『大丈夫です。お気持ちだけいただきます。ありがとうございます』
「ん? お前、口がきけないのか」
『はい』
「ふむ……それで、ここに来たというわけか。名は何という?」
どうやら、喉の病気を治そうとして来たと勘違いされたようだ。それはそれで都合がいいから、ユカリはあえて訂正しようとは思わなかった。
今にも触れられそうなのを必死に身をよじってかわしつつ、手早く名前を書く。
『ユカリ』
「ユカリか。いい名前……ユカリ? 待てよ、ヘラの呪いを受けたという娘の名も、確かそんな名前だったような――」
首をひねった男の人に、ぞわりとユカリの肌が泡立った。
顔から血の気が引いていくのが彼女自身にもわかる。
どうしよう、ヘラに居場所を知らされたら――!!
様々な最悪の状況がめまぐるしく脳内を駆け回る。
しかし、そんなユカリの焦りをよそに、男はにやりと笑った。
嫌らしく、意地悪く。
「その呪い、『愛している男とのキス』をしないと解けないぞ? 随分と有名な話だから、間違いはないだろう」
面白半分に、けれどはっきりと断言する男。それがユカリの頭に届くまで、数秒かかった。
強ばっていた身体から、一気に力が抜けていく。
無理無理無理、絶対無理。
何その無理ゲー。
どんな嫌がらせですか、ヘラ様。ああ、渾身の嫌がらせですね。
第一、ユカリに好きな異性などできるわけがないのだ。
それをわかっていてあえて設定するあたりに、ヘラの怒りの深さが垣間見えた。
アテナの元へ辿り着く道が途絶え、ユカリは泣きたくなるのをこらえながらうつむいた。
にじむ視界がうとましい。
うつむいて必死に瞬きをしていると、いきなり太い腕に抱き上げられた。
反射的に顔を上げたユカリの視界いっぱいに、にやついた顔が迫っている。
逃げようとした時には、もう遅かった。
がしりと腰をつかまれ、ユカリの細い身体はあっという間に引き寄せられる。
「どれ、ひとつ試してみるか」
「――!!」
全身から汗が噴き出す。
逃げようと全身の力をこめても、男の力強い腕はびくともしなかった。
これまでも、アキレウスに腕や肩をつかまれたことはあった。
けれど、ユカリが本気で抵抗すれば、その手は必ず外れたのに。
こんな時にも彼の思いやりを発見し、ユカリは泣きたくなった。
抵抗する力が弱まったのをどう思ったのか、男が乱暴にユカリの顎をつかんだ。
アキレウスの中性的な顔とは正反対の、男であることが強調されたたくましい顔が、ユカリに近づいていく。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!!
誰に助けを求めたらいいのか、混乱した彼女の頭では答えが導き出せなかった。
たとえ導き出せたとしても、対象である女神達は手の届くところにいない。
目の前が真っ暗になったその時。
「ヘラクレス!! そいつから離れろ!!」
雷のように鋭い声が突き刺さった。男の動きがぴたりと止まる。
――とても聞き覚えのある、声だった。