12 神というものは
彼が言っているその意味を理解した瞬間、一瞬目の前が真っ暗になった。
神に向かって無礼をはたらく意味を、ユカリの脳が理解することを拒絶したのだ。
おおらかな神は許してくれるが、神は大抵人間を見下しているもの。
アテナやアルテミス、アフロディーテ達が、談笑しながら『己を馬鹿にした無礼な娘』への仕打ちを披露しあっている横にいたユカリは、その恐ろしさを身にしみてわかっていた。
ユカリに対してあれほど優しかったアテナ達でさえそうなのだ、縁もゆかりもない神の怒りはどれほどだろうか。想像しただけで、ユカリは恐怖に身震いしてしまった。
実際には、ユカリの考え方は間違っている。
アテナ達が優しかったのは彼女が「保護する対象」であったからであって、もしもユカリと何も関係がなかったら、無礼を働いた時の女神達の対応は百八十度違っていただろう。
それを知らないユカリは盲目的にアテナを信頼しているのだが……今の彼女にとっては、それが幸いした。
アテナさえ信じることができなくなったら、きっとユカリは壊れてしまうから。
内心でアテナに助けを求めつつ、ユカリは姿が見えなかった「クロノス」の言葉を思い出していた。
そして、不意に最後の一言が脳裏に響く。
『運命からは逃れられない』
――一体どういう意味なのだろうか。
それに、何故あの場所では声が出せた?
夢だと片づけてしまえば簡単なこと。けれど、ユカリはクロノスという神を知らない。そうそう都合よく、符号が一致するなどということがあるのだろうか。
『あの方……私のこと、娘って……』
震える手でそう綴れば、アキレウスの片眉が跳ね上がる。そのまましばらく何事かを考えていたアキレウスは、不意に厳しい表情で彼女の手をつかんだ。
ぞわりと背中が泡だったユカリが反射的に振り払うと、アキレウスは我に返ったように謝罪を口にする。
「――悪い。だけどユカリ、こりゃ大事かもしんねえぞ」
(――え?)
目を見開くユカリに、しかしアキレウスの表情は固いまま。
「誰にも知られずに人一人を引っ張るなんてこと、そうそうできることじゃねえ。あのアポロンだって、あれでも高位神の一人だ。何かありゃ、すぐに気づける」
そのアポロンも気づけなかったということは。
「お前が一人であそこまで移動できたとは、到底思えない。――ってことは、だ。本当にクロノスにさらわれた可能性が高い」
ぞくり、と背筋が凍った。
「タルタロスはオリュンポスの神々の力が及ばない。例外はゼウスだけだ。ユカリ――お前、あそこで他に何を言われた?」
『何も。ただ、私が――あの方の娘だ、って』
「娘? お前が、クロノスの?」
ユカリが繰り返し綴った言葉に、アキレウスがまた片眉を上げる。
どういう意味だと、その瞳が雄弁に語っていた。
ユカリ自身も納得できていない。
ただの人間のはずなのに、何をもって娘などと言われなければならないのだろうか。
おそるおそる彼の顔色をうかがっても、ユカリには何も読みとることができない。
そのまま何事かを考えていたアキレウスは、ややしてよし、とうなずいた。
「知り合いに物知りのケンタウロスがいるから、そいつに訊いてみる。何か手がかりがあるかもしれん」
『ケンタロス?』
「阿呆、ケンタウロスだ。綴りはこう! ――上半身が人間、下半身が馬の種族だ。大勢の英雄が奴の教えを受けてる」
…………人面馬…………。
いやいや、上半身だけが人間だから……この場合は何て言えばいいんだろう?
なんかもう、ギリシャ神話って何でもありだな。
それ以前に、腕二本に足が四本あるんだろうか。
だとしたら、哺乳類というよりも昆虫に近い?
……考えていたら気持ち悪くなったから、これ以上はもうやめよう。
首を傾げたユカリだったが、文字の間違いから発展したアキレウスの指導をびしばし受けながら、ケンタウロスについてそれ以上考えることはやめることにした。
物知りで何かを教えてくれるなら、もうそれでいい。
そんな風に考えて期待していたユカリだったが、後日アキレウスからもたらされたのは、がっかりするような内容だった。
「あいつも知らないってよ。クロノスの娘は、今いる三柱だけのはずだと」
『そう』
「となると――クロノスの言う『娘』は、つじつまが合わなくなるな」
『うん。でも、確かにそう言われたの』
そこまで書いた時、ユカリはもう一つの不思議なことを思い出した。
あの場所では、何故か話すことができた。
けれどクロノスは、あの場所でしかしゃべれないと言っていたし、実際それは当たっていた。
そのことを(だいぶマシになったギリシャ語で)知らせると、アキレウスはまた難しそうな顔をしてしまった。
ユカリの想像通り、普通では考えられないことなのだろう。
散々うなったアキレウスに告げられたのは、しかし意外な言葉だった。
「無理矢理考えるなら、やっぱりタルタロスだってことだろうな。あそこは基本的に、ゼウス以外の神の力は及ばないって言っただろ? もしかしたら、それでヘラの呪いも一時的に解けたのかもな」
『そっか……』
仕方がないと自分自身に言い聞かせるものの、がっかりするのは止められない。
アキレウスの言うことが本当ならば、しゃべるためにはタルタロスに行かなければいけないことになる。しかし、行ってもいるのはクロノスだけだ。
ユカリが会いたいのはクロノスではなく、アテナ。行っても意味がない。
しょんぼりしながらぐりぐりと返事を書いていたユカリの頭に、ぽんと大きな手が乗った。
反射的にばしりと払い落としながら振り仰ぐと、アキレウスが温かい目で笑っている。
「心配するなって。その呪いも、そのうち解く方法がわかるだろ」
『……触らないで』
「はいはいはいはい」
『誠意がこもってない』
「心からこめてるっつーの」
そんな言い合いも、もう何度目だろうか。
毎回毎回繰り返されるおかげで、ユカリが操る文句のバリエーションもずいぶんと増えた。
まあ、それを教えてくれるのもアキレウスなのだが。意地悪なのか優しいのか、よくわからない。
けれど、泣きそうになる度にこうしてくれるのだから、きっと優しいのだろう。
少しだけ心が軽くなるのを感じながら、ユカリはそれを誤魔化すように、また文句を羊皮紙に書いた。