第9章:義仲上京
1183年3月、鎌倉の頼朝と木曽の義仲の間でいさかいが起こりました。その原因は様々ありましたが、最大の理由は、源氏勢力の統一を図る頼朝に対して、源氏の2大勢力を目指す義仲の方向性の違いによるものでした。頼朝の傘下に入らずに独立勢力を目指して、墨俣川の戦いで敗れた行家を義仲が匿ったことも、頼朝の不信感を強める原因となりました。頼朝から見て、義仲は、源氏の棟梁を頼朝から奪い取ろうとする下心があるように映ったのです。しかし、義仲は田舎育ちで、世の中を頼朝よりもお人好しに見ているだけであって、頼朝と敵対しようという気持ちはありませんでした。
頼朝は、義仲追討を決意して、10万騎余で長野の信濃国へ向かいました。義仲は、信濃国の依田城にいましたが、頼朝の出陣を聞いて、信濃国と新潟の越後国の国境の熊坂山に陣を取りました。頼朝は、信濃国の善光寺に着きました。義仲にとって、頼朝と協力することはあっても、刃を向けられることは全く心外なことだったので、養父の中原兼遠の息子の今井兼平を使者に立てて次のように伝えました。
「どういう理由で義仲を討とうとおっしゃるのでしょうか。あなたは東国を従えて東海道を上り、平家を追い落とそうとなさっています。私も東山道・北陸道を従えて、平家を追い落とそうとしています。どうして、あなたと私が仲違いをして平家に笑われなければならないのでしょう。行家はあなたを恨むことがあって私のもとへ来たようですが、だからといって同じ源氏として素っ気なく追い返すのはどうかと思って匿いました。私自身は全くあなたに恨みは持っていません。」
それに対して頼朝は、「今になってそのようなことを言っているが、確かに頼朝に謀反を企てたという知らせが入っている。使者は無視しなさい」と命令し、土肥実平、梶原景時を先陣として、今にも討手を差し向けようとしました。そのことを聞いた義仲は、本当に恨みがないことを示すために、長男の義高を人質として頼朝のもとに向かわせました。義高は、当年11歳。養父の兼遠の娘との間に生まれた子でした。頼朝は、「このように息子を差し出した以上、実際に下心はなかったのだろう。私にはまだ元服を済ませた子がいないので、長女の大姫と結婚させよう」と、義高を連れて鎌倉に帰りました。
頼朝と仲直りした義仲は、機は熟したと、東山道、北陸道から5万騎余の兵を集めて、京を攻めることにしました。それを聞いた平家も、準備は整っていました。去年から、「来年の新緑の季節には、戦があるだろう」と触れて回っていたので、すぐに軍勢が集まりました。2年続いた飢饉も過ぎ、去年の収穫は平年並みに戻り、今年は兵糧の心配もなくなったことも味方しました。西国の兵はすべて集まりましたが、東山道は岐阜の飛騨国まで、東海道は静岡の遠江国の手前まで、北陸道は福井の若狭国の手前までしか集まりませんでした。それよりも東は源氏の支配下だったためです。
攻められる前に先制攻撃をしようと、平家は、まず義仲を討って、余勢を駆って頼朝を討とうと、北陸道へ出陣しました。大将軍には維盛があたりました。維盛にとっては、大敗を喫した富士川の戦い以来の大舞台でした。都合10万騎余。4月17日午前9時頃に京を出発しました。街道沿いの国々から軍費を徴発する権限を賜っていたので、どれほど勢力のある家であろうと、どこに届ける物品であろうとも構わず、すべて軍費として徴発していきました。また、平家に刃向かうものはすべて源氏に内通した朝敵として処罰して行ったので、街道沿いの人々はみな恐れて逃げ去ってしまいました。
義仲は、自分自身は信濃国に留まっていましたが、前線基地として福井の越前国の火打城に6000騎余の軍を配置していました。火打城は屈強の城郭で、周囲は岩が切り立った崖であり、四方を山の峰が囲んでいました。城郭の前には能美川、新道川が流れて合流していました。その合流地点に、柵をこしらえて大木を配置して、流れを堰き止めたため、周辺一帯に水が流れこんで、湖のようになりました。これを見た平家の軍は、舟がなくては簡単に渡ることができないと考え、対岸の山に陣をとって、軍を渡す算段をするものの、何も出来ないまま数日が過ぎました。
そんな中、城に立てこもる義仲の軍の中に、平泉寺の長吏の斎明というものがいました。平家の軍は、規模が大きいため行軍の隊列も長くなり、先頭から後方まで数日の長さになることもありましたので、人工湖で足止めされている間に、どんどん軍の規模が大きくなっていきました。時々刻々と増えていく平家の軍に弱気になった斎明は、書状を書いて矢尻の穴に入れ、平家の陣営に向かって矢を放ちました。「この湖は、元からあったものではありません。川を堰き止めて作った人工湖です。夜のうちに歩兵を使って堰き止めている柵を壊してしまえば、馬に乗って渡れます。援護は私が致します。平泉寺の長吏斎明より」
これを見た大将軍の維盛は、大喜びして、すぐに人工湖を壊して渡りました。城に立てこもっていた武士は抵抗しましたが、多勢に無勢で足止めにもなりませんでした。斎明は平家の軍に加わり、その他の武士は退却しました。平家の軍はそのまま石川の加賀国に進み、さらに城を2つ攻め落としました。この知らせを聞いて、京で待つ平家の人々は大喜びしました。
5月8日、平家の軍は加賀国の篠原に集合しました。そこで軍を大手、搦手の2手にわけました。大手は7万騎余で加賀国と富山の越中国の境の砺波山に向かい、搦手は3万騎余で石川の能登国と越中国の境の志保山に向かいました。義仲は、新潟の越後国の国府にいましたが、平家の軍が迫ってきたとの知らせを受けて、5万騎余で出陣しました。横田河原の戦いの縁起をかついで、軍を7手にわけ、そのうちの1手を行家に任せて1万騎余で志保山に向け、残り6手の4万騎余を砺波山に向けて兵を進めました。
軍議で義仲が言い出した作戦は、「平家の軍は大勢なので砺波山を越えて平地に出て、正面衝突の戦いをしようとするはずだ。そうなっては、軍勢の人数がものを言うので、平家の軍に有利になる。しかし、ここはその裏をかいて、先手を打って源氏の白旗を掲げて平地に進軍しよう。平家はその様子を見て、『源氏の軍は大勢のようだ。敵はこのあたりの地理に詳しく、味方は疎い。何も作戦を持たずに山を降りると、包囲されてしまうかもしれない。この山は、四方が険しい岩崖だということだから、ここに留まっている間は後ろを取られることはないだろう』と考えて、山中に陣を取って、休むだろう。こちらは、日のあるうちは合戦の準備をしている振りをして静かに過ごして、夜になって奇襲を仕掛けて、倶利伽羅峠の谷に追い落としてしまおう」というものでした。
白旗を30旗仕立てて、砺波山の東の黒坂の上から旗を掲げて進軍すると、案の定平家の軍は砺波山に留まることにし、倶利伽羅峠のやや東の猿の馬場というところに陣を布きました。11日には源氏も平家も布陣が終わり、両軍の間は300メートル程度まで接近して、そのまま膠着状態になりました。源氏側が精兵を15騎進ませて矢を打ち込むと、平家側も精兵を15騎出して応戦しました。30騎出せば30騎、50騎出せば50騎、100騎出せば100騎、相手の出方を伺うような応酬が続きました。もちろんこれは義仲の策略で、小競り合いに終始して本格的な合戦に発展しないように常に注意を払っていました。
そのように小競り合いで平家を油断させている間に、大手の4万騎余からさらに北と南に分かれて、こっそりと進軍していた1万騎余は、日が暮れてから、平家の軍の裏側に集合しました。平家の軍は、裏手に集まる軍に全く気づいていませんでした。あたりが暗くなってきて、まだ本格的な合戦になっていなかったので、今日は合戦はないと考えて、馬を降りて宿営の準備を始めているのを見て、頃合いがよいと思った裏手の源氏の軍は、一斉に鬨の声を上げました。それを聞いた正面の軍も合わせて鬨の声を上げました。前後4万騎余に囲まれていることに気づいた平家の軍は、「この山は、四方が岩崖であるから後ろを取られることはないと思っていたのに、なんてことだ」と大慌てになりました。
「見苦しい。逃げるな。引き返せ」という声が平家の軍中から上がりましたが、崩れ始めた大軍を留めることはできませんでした。他に逃げ場がなかったため、我先にと倶利伽羅峠の谷の断崖を、馬に乗ったまま駆け下りようとしました。あたりが暗い上に険しい谷であったため、前の様子が全くわからず、この先に道があるに違いないと考えた平家の武士たちは、親が落ちたら子も落ち、兄が落ちたら弟も続き、主が落ちたら侍も落ちていきました。馬に人、人に馬、落ち重なり落ち重なり、深い谷にもかかわらず、平家7万騎余で埋め尽くしました。谷川は血の色で真っ赤になり、死骸は丘のように積み上がっていました。大将軍の維盛は命からがら生き延びましたが、わずか2000騎余が残るのみで、加賀国へ退きました。
翌12日、志保山に向けた行家の軍のことが心配になった義仲は、2万騎余を選りすぐって、自ら志保山に向かいました。案の定、行家の軍は平家の軍に散々に蹴散らされて、退却していたので、義仲が代わって平家3万騎余に突撃して、入り乱れ、火が出るほど戦ったところ、行家との戦いで消耗していた平家の軍は支え切れなくなって、多くの損害を出しながら退却しました。
その後、生き残った平家の軍は合流して、石川の加賀国で再度義仲の軍と戦いましたが、義仲の軍は危なげない戦いで平家の軍を打ち破りました。4月17日に京を10万騎余で京を出発した平家の軍は、何にも後れることのない無敵の軍勢に思えましたが、5月下旬に京に帰ってきたときには、わずかに2万騎になり、有力な武将を失っていました。「何事も、すべてを使い切るのではなく、いくらかは余裕を残しておくべきなのに、今度の戦いでは平家は全軍を失ってしまった。今後はどうなってしまうのだろう」と言うものがいましたが、後の祭りでした。
6月10日、義仲は、福井の越前国の国府に着いて、侍たちを集めて会議をしました。義仲は、「滋賀の近江国を通って京に向かおうと考えているが、その途中には平家と関係の深い延暦寺があって、簡単に通してくれることはないだろう。そもそも平家は、仏法も恐れず、三井寺、東大寺、興福寺と多くの寺を滅ぼした悪虐非道な者たちだが、そのようなものから京を守るために上京する私たちが、延暦寺と合戦をするというのは、平家と同じ事をしていることになり、道理があわない。これは思ったよりも難題だ」と言いました。
そこで発言を求めたのが、義仲の右筆の覚明でした。右筆とは、事務仕事に詳しくない武士のために、代わって文書を書く仕事で、京の伝統やしきたりに詳しい人が採用されていました。「延暦寺の僧は3000人余もいて、すべてが同じ事を考えているということはなく、中には様々な考えの人がいます。中には源氏に味方しようという人もいるかもしれません。書状を送ってみて、返事を見てみれば、その様子がわかるかもしれません」と提案すると、「それは尤もだ。では、書いてみてくれ」と言って、覚明に書状を書かせました。
「義仲が、これまでの平家の行いを振り返ったところ、保元・平治の頃から世の秩序が乱れてしまったのだと思います。平家は権力を恣にして、貴賎を問わず人々は平家に手を合わせ、僧俗を問わず人々は平家に跪きます。帝位さえも思うままにして、国や郡から略奪や横領をしても誰も咎めるものはいません。道理の通らないことで裕福な人の財産を没収し、罪にならないことで高貴な人を陥れ殺害します。義仲は、そのように世に巣食う平家を追い滅ぼして、京に上ろうとしていて、その際に、延暦寺の傍を通ろうとしています。
ここでお尋ねしたいことがございます。そもそも天台宗の宗徒は平家の味方ですか、源氏の味方ですか。もし平家の味方であれば、延暦寺に対して合戦をすることになります。もし合戦となれば、延暦寺は滅亡するより他はないでしょう。平家が天皇の心を悩ませ、仏法を滅ぼすため、それを鎮めようと義兵を起こしたにもかかわらず、延暦寺の3000の宗徒に対して望まない合戦を起こさなければならないとなれば、これほど悲しい事があるでしょうか。比叡山の薬師如来、山王権現を憚って、上京が遅れることになったら、勅命をなおざりにし、武略に傷をつけたとの誹りを受けてしまっては、これほど心苦しいことがあるでしょうか。
このように進退窮まって事情を説明した次第でございます。3000の宗徒が、神のため、仏のため、国のため、朝家のために、源氏の味方をしてくださいますよう、心よりお願いいたします。」
この書状を受け取って、延暦寺の僧たちは議論をしましたが、予想通りさまざまな意見が出ました。源氏に味方しようというものもあり、平家に味方しようというものもあり、意見はなかなかまとまりません。しかし、最終的には、「結局私たちは、天皇の御代が永遠であるようにと祈り申し上げているのだ。平家は、今の天皇のご外戚であり、また、延暦寺で仏門に帰依しているので、彼らの繁栄を祈っていたにすぎない。しかし、今や悪行が度を越して、皆平家に背くようになったのに対し、源氏は数々の戦に勝って運命が開けようとしている。延暦寺だけ、運命が尽きようとしている平家に味方して、運命が開けようとしている源氏と対立する必要はないのではないだろうか。ここは、平家を裏切って、源氏の味方をすべきだ」ということで話がまとまりました。
それからしばらくして、義仲は、延暦寺からの返事を受け取りました。
「6月10日の書状は、16日に届きました。拝読したところ、ここのところ鬱積していたわだかまりが一気に晴れました。平家の悪行は長年に渡って、朝廷の騒動は止むことがありません。延暦寺は帝都の鬼門を守る寺として、国家の平穏無事を祈願しています。しかし、天下は平家の悪行によって乱れ、一向に安定する気配がありません。あなたは武家の名門に生まれ、わずか2年の間に、その名を天下に轟かせ、国家のため、源氏のため、武功を立てています。これを知り、これまで国家の平穏無事を祈願していたことが無駄ではなかったことがわかり、喜ばしく思っています。そこで、冥界においても現世においても、延暦寺は源氏を助けることと、一同議論の下で決まりました。」
平家は、まさかこのような密約が、延暦寺と義仲の間で結ばれているとはつゆ知らず、「三井寺と興福寺は、積年の恨みがあるから何を言っても無駄だろう。しかし、延暦寺とはこれまで親密にしてきたのだから、延暦寺に反乱鎮定の祈願をしてもらおう」ということになり、7月5日に書状を送られました。その内容は、要約すると、「比叡山の薬師如来、山王権現が憐れみ下さり、3000の宗徒が力を合わせて祈願をし、源氏を滅ぼしてください」ということを、平家一門が連名で書かれたものでした。
これを受け取った座主の明雲は、すぐには皆にお見せにならないで、十禅師社で3日間加持祈祷を行い、その後宗徒にお見せになりました。すると、書状の上に、受け取ったときにはなかった和歌が1首浮かび上がっていました。
たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそなれ
平家の滅亡を予言したこの歌は、比叡山の薬師如来、山王権現からの返事でした。集まった宗徒も「すでに源氏には味方をすると返事をしてしまった。その約束を軽々しく破るわけにはいかない」との考えで一致しました。
これで、義仲が京に上るにあたっての障害はすべて取り除かれました。
書き溜めていた分がなくなったのと、もう一つ連載を書き始めたのとで、今後の更新のペースは鈍るのではないかと思います。