表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第8章:清盛の逝去

 五節の舞の後、清盛は、突然、平安京に都を戻すことをお決めになりました。翌12月2日には、慌ただしく出発になりました。誰も居心地の悪かった福原京にいつまでも残りたいと思っていませんでした。6月に福原京に来たときには、平安京の家を壊して、家財道具と一緒に持ってきて、福原京で組み立てなおしましたが、今回はそのような余裕もなく、平安京に戻っても住む家がありませんでした。そのため、しばらくの間は、神社や寺に身を寄せることになりました。


 この突然の決定は、いくつかの原因が重なってなされました。まず、福原遷都が行われた1180年は雨が非常に少なく、農産物の収穫が激減しました。この大飢饉は平家の地盤である西国が特にひどく、平家の財力・軍事力に打撃を与えました。また地方の農産物を税として徴収することで成り立っている京の経済全体も大きな打撃を受けました。農産物の不作は翌年も続き、1182年の秋の収穫までの2年間、全国的な食料不足が続き、大量の餓死者を出すことになりました。


 それに加えて、以仁王の令旨に呼応した各地の源氏の蜂起がありました。特に東国を中心に源氏が支配権を確立し、目代を排除して、京の支配権から独立するようになりました。このことは、それらの国から税を徴収できなくなることを意味していて、ただでさえ飢饉で激減した税収がさらに減少して、京の経済にさらなる打撃を与えました。蜂起した源氏は、京、西国への武力進出の意図も持っていて、平家は、急いで京の防衛体制を強化して、反乱の鎮定に乗り出す必要に迫られていましたが、それにはさらに人も物資も必要でした。


 にもかかわらず、福原京はまだ未完成でこれから造営を進めていかなければならなかったのですが、もともと人気のなかった福原京の造営には、経済的な負担の増加に不満を持つ貴族からの反対意見がさらに強くなり、造営のための費用を平家がより大きく負担しなければならなくなりました。加えて、まだ完成していない福原京の機能を補完するために、平安京も依然として重要な役割を担っていたので、平安京の防衛を手薄にすることができず、福原京と平安京の両方の防衛のため、軍事費の負担が二重に発生していました。


 このような状況を踏まえて、清盛は、「今は福原京を諦め、源氏を始めとした各地の反乱を鎮定することに注力し、平和が戻ってから、再度福原京へなり別のところへなり遷都することを考えるのが妥当だ」とお考えになったのでした。


 平安京に戻って、まず行ったのは、京の周辺国の鎮定でした。宗盛の弟の知盛を大将軍に2万騎余の大軍を組織し、滋賀の近江国を手始めに、各地の傍流の源氏を攻め落としました。さらに、以仁王が挙兵したとき、奈良の興福寺が援軍を送ったことについても問題視され、奈良の寺社勢力も攻めるべきだという意見が出されました。そのことが逆に興福寺を刺激して、奈良は大騒ぎになりました。


 摂政の藤原基通は、氏寺の反乱を止めるために、自ら仲介役を買って出られて、「何か考えがあるのであれば、何度でも上皇に取り次ぐので、伝えてください」とおっしゃったのですが、興福寺は全く聞く耳を持たず、再三の使者に乱暴を働き、さらに清盛を呪詛するような行為を繰り返しました。基通は平盛子の養子であり、法皇を失脚させた平家のクーデターの後に、清盛の後押しで関白になられた経緯のため、興福寺からは平家の味方だと考えられていて、信用できないと思われていたためでした。しかし、清盛は当代の天皇の外戚でいらっしゃり、そのような方を呪詛するということは考えられないことで、悪魔が乗り移ったに違いないと人々は噂をしました。


 清盛は、このことを聞いて、すぐに500騎余の軍勢を奈良に向かわせなさいました。ただし、「興福寺が乱暴を働いても、こちらは応戦してはいけない。甲冑を身につけず、弓矢を持たずに説得しなさい」とご指示なさいました。ところが、興福寺はこのような取り決めがあるとは知らず、60人ほどの兵を拘束して、すべて首を刎ねてしまいました。


 これにはさすがに清盛は激怒なさって、「そういうつもりなら奈良を攻め落としてしまえ」とおっしゃいました。知盛は源氏の討伐に出征なさっていたので、奈良を攻める軍の大将軍には宗盛、知盛の弟の重衡を任命しました。軍の規模は4万騎余になりました。対する興福寺は老いも若きも皆出陣して、7000人余の軍勢で、京から奈良への途中の街道に堀を切って、盾を並べ大木を倒して砦を作って、平家の軍を待ち構えました。しかし、6倍もの人数差と合戦の経験の違いに加えて、興福寺の軍勢は皆徒歩に太刀なのに対して、平家の軍勢は馬に乗っていたため、全く戦いになりません。明け方に矢合わせして、日が暮れるまで戦いましたが、最後は興福寺の軍勢が全滅して、平家の軍の勝利に終わりました。


 そのまま余勢を駆って、夜のうちに奈良を落とそうとしましたが、時は12月28日で月もなくあたりは真っ暗でした。重衡が「火を起こせ」とおっしゃったところ、平家の軍の兵が周囲の民家に火を掛けました。冬の乾燥した家屋は瞬く間に燃え上がり、さらに強い北風にあおられて一気に寺社に燃え移りました。足腰の丈夫なものはほとんど皆戦いに出て、討ち死にするか敗走した後で、寺社には、足腰の弱い老僧、殺生を嫌って戦いに参加しなかった僧、子供などが残るのみでした。その人たちは、戦いを避けて東大寺や興福寺の御堂に避難していました。特に東大寺の大仏殿の2階には1000人以上が集まっていて、敵が登って来ないように梯子を外してありました。そこへ北風にあおられた猛火が押し寄せたのでした。焦熱しょうねつ地獄、大焦熱だいしょうねつ地獄、無間阿鼻むけんあび地獄を超えるほどの悲劇でした。


 東大寺は聖武天皇が全国の国分寺の中心として建立なさった寺で、有名な大仏は、華厳宗けごんしゅうの本尊の毘盧舎那仏びるしゃなぶつの似姿であり、聖武天皇自ら磨き上げられたものでした。日本で最も仏道修行の盛んな寺の一つで、すべての宗門の教理を学ぶことができる八宗兼学の寺として知られていました。東大寺と興福寺という奈良を代表する寺が一夜にして焼け落ち、大量の経典が一巻残らず灰になり、荘厳な伽藍がらんもほとんどが塵となってしまいました。焼死者は総勢3500人余、戦死者は1000人余に上りました。


 翌日、重衡は京にお戻りになり、清盛に事の次第をご報告申し上げなさったところ、清盛はお怒りが晴れられて、お喜びになりました。しかし、法皇、上皇、その他公卿たちは、「僧兵と戦いになるのはともかく、伽藍を破壊してしまうのはやり過ぎなのではないか」とお嘆きになられました。いつもなら、戦いで殺した敵将の首を、罪人として獄門ごくもんの木に掛けるところでしたが、東大寺、興福寺を滅ぼしたことの恐ろしさから、何の指示も下されなかったため、そのまま溝や堀に捨てられてしまいました。


 そして、心の休まる暇もなかった1180年は暮れ、1181年になりました。


 元日は、天皇はお出でになられませんでした。藤原氏の公卿も、氏寺が滅亡したことで喪に服して、出勤しませんでした。2日3日は、通例だと殿上人が集まって酒宴が行われますが、今年はそれもありませんでした。宮中はひっそりと静まって、不吉で陰気な雰囲気でした。そうはいっても、8日から1週間、毎年行われる鎮護国家の法会を取りやめるわけにはいかず、しかし、講師には奈良の高僧を招くのが通例であったため、なんとか隠れている高僧を探し出して、形だけは法会を行いました。


 高倉上皇は、昨年夏からご病気が一向に回復せず、床に伏していらっしゃいましたが、14日に、六波羅の池邸でお亡くなりになられました。享年21歳、上皇になられてわずか1年での出来事でした。六条天皇の後継としてわずか8歳でご即位なさって、20歳で安徳天皇にご譲位なさるまでの間、天皇位在位12年。後白河法皇と清盛の間に挟まれられてご心労が絶えることがなかったにもかかわらず、礼儀正しく柔和な人柄でいらっしゃったため、世の人で嘆き悲しまない人はいませんでした。ご逝去を偲んで次の歌が詠まれました。


 つねに見し君が御幸をけふとへばかへらぬたびと聞くぞかなしき

 雲の上に行末とほくみし月のひかりきえぬと聞くぞかなしき


 上皇がお亡くなりになられたことは、平家にとって大きな誤算であり痛手でした。安徳天皇は未だ幼少でいらっしゃるため、高倉上皇は平家の天皇家支配の要でいらっしゃいました。天皇の元服がお済みになられていれば、親政という選択肢もありましたが、まだ4歳でいらっしゃいましたのでそれは不可能でした。摂政の藤原基通が天皇を補佐し申し上げなさって実権をお執りになる案もありましたが、摂政になられてまだ1年しか経っておらず、それ以前も政務の経験が乏しかったため、実権をお持ちになるには不安でした。そのため、一旦は引退させ申し上げた後白河法皇に復帰なさっていただく以外に術はありませんでした。これは平氏政権の大幅な後退を意味していました。


 しかし、清盛はこのような事態を予想なさっていて、後白河法皇が実権をお持ちになられても、平家の生命線が途切れることのないように、高倉上皇の逝去の直前に重要な院宣をお受け申し上げなさっていました。それは、畿内惣官きないそうかんという職の創設で、近畿地方の軍事的な権限をすべて掌握し、兵士や兵糧を調達することができ、実質的に直接支配することができるという、これまでに例のない官職でした。清盛は、これを足掛かりに、東国の源氏を一掃し、朝廷の支配とは別に全国を惣官の下に軍事的に支配する「幕府ばくふ」を作ることをお考えになりました。そして、畿内惣官には宗盛を任命なさいました。


 さて、所は変わって、長野の信濃国しなののくに木曽きそに、源義仲みなもとのよしなかというものがいました。源頼朝の父義朝の弟の義賢よしたかの子で、つまり頼朝の従兄弟でしたが、保元の乱が起こる前年の1155年に義朝と義賢が武力衝突して義賢が敗死した後、当時2歳の義仲は木曽の中原兼遠なかはらのかねとおに預けられて育てられました。


 行家から以仁王の令旨を受け取り、頼朝が鎌倉で挙兵して、富士川の戦いに勝ったという話を伝え聞いて、自らも挙兵したいと考えた義仲は、養父の兼遠に相談しました。「頼朝はすでに挙兵して、東国8カ国を従えて東海道を上り、平家を滅ぼそうとしている。私も挙兵し、東山道、北陸道を従えて、頼朝よりも先に平家を滅ぼして名を上げたいがどう思うか。つまり、手っ取り早く言えば、将軍になろうと思うのだが」と言うと、兼遠は、「そのためにこそ、これまでお育てしてきたのです。やはりあなたは、間違いなく八幡大菩薩の末裔でございます」と賛同し、挙兵の手はずを進めました。


 木曽という場所は長野の信濃国でも西の端で、岐阜の美濃国みののくにとの国境に位置します。鎌倉とは違って京に近いため、平家の人々は、「東国の謀反ですら大変なのに、北国まで謀反とはどうしたらいいのだ」と言いましたが、清盛は、「大したことではない。新潟の越後国えちごのくに城資永じょうのすけながというものがいる。彼にやらせれば、すぐに義仲を仕留めてくれるだろう」とおっしゃいました。


 2月12日に、福岡の豊前国ぶぜんのくに宇佐うさ八幡宮から急使が届きました。「大分の豊後国ぶんごのくに緒方惟栄おがたこれよしの下に、九州全土から多くの武士が集まり、平家を裏切って源氏に味方して挙兵しました」と申し上げたので、平家の人々は、「東国、北国に続いて九州まで」と驚きました。九州の豊前国には、日宋貿易の拠点である大宰府があり、平家が特に重視して勢力を固めていました。また、宇佐八幡宮は九州最大の荘園領主で、清盛の娘が嫁いでいて平家との血縁関係もありました。いわば、平家のお膝元での反乱で、平家の人々には大きな衝撃となりました。


 さらに、2月16日には、愛媛の伊予国いよのくにからも急使が届き、「昨年冬頃、伊予国の河野通清こうのみちきよが平家を裏切って源氏に味方をしたため、広島の備後国びんごのくに西寂さいじゃくが、海を渡って高直城たかなおじょうで通清を討ち滅ぼしました。しかし、その子通信みちのぶはその場に居合わせず、討ち漏らしました。その後、西寂は四国の動乱を鎮定して、正月には備後国に戻って宴会をしていたところ、通信が決死の奇襲をしかけ、西寂を生け捕りにし、高直城で首をのこぎりで切って処刑しました。それより後、四国の武士はみな通信に従い、源氏に味方をしています」と申し上げました。


 東国に源頼朝、北国に源義仲、九州に緒方惟栄、四国に河野通信。以仁王の令旨に端を発し、頼朝の挙兵で始まった動乱は、今や全国に広がりました。全国各地からの謀反の報告が絶えない日はなく、平家一門の人々だけでなく、京の人々誰もが、「とうとうこの世が終わってしまうのではないか」と不安に駆られました。


 23日には、先に畿内惣官となった宗盛が、「去年、維盛が東国へ討伐に向かったが、大した成果は出せなかった。なので、今度は私が大将軍となって、再度東国の討伐に向かおうと思う」とおっしゃいました。そこで、今度は平家だけでなく、すべての公卿、殿上人で武官に携わっているものは、宗盛を大将軍として討伐軍に加わるよう、復帰したばかりの後白河法皇がご指示なさいました。


 ところが、27日、源氏追討のため、今日明日にも出発という段になって、清盛が激しい高熱と頭痛でお倒れになりました。翌日には、清盛が倒れたことは京中の噂になって、「とうとうこれまでの悪行の報いが来た」と囁かれました。お倒れになって以来、水も喉を通らず、火をたくように体が熱くなって、その熱気が部屋中に充満していました。おっしゃることはただただ「熱い熱い」とのみで、全く普通ではありません。体を冷やすために、霊験あらたかな比叡山の千住井せんじゅいの水で水風呂を作り、体を横たえたところ、水が勢い良く沸き立って湯になってしまいました。水をかけても体に当たる前に蒸発してしまい、たまに当たっても水滴が燃え上がってしまい、黒煙が部屋に充満しました。その様子は、噂に聞く焦熱地獄の様子そのものでした。


 清盛の妻の時子が看病の合間に見た夢も、本当に恐ろしいものでした。


 看病をしていると、突然、猛火が激しく燃え立つ車が門のうちに入ってきました。車の前後には、馬のような顔の人と牛のような顔の人が立っていて、車の前に「無」という文字の入った鉄の札が立ててありました。時子が夢心地に、「あれはどこから」とお尋ねになると、「閻魔庁から清盛殿のお向かえに上がりました」と申し上げました。「その札は」とお尋ねになると、「東大寺の盧舎那仏を焼き滅ぼしなさった罪で、無間地獄に落ちることになりましたが、『無』だけ書いて、まだ『間』を書いていないものです」と申し上げました。


 時子は驚いて飛び起きなさって、周りの人におっしゃったところ、皆、身の毛がよだつほどに怯えました。急いで霊験あらたかな神社仏閣に金銀七宝を送り、馬、鞍、鎧、甲、弓、矢、太刀、刀も届けて祈祷しましたが、全く効果はありませんでした。平家一門の人々が皆集まって、どうしたものかと嘆き悲しみましたが、どうしようもありませんでした。


 翌閏2月2日、時子は、清盛の命がもう残り少ないことを覚悟なさって、「この世にある間に、何かおっしゃっておきたいことがあれば、意識のあるうちにおっしゃってください」とおっしゃったところ、清盛は大変苦しそうになさりながら、「私は、数々の朝敵を平らげ、天皇の祖父となり、太政大臣となり、栄華は子孫に及びました。この世の望みはすべて叶い、思い残すことはありません。ただ、裏切り者の頼朝の首を見ることができないことが心残りです。私が死んだ後、堂塔を建てたり、法要をしたりしてはいけません。すぐに討伐軍を出発させ、頼朝を討ち滅ぼし、私の墓の前に首を掛けてください。それが最大の供養です」とおっしゃいました。その2日後、熱さで悶絶し、のたうち回って、亡くなりました。64歳のことでした。


 法要をするなとの遺言でしたが、そうはいってもそのまま放置することはできないので、7日に火葬にして、葬儀だけは行うことにしました。その夜は、葬儀の夜とは思えないことが立て続けに起こりました。まず、清盛の邸宅であった、玉を磨き金銀を散りばめられた西八条邸が、火事で全焼しました。火事は世の常ではあるものの、葬儀の夜というのは偶然とも思えず、放火ではないかと噂されました。


 また、六波羅の南、後白河法皇の邸宅である法住寺邸の方から、20~30人ほどの人の声がして、「うれしや水、なるは滝の水」と流行りの歌を拍子をとって歌い踊り、どっと笑う声がしました。高倉上皇、清盛と立て続けに逝去された直後のことで、浮かれ騒ぐことなど考えられないことでしたので、天狗の仕業ではないかと、平家の侍の中で血気盛んな者たち100人余で向かってみると、法皇が幽閉されて留守のあいだ法住寺邸を管理していた基宗もとむねというものを始めとして20~30人ほどが集まって、酒を飲んでいました。全員を取り押さえて、六波羅に連れていって取り調べたところ、「始めは大人しく飲んでいたのが、酔いが回るに連れて大騒ぎになってしまった」とのことでした。宗盛は、「これほど酔っていては、斬るわけにはいかないな」と、呆れたようにおっしゃいました。


 騒ぎの場所が、法皇の邸宅の近くで、主催者が法皇との関連の強い人物で、その時間に法皇も邸宅にいたことから、宴会は法皇が黙認なさっていた、あるいは、法皇も宴会にご参加になられていたのではないかという疑問は、当然に浮かびました。これが清盛であったなら、激怒して騒ぎに参加したものをそのままお許しになることは考えられず、法皇にも何らかの釘をお刺し申し上げなさったことは間違いなかったでしょう。重盛ならば、いつも冷静なので、激怒なさることはなかったでしょうが、それでも道徳を重んじる方でしたので、何らかの処罰は下されたに違いありません。しかし、酒の席だからと、何の咎めもなく許しておしまいになったのは、情に優しい宗盛の性格のためというだけでなく、法皇とのいさかいを起こしたくないという臆病な性格が影響したのでしょう。


 清盛の意向を気にする必要がなくなった法皇は、前年に破壊された奈良の東大寺、興福寺の復興に着手することにしました。まず、3月1日に、奈良の高僧たちの任を元にお戻しになり、領地の支配権も回復なさいました。さらに3日には、大仏殿の修復のための任官が行われました。


 3月10日に、岐阜の美濃国から使者が届き、「源氏の軍が、愛知の尾張国にまで進出し、街道を塞いでしまいました」と申し上げました。大将軍を重衡として3万騎余でご出陣なさいました。源氏の大将軍は、以仁王の令旨を各地の源氏に伝えた源行家で、その勢、6000騎余でした。両軍は、美濃国と尾張国の国境にある墨俣川すのまたがわの両岸に陣を取りました。数で負ける源氏の軍は、16日の夜に、川を渡って夜襲を掛けましたが、平家の軍は落ち着いて、川で濡れている兵を狙って攻撃し、同士討ちを避けて、源氏の軍を壊滅させました。その後、行家は愛知の三河国みかわのくに矢作川やはぎがわまで退き、再度陣を敷きましたが、これも撃破され、命からがら落ち延びました。しかし、平家の軍はそれ以上攻めこむことはなく、行家の反乱を鎮定しただけで満足して、京へ帰りました。


 また、新潟の越後国の城資永は、清盛に生前、木曽の義仲を鎮定することを期待されていましたが、その後程なく越後守に任命され、合戦の準備を進めていました。3月16日に3万騎余の兵を集めて、翌朝に出陣し、1キロメートルほど進んだところで、黒雲がにわかに立ち込めて、資永を覆いました。すると、ふっと意識が遠のいて落馬して、周りの者が慌てて邸宅に連れて帰りましたが、昼頃に亡くなってしまいました。この知らせを受けて、墨俣川の戦勝気分は一気に覚め、奈良の焼き討ちのたたりがこんなところにまで及んでいることに、平家の人々は恐れおののきました。


 資永の後任には、弟の長茂ながもちが任じられました。兄の法要を終えた後、遺志を継いで、義仲を討つべく合戦の準備を進め、6月には4万騎余の軍を組織して、義仲の治める信濃国に向かい、13日に横田河原に陣をとりました。対する義仲は、まだ十分な勢力を持っていなかったため、3000騎余の軍で出陣しました。


 数の力では敵わないと考えた義仲は、奇襲を行うことにして作戦を練ったところ、井上光盛いのうえのみつもりの案で、赤旗を7旗作り、軍を7手に分けてそれぞれが赤旗を持ち、散り散りに長茂の軍に向かって進軍しました。赤旗は平家の旗印で、白旗は源氏の旗印でしたので、各地に現れた赤旗を見て、長茂の軍は、「この国でも平家の味方をするものがこれほどいるのか。心強い」と口々に喜んでいると、陣のすぐ近くまで来たところで7手が合流して、鬨の声を上げて、白旗を一気に掲げました。完全に虚を疲れた長茂の軍は、「一体、何騎いるんだ。10万騎以上はいるのではないか」と慌てふためき、総崩れになりました。4万騎余の軍勢も大半が討たれ、長茂は辛くも生き延びて、越後国に逃げ延びました。


 この戦いで、義仲は北陸に勢力を伸ばし、東国の頼朝と並んで、源氏の2大勢力となりました。


 平家は、全国各地の反乱に悩まされる上に、大黒柱の清盛を失い、また前年から続く飢饉が今年も収まる気配はなく、四面楚歌とはまさにこのことではないかと思われました。しかし、頼朝、義仲もまた東国、北陸の支配を確実にするために力を割く必要があり、すぐに上京して平家を滅ぼすことができる状況ではありませんでした。そのような膠着状態の中、平家は地盤である西国の鎮定を進めて、1年掛かりで反乱勢力を降伏させました。


 日本の東西が源氏と平家に分かれる状態は、そのまま2年続き、1183年になりました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この小説は、一定の条件の下、改変、再配布自由です。詳しくはこちらをお読みください。

作者のサイトをチェック
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ