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第7章:福原遷都

 清盛が厳島神社に帰依なさり、福原を好んで住処となさるのにはわけがありました。彼は日宋貿易を新しい富の源泉とお考えになっていて、一門を上げて貿易の拡大に尽力していらっしゃいました。そのため、貿易の拠点となる福岡の大宰府だざいふの支配権を取得し、そこから京への交易路である瀬戸内海の海上交通の整備に尽力なさいました。広島の安芸国の厳島神社は海路の安全を祈願するためでした。また、兵庫の福原は神戸港を見下ろすところにありますが、神戸港は、瀬戸内海の海上交通における要衝でしたが、長らく荒廃していたところを、清盛が大規模な修繕をなさって、日宋貿易の拠点として再生なさったものでした。


 このように清盛が日宋貿易を重視なさる背景には、藤原氏の存在があります。政界を牛耳る藤原氏が、その長い歴史の中で、朝廷の介入を受けることのない私有地である荘園を日本中に拡大して、そのから上がる税を基盤に磐石な経済力を持っていたのに対し、新興の平家はそのような経済力を持っていませんでした。平家は最盛期で66カ国中の30カ国以上の国を治め、また支配権の及ばない荘園に対しても、藤原摂家との姻戚関係を介して実質的な支配権を得ました。しかし、それらはいわば借り物の基盤であって、平家の本源的な基盤ではありませんでした。そこで、清盛は、日宋貿易を平家を支える柱にしようとお考えになったのでした。


 清盛は、1168年に太政大臣を辞して福原に隠居なさってのちは、日宋貿易の拡大に尽力なさっていましたが、度重なる政変を経て、さらに踏み込んだことをお考えになり、794年に桓武天皇が造営し都とお定めなさって以来、400年近く続く平安京を捨て、福原に新しい都を造ることをご計画なさいました。平安京は、藤原氏が一等地に邸宅を持ち、延暦寺、三井寺、興福寺などの有力寺社に囲まれ、地理的に政変を防ぐことが困難だったためで、遷都してそれらの影響を排除しようとなされたのです。しかし、遷都には強い反対が予想される上に、「たいら」の氏を持つ平家が、その祖である桓武天皇が「たいらのみやこ」と名付けた平安京を捨てるのは縁起が悪いという意見もありました。


 そんな中、以仁王の反乱が起きた翌月の1180年6月に、突然、福原に遷都することが決まりました。しかも、2日にはもう天皇がご出発なさるということで、京中が大騒ぎになりました。天皇と一緒に、多くの公卿、殿上人もご出発し、3日に福原にご到着なさいました。まだ都の造営が進んでいなかったので、仮の皇居として清盛の弟の頼盛の邸宅が使われました。法皇については、清盛が以仁王の反乱について非常にお怒りになっていたため、福原にお移し申し上げた後、20畳ほどの板屋を作って閉じ込め申し上げてしまいました。邸宅が皇居となったことで、頼盛は4日には正二位に出世なさいました。


 あまりに突然の遷都だったので、福原京はまだ全く整備がされていませんでした。至る所の道が工事のために掘り返されていたため、常に迂回路を探す必要がありました。さらに、旧都と同じく九条の区割りを行おうとしましたが、土地が狭かったため五条までしか区割りができませんでした。そのため、京から移ってきたすべての人に土地を与えることができず、平家に近しい人々が優先的に土地を割り当てられました。そういう事情で、この遷都は、世間は言うに及ばず平家の中でも、評判がよくありませんでした。旧都の里内裏に誰かが書き付けた次の2首は、その時の気分をよく表しています。


 ももとせを四かえりまでにすぎきしに愛宕おたぎのさとのあれやはてなん

 咲きいづる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき


 福原京の遷都に反対する声が強かったので、内裏を始めとした官庁を急いで建設することに異論が出て、都の造営の計画がまとまりませんでした。遷都を積極的に推進なさりたい清盛は、内裏に似せた邸宅を私的に作り、里内裏として提供することになさいました。


 遷都の後から、平家の先行きに対する悪い噂が立つようになりました。中でもある人の見た夢で、次のようなものがありました。


 平安京の大内裏にある神祇官じんぎかん庁舎らしい場所に、正装した高貴な人々が会議らしいものを開いていらっしゃいました。すると、末席に座っていらっしゃった平家の味方をしていた様子の方が、会議を追い出されなさってしまいました。「あれはどのような方でいらっしゃるのでしょう」と尋ねたところ、「厳島大明神」という答えが返ってきました。上座に座っていらっしゃった老賢人が、「今、平家に預けてある節刀せっとうは、今度は源頼朝みなもとのよりともに預けよう」とおっしゃったところ、その隣にいらっしゃった別の老賢人が、「では、その後は私の孫にも預けてください」とおっしゃいました。「あの方々は」とまた尋ねたところ、「先にお話になったのが八幡大菩薩、後が春日大明神、そういう私は武内大明神」とおっしゃったところで、夢が覚めました。


 厳島大明神は平家の氏神で、八幡大菩薩は源氏の氏神、春日大明神は藤原氏の氏神、武内大明神は朝家に使えた伝説的な忠臣でいらっしゃいます。「平家の世がもうすぐ終わって、源頼朝を中心に源氏が返り咲き、源氏の世も終わった後には、藤原氏の子孫が天下の将軍になるというお告げに違いない」と人々は噂をしました。


 9月2日に、突如、福原に神奈川の相模国さがみのくに大庭景親おおばのかげちかから早馬の使者が着きました。その者の言うには、「8月27日に静岡の伊豆国に流罪になっていた源頼朝が、舅の北条時政ほうじょうときまさを派遣して、伊豆の目代を夜討ちにしました。その後、小田原の石橋山に300騎ほどで陣を取り三浦義明みうらよしあきらの援軍を待っているところを、景親が1000騎ほどで闇夜の暴風雨の中夜討ちにし、軍勢を壊滅させたものの、頼朝には山中に逃げられてしまいました。


 三浦義明は300騎ほどで援軍に来ていましたが、頼朝の敗北の知らせを受けて退却する途中に、鎌倉の由比ガ浜で畠山重忠はたけやましげただの500騎ほどの軍勢と合戦になりました。しかし、分が悪いと見た重忠は、一旦停戦として兵を退かせ、義明は横須賀の衣笠城きぬがさじょうに戻りました。そののち重忠は、3000騎余りの大軍を率いて衣笠城を攻めました。三浦一族は義明を除いて海に逃れ、義明は時間稼ぎのために城にこもり、討ち死にしました」と報告しました。


 重忠の父、重能しげよしはちょうど福原にいましたが、頼朝方に味方した武士達もみな知り合いで、平家に長年忠誠を尽してきたものばかりだったので、報告の内容が本当のことかと不思議に思いました。しかし、平家の人々は、すぐにでも戦が始まるのではと、遷都の不満もすっかり忘れて、血気盛んに猛り立っていました。清盛は激怒なさって、「頼朝をあの時死罪にしておくべきだったのだ。その恩を忘れるなど、今にも天罰が下るぞ」とおっしゃいました。


 そもそも源頼朝とは、1159年の平治の乱で敗れて殺害された源義朝の三男で、謀反人として捕らえられて死罪となるはずでした。ところが、清盛の義母の池禅尼が、早世した息子の家盛いえもりに頼朝がよく似ているのが不憫だと、助命を清盛に嘆願して断食を始めたため、清盛が折れられて静岡の伊豆国に流罪になったのでした。頼朝が14歳の時のことでした。


 伊豆国での流人生活は、比較的豊かな生活を送っていました。母が、愛知の尾張国おわりのくに熱田神宮あつたじんぐうの大宮司の娘であったため、大宮司からの援助を受けることができ、また乳母も毎年欠かさず仕送りを続けたためでした。河内源氏は失脚したとはいえ武家の名門であり、その棟梁だった源義朝の後継者である頼朝は、地方の武家からは一目置かれる存在でした。1178年には、頼朝の監視役であった北条時政の娘の政子まさこと結婚しました。


 流罪になって20年の月日が流れ、頼朝が34歳になった初夏のある日、叔父の源行家が訪れて以仁王の令旨を伝えました。その後すぐに以仁王の謀反が発覚し、宇治川の橋合戦に敗れてお亡くなりになり、慌ただしく福原京へ遷都が行われました。行家から、各地に散在する源氏一門が一斉に蜂起すると聞いていた頼朝は、源氏の棟梁の後継者として、自らも決起するべく準備を進めました。頼朝が未だ公式には謀反人の立場であったことと、すでに令旨をお下しになった以仁王は敗死なさり、またその令旨も最勝親王と身分を偽って下されたものであったことは、頼朝が挙兵するに当たって不安要素ではありましたが、東国の有力な武家が揃って頼朝を支持していたことが後押しになって、8月の挙兵となりました。


 頼朝の挙兵の報を聞いて、平家は、早いうちに大軍を派遣して、謀反の芽を摘んでしまうべきだという話になりました。石橋山の戦いでは、頼朝は敗れましたが、これまで平家に忠誠を誓ってきた武家が、意外なほど多く頼朝の挙兵に協力していたことがわかり、危機感を強めたためでした。しかし、折しも平家の地盤である西国を中心に大飢饉が発生していて、軍の編成が思うように進みませんでした。


 ようやく軍の編成が終わって福原を出陣したのは、9月18日のことでした。大将軍は重盛の長男の維盛で、当年23歳。絵にも描けない美貌の貴公子で、家宝の鎧を纏い、屈指の名馬に金であしらった鞍を置き、大通りを進んで出陣する姿は、言葉にできないほどのめでたさでした。しかし、軍の規模は4000騎余で、先の宇治川の橋合戦の時の28000騎からは随分少ない規模しか編成できませんでした。大将軍を、宗盛を始めとした時子の血筋からではなく、重盛一門から出すことになったのは、重盛の死後、平家の嫡流が重盛一門から宗盛一門に移ったことが背景にあり、この遠征軍が危険で勝算が少ないことを察した宗盛一門が、重盛一門に損な役回りを押し付けたのでした。


 高倉上皇は、維盛の出陣をお見送りになられると、厳島神社にお詣りなさいました。戦勝祈願という目的もありましたが、夏の終わり頃から体調が思わしくなかったため、病気平癒の祈願が主な目的でした。法華経、無量義経、普賢観経、阿弥陀経、般若心経を書写し申し上げなさって、さらにご自身でご願文をお書きになられ、お納めになりました。


 維盛は、今回の遠征では是が非でも戦果を上げたいと考えていました。重盛の死後、本来ならば長男として平家の棟梁の立場を受け継ぐのが筋であったにもかかわらず、より家柄のよい宗盛に嫡流が移ってしまい、もともとの嫡流であった重盛一門が傍流に追いやられてしまったことを悔しく思っていたためです。今回の源頼朝討伐の遠征は、維盛が東国に新たな基盤を作る好機でもありました。しかし、飢饉の中集めた軍勢の士気は低く、また兵糧も十分にはなかったため、軍中には厭戦気分が蔓延していました。


 福原を出て約1ヶ月、10月16日には静岡の駿河国するがのくにの清見が原に着きました。維盛は足柄峠を越えて、相模国に入って合戦をすることを主張しましたが、軍中からは峠を超えることに対する反対意見が強く、結局、富士川の西岸に陣を構えて、源氏方の軍を迎え撃つことになりました。これは、名目上は援軍を待って陣容を整えるということでしたが、実際には峠を越えて逃げ道を失いたくないという消極的な理由からのことでした。


 一方、石橋山の戦いに敗れた頼朝は海上に逃れ、千葉の安房国あわのくに、房総半島の南端に上陸しました。そこで東国の武家を招集し、10月初めには数万の軍勢を率いて鎌倉に到着し、ここを拠点と定めることを決めました。そして、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうの東に大倉御所おおくらごしょを建てて新しい政務の中心としました。16日に平家の軍が駿河国に入ると、それを迎え撃つべく鎌倉から出陣しました。


 同じころ、山梨の甲斐国かいのくにでは、頼朝の出身である河内源氏から分かれて甲斐国に本拠地を置いた甲斐源氏の武田信義たけだのぶよしも、以仁王の令旨を受け取って、挙兵を決意し、頼朝と呼応して平家の軍を迎え撃つべく出陣しました。


 富士川の東岸の浮島が原に集まった源氏の軍は、頼朝の軍、武田の軍、合わせて総勢20万騎余。20年越しの源氏再興の悲願に燃える源氏一門の士気は非常に高まっていました。それに対する平家の軍は、総勢4000騎余。功を焦る大将軍の維盛の気持ちと裏腹に、兵糧不足に悩む軍の士気は低く、軍の指揮系統は半ば機能していませんでした。そんな中で源氏の軍の規模の知らせが入ると、平家の軍の動揺はいっそう大きくなりました。


 23日になり、開戦の矢合わせは翌朝、富士川にてと決まりました。夜になり、平家の軍の武士が源氏の軍の方を見たところ、一面、野にも山にも海川にも火が上がっていました。これは、合戦を恐れて避難していた戦場付近の住民が、夕飯の支度のために火を使っている様子だったのですが、平家の軍の武士は、それを源氏の軍のかがり火と勘違いして、「源氏の軍は20万騎と聞いていたが、実際には100万騎位いて、すでに四方八方を包囲されているのではないか」と恐れおののきました。


 不安なまま、夜襲を警戒して一睡もせずに、じっと夜明けを待っている夜中過ぎ、突如、大きな音で、大勢の何かが水面を叩くような音が響き渡りました。


 「敵襲。」


 平家の軍の誰もがそう思い、宵の内に見たかがり火の様子を思い出し、「このままここに留まっては、取り込められて死ぬだけだ。一刻も早く逃げないと」と考え、取るものも取り敢えず、一目散に逃げ出しました。あまりに慌てたため、弓だけ持って矢を忘れるものや、人の馬に間違えて乗ってしまうもの、杭につないだ馬の綱を外すのを忘れて、杭の回りをぐるぐる回っているものもいました。馬に乗らない同行者の中には、馬に踏まれ、大怪我をしたり命を落としたりするものも少なくありませんでした。


 翌朝、源氏の軍勢が、一斉に鬨の声を上げて平家の軍の陣地に突撃してみると、すでに陣地には誰もいませんでした。頼朝は不思議に思って、あたりを隈なく捜索させましたが、敵の忘れていった鎧やら大幕やらは見つかるものの、平家の味方は蠅一匹見つかりません。頼朝は馬から降り、甲を脱いで、手と口を水で清め、京都の方を拝んで、「これは八幡大菩薩のご加護に違いない」と言いました。


 その後流れた噂によると、真相は、源氏の軍が翌朝の開戦を前に、兵の配置を変えるために行軍していたところ、途中で冨士川のほとりの富士沼に集まっていた水鳥が驚いて、一斉に飛び立ったのですが、その時の羽音を敵の総攻撃の音と勘違いした平家の武士が、慌てて逃げ出したということだったそうです。この合戦では、単に平家が負けたというだけでなく、あまりにも情けない負け方をしたため、これ以後、世間では、源氏は強く平家は弱いという評判が定着してしまいました。あちこちに平家の腰抜けっぷりを揶揄した落書きが見られました。


 富士川のせぜの岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏かな


 清盛は無様な敗戦の報告をお聞きになって、大変お怒りになり、「大将軍の維盛を鹿児島の薩摩国さつまのくにの鬼界がきかいがしまに流してしまえ」とおっしゃいました。しかし、あまりにも敗け方がひどかったため、人智を超えた何かが起きたのではないかと恐れた平家の人々は、維盛を咎めることはせず、代わりに戦乱鎮定の祈祷を行うことになりました。


 一方、戦に勝った頼朝は、余勢を駆って追撃して、京に攻め込もうとしましたが、側近の武士達に、まず東国の支配を確実にすることが先決だと諌められ、鎌倉に戻りました。


 11月13日には、清盛が造営なさっていた里内裏が完成し、安徳天皇が頼盛の邸宅から里内裏にお移りになられました。11月はその年の収穫を祝う新嘗祭しんじょうさいという行事が天皇を中心に行われますが、今年は天皇が即位して初めての新嘗祭であったので、より大規模に大嘗祭だいじょうさいを行わなければなりませんでした。


 大嘗祭は、まず、10月の終わりに天皇が賀茂川で身をお清めになられます。大内裏の北に臨時の社務所を建てて神服・神具を整えます。大内裏の中心の大極殿だいごくでんの前に廻立殿かいりゅうでんを建て、大嘗祭の当日はそこで沐浴して身を清めます。廻立殿の南には大嘗宮だいじょうぐうを建て、ここが祭の中心となります。お供えがあり、神楽を舞い、奏楽を納めます。その他にも、11月の月初から月末まで、様々な行事が行われます。


 しかし、福原京はまだ遷都して日が浅く、大極殿すら建設されていませんでした。大嘗祭に必要な様々な準備をする余裕はなかったので、大嘗祭を実施することは断念して、通常の新嘗祭を行うことになりました。しかし新嘗祭すら福原京で行う準備が整わないため、新嘗祭は旧都の平安京で行い、そのうちの五節のごせちのまいという行事だけを福原京で行いました。

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