第6章:以仁王の挙兵
以仁王は、独りで月を見て、詩想を練っていらっしゃいました。時は5月15日、満月です。空にはところどころに雲が浮かび、月は雲に隠れては現れ、現れては隠れていました。
そこへ、源頼政からの使いが、慌ただしく参上しました。「例の謀反の企みが明るみになってしまいました。清盛殿はあなたを高知の土佐国に流罪にすると申し上げなさっています。すぐに役人がそちらに参上するでしょう。急いで三井寺に向かわれてください。私もすぐに参ります」との伝言をお聞きになって、「これは大変なことになった」と大騒ぎなさっていると、王に日頃からお仕えする侍に信連というものがいましたが、「他にいい方法はなさそうです。女装なさってください」と申し上げたので、市女笠を被ってご出発なさいました。
信連は、以仁王とは同行しないで、留守になった邸宅で見苦しいものが残っていないようにと片付けをしていました。すると、王の秘蔵の小枝という名前の笛が、寝室の枕元に置きっぱなしになっていました。王は笛の名手で、蝉折と小枝という2つの名器をお持ちになっていましたが、その夜、吹くつもりで出しておいたのを、大騒ぎの中取り忘れてしまわれたのでした。王も小枝を忘れたことにお気づきになり、急いで取りに戻ろうと思われたその時に、500メートルほどの距離を信連が急いで追いかけてきて、小枝をお届けしました。
王は大変お喜びになって、「この笛は私の宝です。私がいつか死んだ時には、忘れずにこの笛を一緒に墓に入れてください」とおっしゃって、さらに信連に、「そのままお供をしなさい」とおっしゃったところ、信連は、「すぐにでも役人たちが来るはずでが、その時に邸宅に誰一人残っていないのは礼儀に反して恥ずかしいことです。信連がお仕えしていることは誰もが知っていることですから、今夜いなければ、信連も逃げたのかと思われてしまうでしょう。大したことのない武士ではありますが、それでも名誉が惜しく思います。役人たちを適当にあしらって、すぐに打ち破って参上いたしましょう」と申し上げ、そのまま急いで走り帰りました。
やってきた役人は、源頼政の次男の兼綱と、源光長を頭に、総勢300騎ほどでした。兼綱は、父頼政が以仁王に謀反を持ちかけ申し上げた件を知っていましたので、門から離れたところに陣をとりました。光長は、馬に乗ったまま門内に打ち入り、庭に立ち止まって大声で、「ご謀反の噂がありましたので、検非違使の長の命を受けて、お迎えに上がりました。急いでお出でください」と申し上げました。検非違使とは京の治安維持と紛争調停を行う警察と裁判所を合わせた役所のことです。
「王はただいまお寺にご参詣のため、外出なさっています。どういうご用件でしょうか?」と信連は答えました。光長は、「何を馬鹿な。ここでなければどこにいるというのだ。お前たち、行って探し出してこい」と配下の侍たちに命令しました。信連は、「ものの道理をわきまえない役人だな。馬に乗ったまま門内に入るのすら非常識なのに、手下を使って邸内を探しまわらせるとは、何という無礼だ。ここにいるのは、左兵衛尉長谷部信連だ。近寄るとけがをするぞ」と侍たちを睨みつけました。
侍たちの中から、怪力で勇猛なものが十四五人、信連を仕留めて名を上げようと、板間の上に飛び登りました。信連は上着の狩衣を引きちぎって脱ぎ去るや否や、それほど大きくない衛府太刀ではあるものの、よく切れるように念を入れて作らせたものを抜いて、さんざんに切りました。敵は、もっと大きい大太刀や大薙刀を使ったのに、信連の衛府太刀に切り立てられて、嵐で木の葉が散るように、侍たちは庭に追い返されました。
十五夜の月の光で、庭は明るく照らされていました。敵は無案内で、信連は案内者です。あちらの軒先でザンと切り、こちらの行き止まりでズバッと切ります。「検非違使の使いに何をする」と言うと、「それがどうした?」と言って、太刀が押し負ければ飛び退いて、押しなおし、踏みなおし、瞬く間に飛び掛ってきた腕利きの十四五人を全員切り倒しました。しかし、太刀が先から10cm位のところで折れてしまって、これまでかと思い、腹を切ろうと腰に手を伸ばすと、脇差の鞘巻はどこかで落としてありませんでした。仕方なく、両手を大きく広げて威嚇し、門から走り出て落ちようとしたところ、大薙刀を持った男が立ち塞がりました。薙刀の柄を足で踏みつけようと跳びかかりましたが、踏み損ねて、太腿を何箇所も刺され、闘志は失わないのものどうしようもなく、大勢に取り囲まれて生け捕りにされました。
結局、邸内を探しても以仁王は見つからなかったので、信連を捕らえただけで、六波羅に帰りました。清盛は御簾の内側にお座りになっていました。縁側に宗盛がお立ちになって、信連を庭に座らせ、「本当に、お前は、『検非違使がどうした』と言って切ったのか。多くの役人を切りつけ殺害したそうだな。どういう理由なのか、じっくり尋問して、しっかりと事の次第を聞いた後で、河原に引き出して首を刎ねなさい」とおっしゃいました。
信連はそれをお聞きするや、大笑いをして、「最近、夜な夜な、邸宅の外から中の様子を窺うものがいたので、用心していたところ、武装したものたちが打ち入ってきて、『検非違使の使いだ』と名乗ったわけですが、山賊やら強盗やらは『某公のご子息がいらっしゃった』だとか『検非違使の使いである』などと言って油断させると聞いていましたので、『検非違使がどうした』と言って切ってやったのです。もしきちんと甲冑を身にまとい、もっとよい太刀を用意していれば、誰一人無事で返すことはなかったのに、残念です。王のことはどこに行ったか知りません。例え知っていても、侍が知らないと言った以上は、どんな尋問にあっても話すことはありません」と申し上げました。
「素晴らしく勇猛な男だ。あれほどの男が切られてしまうというのは残念だな」と、平家の侍たちが口々に話して惜しんでいると、何を思われたのか、清盛は信連を処刑にするのは止めて、鳥取の伯耆国に流罪になさいました。
さて、以仁王は、北東の方に向かわれて、賀茂川を超え、如意山にお入りになりました。勝手の分からない山道を一晩中お歩きになったので、不慣れなことですから、足から血がにじんでいらっしゃいました。明け方にやっと如意山を抜けて、三井寺にお着きになりました。また、源頼政とその息子たち、及び配下の都合300騎ほども、その夜には三井寺に集合しました。
三井寺の僧たちは、今後のことを議論しました。もともと三井寺は、後白河法皇との縁が深い寺でした。というのは、法皇は勢力を増大させてきた延暦寺の存在を脅威にお感じになられ、延暦寺とたびたび対立なさって来られましたが、延暦寺の勢力に対抗するために、同じ天台宗の寺の中で由緒の正しい三井寺を、延暦寺の代わりとして支援していらっしゃいました。そのため、三井寺の僧たちは、法皇が幽閉されなさったことで、平家に対して反発を感じていました。
そんな中で起きた以仁王の挙兵でしたので、三井寺の総意は以仁王をお助けして、平家を滅ぼすことでした。しかし、平家の軍事力は強大でしたので、頼政と三井寺の武力だけでは太刀打ちできません。そこで、同じ仏門のよしみを頼って、延暦寺と奈良の興福寺に援軍を依頼することにしました。
延暦寺へは次のような内容の書状を送りました。「力をお貸しください。当寺は今まさに滅亡の危機にあります。先日15日の夜、密かに以仁王がいらっしゃいましたが、平家は院宣と称して以仁王を引き渡すよう要求していて、今にも大軍に攻められて滅ぼされようとしています。延暦寺と三井寺は、宗門が分かれたとはいえ、同じ天台宗を信仰している、いわば、鳥の両翼、車の両輪のようなものです。どちらか片方でも欠けてしまっては、大変残念なことです。ここで力を合わせて当寺の滅亡の危機を救っていただければ、長年の遺恨も消えて、昔のような交流を取り戻せるのではないでしょうか。」
延暦寺はこれを見て、「三井寺は当寺の末寺であるのに、鳥の両翼、車の両輪とは奇怪なことをいう」と逆に腹を立て、返事も返しませんでした。延暦寺と三井寺は長年反目しあってきた間柄であった上に、天台座主の明雲僧正が平家の支持を受けて、平家との関係が深かったため、平家を滅ぼそうという以仁王の考えには賛同できないという背景もありました。
奈良の興福寺へは次のような内容の書状を送りました。「力をお貸しください。当寺は今まさに滅亡の危機にあります。先日15日の夜、密かに以仁王がいらっしゃいましたが、平家は院宣と称して以仁王を引き渡すよう要求していて、今にも大軍に攻められて滅ぼされようとしています。仏法も王法も一度に破滅する危機です。加えて興福寺は平家に藤原氏の氏長者を流罪にされた宿縁があります。今を無くして、いつ会稽の恥を雪ぐ機会があるでしょう。力を合わせて悪逆の徒を退けましょう。」
興福寺は、事の推移を見て、すでに三井寺への援軍を準備していたので、すぐに返事を返しました。しかし、京と奈良の間を使者が往復するには少し時間がかかります。三井寺が興福寺に書状を送ったのは18日、興福寺が返事を返したのが21日で、それが京に届くにはさらにもう少し時間が必要でした。
興福寺が平家に反感を持っていたのには理由がありました。興福寺はもともと藤原不比等の御願によって立てられた寺で、以来氏寺として藤原氏との関係が深く、藤原氏の氏神の春日大社も支配下に置き、奈良の大和国を実質的に支配していました。そのため、盛子を介して藤原氏の実権を掌握しようとする清盛の動きに反発していました。また、669年建立以来1180年まで約500年の歴史を持つ興福寺にとって、父忠盛の時にようやく殿上人になったばかりの平家が我が物顔に振舞うことに対する怒りもありました。
延暦寺、興福寺に送った使者が戻らない中、三井寺では、「延暦寺は心変わりした。興福寺からの返事はまだ届かない。いつまでも待っていたら平家も体制を整えてしまう。すぐに六波羅に押し寄せて夜討ちにしよう。老いと若きの二手に分かれて、年長は頼政を大将軍にして、敵背後の搦手に進もう。足軽を200人ほど先に進めて、白河の民家に火をかけて焼き払えば、六波羅の武士達は驚いてそっちに向かうだろう。そこをついて攻め込もう。敵正面の大手には頼政の長男の仲綱を大将軍にして、六波羅に押し寄せ、風上に火をかけて奇襲を仕掛ければ、清盛を討ち取れるに違いない」と議論になりましたが、「平家の味方をするわけではないが、平家の軍事力は侮れない。小勢では簡単には攻め落とせないだろう。よくよく準備を整えて、時間をかけて攻めるタイミングを見計らうべきでは」という意見もあり、なかなか結論が出ませんでした。しかし、最後には、興福寺の返事を待たずに、奇襲を仕掛けることでまとまりました。
22日の夕方、搦手には頼政を大将軍に1000人、大手には仲綱を大将軍に1500人で三井寺を出発しました。先日から防御のために堀を掘っていたのですが、そこを通るための橋を渡すのに思いがけず時間がかかってしまい、道の途中の逢坂の関のあたりで鶏の鳴く声がしました。「ここで鶏が鳴いては、六波羅につく頃には昼過ぎになってしまう」と頼政が言いましたが、「あれはきっと平家の策略です。ここで止まっては思うつぼです」と言うものがいて、そのまま進んだところ、やはり世が明けてしまいました。夜が明けてしまっては夜襲にならないので、仕方なく三井寺に引き返しました。
以仁王は、この様子を見て、「三井寺だけではやはり戦えない。今のうちに興福寺に本拠地を移そう」とご決断なさいました。王は蝉折と小枝という2本の笛の名器をお持ちになっていましたが、戦いの勝利をお祈りになって、三井寺の金堂の弥勒菩薩に、蝉折をご献上なさいました。そして、頼政の配下の侍と三井寺の僧兵ら合わせて1000人を引き連れて、興福寺に向かって発たれました。三井寺に残る老僧たちも、王と共に行こうとしましたが、行軍速度が遅くなることを避けるために留まらざるを得ず、王を見送る目に涙を流さないものはいませんでした。
一行は宇治の平等院のあたりに差し掛かりました。前日、ほとんど寝ていらっしゃらなかったせいか、王はそこまでの道のりで6回も落馬なさいました。これでは興福寺まで持たないと思った頼政は、平等院で王を休ませ、背後から追いかけてくるはずの平家の軍を宇治川で食い止めることにしました。平家の軍が平等院に攻めこむには、宇治橋を渡るか、大きく川を迂回するしかありません。宇治橋は全長150メートルほどありましたが、うち7メートルほどの橋板を外して渡れなくして待ち構えました。
平家は、宗盛の弟の知盛と重衡を大将軍として、総勢28000騎余、以仁王の軍の28倍の軍勢で宇治橋に押し寄せました。王が平等院にいらっしゃると分かると、鬨の声を3度上げて、勢いに乗って宇治橋を渡って攻め込みました。先陣が、橋板が落とされていることに気づいて、慌てて部隊を止めようとしましたが、喊声を上げて突撃する後陣に押されて、200騎ほどが川に落とされてしまいました。
宇治橋が渡れないとわかった平家の軍は、地形的に不利な橋の上に留まるのをやめ、以仁王の軍と平家の軍が、宇治橋の両端で睨み合う形で対峙しました。戦いの開始の合図の矢合わせとして、互いに矢を射かけました。王の軍から放たれた矢は、150メートルの川を渡ってなお勢いが衰えず、鎧も盾もたまらずに平家の武士数人を貫きました。
王の軍から五智院但馬という僧兵が、大薙刀を手に、ただ1騎で橋の上に進み出ました。平家の側は、「あれを射取れ」と究竟の弓の上手が、差しつめ引きつめさんざんに射かけました。但馬はまったく騒がず、高い矢は頭を下げてやり過ごし、低い矢は飛び上がってやり過ごし、向かってくる矢は薙刀で切って落としました。敵も味方も感心する動きで、「矢切りの但馬」という異名がここから付けられました。
士気の上がった王の軍からは、さらに別の僧兵が進み出て、「日頃は噂に聞いていようが、今はその目でご覧になれ。三井寺にその人ありと言われた、筒井の浄妙明秀という、一人当千の強者である。我と思うものは進み出よ。見参せん」と名乗りを上げて、24本差してある矢を次々と射かけたところ、たちまち12人を射殺して、11人を負傷させて、手元に1本残りました。弓を投げ捨て、裸足になり、橋板を剥がしたあとに残った細い行桁の上を、まるで二条大路を走るように、すたすたと走り渡りました。瞬く間に薙刀で5人を薙ぎ伏せ、6人目で中程で折ってしまったので、太刀を抜いて八方隙なく切りつけました。一気に8人を切り伏せ、9人目の甲を切りつけたとき、刀が手元で折れて河に落ちてしまいました。もはやこれまでと、腰刀を抜いて自害しようと決意しました。
そこに一来法師という僧兵が、浄妙房の後ろに続いていましたが、行桁は狭く、浄妙房の脇を抜けて前に出ることができませんでした。浄妙房が太刀を落としたのを見て、一来法師は、「失礼」と肩に手をかけて、さっと飛び越えて敵陣の中に飛び込み、討ち死にしました。浄妙房はなんとか平等院まで戻って、鎧を脱いでみると、刺さった矢は63本、突き抜けたものは5本ありましたが、いずれも大事には至らず、ところどころにお灸をし、僧衣を着替えて、矢を切って杖にして、阿弥陀仏を唱えながら、奈良に向かいました。
他のものも、浄妙房と同じように、続々と行桁を渡って平家の軍に攻め込みました。橋の上の戦いは、火が起きそうなほど激しいものでした。平家の側では、「橋の上の戦況は思わしくありません。数の有利を活かすなら、河を渡るべきですが、あいにくの梅雨の五月雨で増水しています。ここは迂回をするべきかと」と言うものがありましたが、「迂回とは、インドや中国にでも行くつもりですか。目の前の敵を見逃して、奈良に着いてしまっては、援軍が集まって事態が余計に悪化するではないですか。坂東武者は、敵を目の前にして、河を隔てた戦で、流れが深い浅いを選り好みなどしません。利根川と比べてどれほどのものだというのでしょう」と言うものがあり、300騎くらいが一気に打ち渡りました。
真っ先に河に入った足利忠綱は、後続の兵に向かって、「強い馬を川上に、弱い馬を川下にしろ。馬の足が届く間は手綱を緩めて歩かせろ。足が届かず暴れるようなら手綱を短くして泳がせろ。流されそうなものがいたら弓を伸ばして捕まらせろ。手を組んで、肩を並べて渡るといい。弓を引くな。射かけられても相手にするな。甲の錣を引いて、顔を射られないようにしろ。ただし、引きすぎて天辺の穴を射られるな。流れに逆らわず、斜めに渡れ」と指示して、1騎も失わずに渡りきりました。
岸に着いた忠綱は、馬の上に、鐙を踏ん張って体を起こし、大声を上げて、「遠いものはその耳で、近いものはその目でご覧になれ。昔、平将門を討ち取った、俵藤太秀郷から10代の末裔、足利太郎俊綱の子、又太郎忠綱、生年17歳。このように無位無官のものが王にお向かいして弓を引くのは恐れ多いが、弓も矢も神仏の加護も、平家の下にいるのでしょう。われと思うものは進み出よ。見參せん」と言って、平等院の門の内に攻め入って戦いました。
これを見て大将軍の知盛は、「渡れ、渡れ」と命令なさったので、総勢28000騎が一気に河を渡りました。馬や人が河の水を遮ったので、水は川上に溜まって川下は膝も濡らさず歩けるほどでした。ところが、どうしたことか三重の伊賀、伊勢の両国の兵600騎が、馬を載せた筏が壊れて流されてしまいました。萌黄、緋縅、赤縅、色々の鎧が浮き沈みする様子は、竜田川の秋の暮の紅葉が流れるようでした。その中で緋縅を来た武士3人が網代にかかってもがいている様子を見て、
伊勢武者はみなひおどしのよろひ着て宇治のあじろにかかりぬるかな
と笑うものもいました。
この様子を見て、もう防ぎきれないと思った頼政は、以仁王を裏手から逃して興福寺に向かわせ申し上げ、自らは時間稼ぎのために平等院に留まって平家の軍を食い止めました。しかし、左の膝口を射させ、もはやこれまでと悟り、自害しようと平等院の中に入りました。敵兵を振りきって、西に向かい、大声で阿弥陀仏を10回唱え、
埋木のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける
と詠んで、太刀の先に腹を突き立て、うつ伏せざまに貫きました。歌が詠めるような状況ではなかったのですが、若い頃から好きで続けてきた道だけに、最後の時も忘れることはできなかったのでしょう。息子たちも、長男の仲綱は痛手を負って自害し、次男の兼綱は父をかばって討ち死にしました。
平家の軍の中に、飛騨守景家という歴戦の古参兵がいましたが、経験から、この混乱に乗じて以仁王が裏手から興福寺に向かってお逃げになったと考え、500騎ほどを連れて、戦いには参加せず、王を追いかけ申し上げました。予想通り、30騎ほどでお逃げになっているところを、光明山寺の鳥居のあたりで追いつき申し上げ、雨が降るように矢を射かけ申し上げたところ、内の1本が王の左脇腹に命中して落馬なさって、討ち死になさいました。王の秘蔵の小枝の笛は、お腰に差されたままでした。
戦いに先立って、興福寺は7000人の大軍を整えて出発していましたが、光明山寺の鳥居の手前5、6キロメートルのところまで来たところで、以仁王が討ち死になさったとの知らせが届きました。あとほんのわずかの距離が足りなくて、討ち死になさった王のご武運のなさは、本当に気の毒なことでした。
その数日後、平家の軍は三井寺に向かっていました。以仁王を匿った罪で三井寺を攻めるためでした。午前6時頃矢合わせして、日が暮れるまで戦い続けました。僧兵の死者は300人にのぼり、日が暮れてからようやく寺の境内に攻め入ると、平家の軍は寺に火を放ちました。堂舎・塔廟637宇、民家1853棟、一切経7000余巻、仏像2000余体が忽ちに煙となってしまいました。高僧たちはみな官職を剥奪され、検非違使が身柄を拘束しました。また、僧兵30人余が捕らえられ、流罪になりました。
すべての片がついた後の5月30日、以仁王討伐の功績を労うための任官が発表されました。その中で、宗盛の長男の清宗が従三位に出世なさいました。わずか12歳。父宗盛ですら、従三位に出世なさったのは21歳の時で、これほど若くして公卿の位に上がられるのは、摂政関白の子息の他には聞いたことがありません。功績には、「源以光・頼政法師父子追討の賞」とありました。源以光とは以仁王のことで、もはや死後朝家に列することすら許されませんでした。