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第5章:法皇の幽閉

 盛子の死によって帰属が問題となった藤原摂家の領地について、まず動いたのは平家でした。筋で言えば、当時の藤原氏の氏長者の基房もとふさが相続するところでしたが、基房は平家との関係がよくありませんでした。また、もともと基房は中継ぎであって、いずれ盛子の養子で平家と関係の深い基通が相続するはずでした。そこで、領地については、平家との関係が良好であった高倉天皇が、ひとまずすべて受け継がれて天皇直轄となさることになりました。これに対し、平家への不満を強めていた法皇は、基房の抗議を聞き入れ、朝家の家長としての立場を利用なさって、その領地の管理者に法皇の側近をあて、事実上法皇が没収なさってしまいました。これは、将来、これらの領地を基房の下に返すことを想定した措置でした。


 さらに、法皇は平家に対する圧力をお強めなさいました。重盛が治めていた福井の越前国えちぜんのくには、本来、長男の維盛が相続するところでしたが、重盛の逝去を機に没収なさってしまいました。この措置は、重盛一門を継いだ維盛一門の経済基盤を脅かすもので、清盛は大いに反対なさったのですが、法皇は強行なさいました。重盛の後を継いで平家の棟梁となった宗盛と、重盛一門を継いだ維盛との間の融和に腐心なさっていた最中の措置であったため、清盛はこの件で維盛を見捨てることはできませんでした。


 法皇と清盛の対立が先鋭化する中、その年の11月7日の午後9時頃、京で大きな地震が起こりました。当時、占いや天文学や暦を管轄する陰陽寮おんみょうりょうの長官の陰陽頭おんみょうのかみ安倍泰親あべのやすちかでしたが、地震が起こると即座に宮中を訪れて、「占いによると、今度の地震は大変な災いが起きる前触れです。しかも、それは今すぐにでも起きてもおかしくありません。以ての外の緊急事態です」と申し上げて、あまりの興奮に涙をぼろぼろとこぼしました。若い公卿はそれを見て大げさだと笑ったのですが、泰親は伝説的な陰陽師である安倍晴明あべのせいめいの5代目の子孫で、雷が落ちても雷のほうが泰親を避けるほどの術師でしたので、天皇は心中不安にお思いになられました。


 11月14日、突如、清盛は数千騎の軍勢を連れて、兵庫の福原から上京なさいました。世間では、「平家は朝家をお恨み申し上げているに違いない」との噂が流れました。翌日、法皇は清盛に使者をお立てになられ、「最近は政治が落ち着かなく、人心も乱れがちで、大事に付け小事に付けご心配なさっています。清盛のことは日頃から頼りにお思いになっているのに、天下を鎮めることは難しくても、朝家を恨んで物騒がしく押し寄せるとはどういうことですか」と問いただしなさいました。


 その使者は、朝、清盛の西八条邸に着いたのですが、部屋に通されたまま夕方まで待たされました。さすがに清盛には会えないと思って、伝言を頼んで帰ろうとしたときに、やっと清盛に呼ばれました。


 清盛は怒りに震えながら、こうおっしゃいました。「重盛が亡くなってからこれまで、努めて悲しみを押さえてまいりましたが、さすがに我慢ができなくなってしまいました。


 保元以来、世の中では騒乱が続いて、天皇も法皇もなかなか安心してお過ごしになられることができない状況でしたが、それを鎮める時に私は大まかな指示をするだけで、細かいことはすべて重盛が取り仕切っていました。その他、大きな行事から日常の政務まで、重盛ほど頼りになるものはいませんでした。昔から、忠臣が亡くなったときに君主はそれを悲しむと言います。君主と臣下の絆は、親子よりも強いともいいます。それにもかかわらず、法皇は、重盛の喪中であるにもかかわらず、石清水八幡宮でお遊びになって、お嘆きの様子を全くお見せになられませんでした。私の悲しみへの哀れみをお忘れになられるだけでなく、重盛の忠誠までもお忘れになられるとはどういうことなのでしょう。


 また、重盛に越前国をお預けなさったとき、子孫代々に渡って変更することのないお約束でお預けになられました。にもかかわらず、重盛が亡くなった直後に没収なさったのは、何の罰なのでしょう。さらに、同じ時に、藤原摂家の方々に対する任官でも、私の反対を無視して、長幼や位階の順に外れた人事がありました。道理に叶って議論の余地のないことを、強引に押し曲げることは、残念なご采配と言わざるを得ません。


 その上、先だっての成親の謀反は、成親の個人的な企てではなく、法皇のご指図でいらっしゃったと聞いています。今更ながら、朝家の恩は7代までといいます。しかし、すでに1代目である私の代で、平家を滅ぼそうとなさいました。これでは、子孫代々朝家にお仕え申し上げることは叶わないことと考えるより他はなく、いろいろ考えて心を配ってもどうしようもない世の中なら、いっそどうとでもなってしまえと思った次第です。」


 法皇は、使者から清盛の言葉をお聞きになられましたが、理屈の通った話であったため、なんとも反論なさることができませんでした。


 清盛は、数千騎の軍勢の力を背景に、法皇を政治的に無力化し、引退させ申し上げなさいました。まず、関白、太政大臣を始め、法皇寄りの公卿、殿上人、計43人を解任し、関白や太政大臣など重要人物を流罪になさいました。そして、関白の基房の後任として、盛子の養子の基通が関白になられました。さらに、先に法皇によって職を解かれていた明雲僧正を2年半ぶりに天台座主にお戻し申し上げなさいました。清盛は、明雲僧正を解任する時にも反対して、以来ずっと支援していらっしゃったためです。


 20日には、法皇の邸宅である法住寺邸を軍勢で取り囲みました。平治の乱の時のように屋敷に火をかけられるのではないかと、お仕えする人々は大騒ぎをして、法皇もどうなることかと心配なさいました。宗盛が牛車を寄せて、「急いでお乗りください」と申し上げたところ、法皇が、「成親のようにどこかに流されてしまうのか。天皇がまだ19歳だからこれまで世話を焼いてきたが、それがよくないというならこれからは政務に口出しするのはやめよう」とおっしゃいましたが、「そうではなく、世を鎮めるために鳥羽邸にいらっしゃっていただきたいと、父が申し上げております」と申し上げなさいました。


 「そういうことなら、宗盛がそのままお供しなさい」とおっしゃいましたが、宗盛は清盛の機嫌を損ねる事を心配して、お供し申し上げなさいませんでした。法皇は、「ああ、宗盛はやはり重盛からは随分見劣りがする。一昨年にも同じようなことがあったが、重盛が身を挺してかばってくれたから、これまでやってこれたのだ。清盛を諌めるものがいなくなった今は、この先もどうなるかわからないな」と、涙をお流しになりました。


 法皇のお車にお供するものは、法皇の乳母の他、誰もいませんでした。鳥羽邸にお着きになっても、誰もお迎えには上がり申し上げませんでした。法皇は、今夜にでも処刑されてしまうかもしれないとお考えになって、独り、一心にご読経をなさいました。


 天皇は、事態の急な進展に驚きなさって、法皇の身をご案じになられて、全く食事もお取りにならず、ご病気ということで政務にもお出でになりませんでした。さらに、臨時の神事として、夜毎、天照大神がいらっしゃいます伊勢神宮にお向かいになってお祈りなさいました。この神事は、公務としてではなく、全く法皇の無事を祈ってのことでした。


 清盛は、このクーデターで平家政権を打ちたてようとなさったわけではなく、あくまでも法皇を引退させ申し上げて、法皇の勢力を政界から追放することが目的でいらっしゃいましたので、法皇については鳥羽邸に幽閉し申し上げるのみで、保元の乱の崇徳上皇のように流罪にし申し上げることはありませんでした。また、解任されて欠員が出た役職については、平家の人々はほとんど出世することはなく、主に、平家と親しいか、もしくは、中立派の藤原氏の貴族を後任としてあてなさいました。また、クーデターで解任された人々も、重要人物以外の多くは、事態が落ち着いたあとに政界に復帰しています。


 思うままに政界再編の大鉈をお振るいになった後、清盛は後のことを宗盛に託して、兵庫の福原にお帰りになりました。


 法皇は、そのまま鳥羽邸で冬を過ごされました。山の嵐の音のみが響いて、人気のない庭は月の光が明るく照らしていました。庭には雪が降り積もっていましたが、足跡をつける人もなく、池には氷が幾重にも重なって、鳥の群れもいなくなってしまいました。近くの大寺おおでらの鐘の音は、古の遺愛寺いあいじの音を思い起こさせ、西山の雪の色は、遺愛寺の裏にあったという香炉峰こうろほうの雪を見るようでした。夜には洗濯物をきぬたで打つ振動が、霜が降りて冷え切った地面を通じて枕に響き、明け方には氷の上を軋みながら通り過ぎた牛車のわだちが、表の通りに残っています。世の人々が忙しく日々を送っている様子が窺い知れて、かえって悲しみを誘います。鳥羽邸にいるのは、他には警護の衛士えじたちだけで、「彼らは、前世に私とどういう縁があって、このように守っているのだろう」と、思いがけないことを疑問に思われるほどまでに、何かにつけ、感傷的なお気持ちになられるのでした。昔、あちこちの名所にお出かけになられたこと、神社仏閣にご参詣になられたこと、宮廷での祝賀会のことなど、頭に浮かぶのは懐かしい思い出だけで、そのたびに涙を押さえて袖を濡らしました。


 やがて、年も明けて、1180年になりました。


 清盛は福原にお帰りになりましたが、もう一つ、大事なことが残っていました。それは、法皇が引退なさった後の朝家の体制を安定させることでした。当時の慣例として、形式的には天皇が最高権力者でいらっしゃいますが、実権は上皇か法皇の誰かがお持ちになられるのが、安定した朝家の体制でした。そこで、高倉天皇に、当年で3歳になられる徳子との間の皇子に天皇位をお譲りになって頂き、高倉上皇として実権をお持ちになって頂くことになりました。そして、2月21日に、皇子は安徳あんとく天皇としてご即位なさいました。


 高倉上皇の母は平滋子であり、妻は清盛の娘の徳子です。そして、その徳子の子が、安徳天皇で、乳母は平時忠の妻でした。安徳天皇の即位は、朝家の外戚を平家で固めることになり、平家政権は完成を見ることになります。これは、長らく続いてきた藤原氏を中心とする貴族から、新しく力をつけて台頭してきた武家へと政治の中心が移動した象徴的な出来事でありました。


 譲位した直後の3月上旬に、高倉上皇は広島の安芸国の厳島神社にお詣りになられることになりました。慣例では、譲位の後は、石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社のどれかに最初にお詣りになられるのですが、それらをすべて飛ばして、遠い安芸国へといらっしゃることに、人々はさまざまに噂をしました。ある人は、「厳島神社は清盛殿が深く信仰なさっている神社なので、表向きは平家との関係に配慮なさってのことだが、その心中では法皇のことをお考えになって、清盛の悪心を和らげることをお願いなさるのではないか」といいました。


 ところが、この参詣に、延暦寺は強く反発して、「石清水、賀茂、春日のいずれかでないなら、比叡山の山王権現にこそお詣りなさるべきなのに、安芸国の厳島神社にいらっしゃるというのは、一体いつそんな先例があったというのか。これは、また、神輿を担ぎ上げ申し上げて、お止めしなければいけない」と議論を始めたので、清盛は福原にいらっしゃいましたが、先に座主に復帰した明雲僧正を通じて、あれこれと手を尽くして、延暦寺の機嫌をなだめなさいました。


 17日に上皇が、厳島神社の件とのことで、西八条邸にいらっしゃいました。清盛は福原にいて不在でしたので、宗盛が代わりに応対し申し上げました。上皇は、「今度の厳島神社のお詣りでは、途中で鳥羽邸に寄って、法皇にお会いしたいとお思いになっているが、どうだろうか。清盛に一言言っておいたほうがいいだろうか?」とおっしゃったところ、かねてから法皇と上皇の心中を察してお心を痛めていらっしゃった宗盛は、はらはらと涙を流して、「問題なんてあるはずがありません」とおっしゃいました。宗盛は、急いで鳥羽邸に行って、そのことを法皇にお伝え申し上げました。法皇は、これまで大変強くご希望なさっていらっしゃったものの、未だに一度も上皇と面会できていらっしゃらなかったので、あまりのうれしさに、「これは夢ではないのか」とおっしゃいました。


 翌々日の早朝、まだ夜が開けないうちから、上皇はご出発なさいました。弥生やよいも半ばを過ぎましたが、空に残る有明ありあけの月は、まだおぼろに霞んで見えました。まだ春の空が残っているのか、あるいは初めて京を離れられる不安がそうさせるのか、ご自身にもよくお分かりになりませんでした。鳥羽邸へは、夜が明ける前にお着きになり、日が高くなるまでお話になられました。上皇は、法皇のお住まいの寂しげな様子を心苦しくお思いになり、法皇は、上皇が慣れない海路の旅で何事も無く無事にお帰りになられるかどうか不安にお思いになりましたが、どうすることもできず、そのままお別れになって、鳥羽の草津くさづの港から船にお乗りになられました。


 7日間の航海の末、安芸国の厳島神社にお着きになりました。そのまま3泊なさって、写経や舞楽が行われました。さまざまある社にひとつひとつお詣りなされ、名所もお巡りになられました。白糸の滝の前にある滝の宮というところで、お供していた公兼僧正が歌を詠んで、拝殿の柱に書きつけました。


 雲井よりおちくる滝のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき


 29日には、厳島神社をお発ちになられました。翌4月5日には、兵庫の福原にお立ち寄りになられました。お供の方々は早く京に戻りたいと思っていましたが、上皇はそのまま2泊なさって、あちこちを細々とご覧になられました。これは、以前から清盛が、「是非に」と申し上げなさっていたことで、上皇も、「清盛がそれほどに気に入っている場所というのはどういうものか」と、ご興味を持たれていたのでした。上皇はその時にはまだ気づいていませんでしたが、実は、清盛はその心の中に壮大な計画をお秘めになっていたのでした。


 8日になって、ようやく京にお帰りになられました。帰りには法皇のいらっしゃる鳥羽邸にはお立ち寄りにならず、そのままお帰りになられました。


 同じころ、法皇の第3皇子に今年で30歳になられる以仁王もちひとおうという方がいらっしゃいました。上皇の異母兄でいらっしゃいましたが、今や安徳天皇がご即位なされ、以仁王が皇位におつきになる可能性はほぼなくなり、政治には関与なされず、専ら歌を詠み、音楽を奏でてして日を暮らしていらっしゃいました。天皇に即位するためには、王から親王に出世しなければなりませんが、以仁王は未だ王のままでいらっしゃいました。今や、誰もその存在を思い出し申し上げることもなくなってしまった王が、これから始まる激動の引き金を引く事件の中心になるとは、誰も想像すらしていませんでした。


 源頼政が、延暦寺が加賀守師高の解任を求めて強訴を行ったときに内裏の北を守ったことは、先に述べました。保元の乱、平治の乱で清盛と歩調を合わせ、源氏が失脚した後も政界にとどまり、源氏の長老として清盛からの信頼も厚い方でした。長らく正四位しょうしいでしたが、70歳を越えて、源氏一門の名誉のため、公卿の位である従三位への出世を強く望むようになりました。そこで、


 のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな


と歌を詠んで、三位への出世を訴えたところ、1178年に、清盛の推薦でようやく従三位になることができました。これは、世間では破格の出世と評判になりましたが、頼政の長年の忠誠に清盛が報われたのでした。


 そのように平家に忠誠を尽くしていた頼政が、何を思ったのか、高倉上皇が厳島神社にお詣りなさっている隙に、人目を偲んで以仁王の下に参上し、「あなたは天照大神の正統なご子孫でいらっしゃり、天皇にご即位なさってもおかしくないのに、このような境遇にお留まりになっていることについて、悔しいとはお思いになりませんか? 世の様子を窺うに、表向きは皆、平家に従っていますが、内心では平家を嫌わないものなど誰もいません。ご謀反をおこされて、平家を滅ぼし、法皇をお助け申し上げなさって、あなたが天皇にご即位なされれば、これは最大の親孝行と言えるのではないでしょうか。もしご決断なさって、令旨りょうじを下されば、すぐに全国に潜んでいる源氏一門が駆けつけて加勢申し上げるでしょう。その時には、私ももう年ではございますが、力の限りお助け申し上げます」と言いました。


 このことを聞いて、以仁王はどうしたものかとお考えになり、すぐにはお返事をなさりませんでしたが、その後、占い師に運勢を見てもらったところ、「天皇にご即位なさる相がございます。まだ諦めるときではございません」という結果が出たのをご覧になって、「これは間違いない。天照大神のお告げだ」とお思いになって、自ら最勝親王さいしょうしんのうと名乗られ、全国の源氏の末裔に対して、「平家を滅ぼし、法皇をお救い申し上げ、自身が天皇に即位することをお助けせよ」ということを記した令旨をお下しになりました。4月28日のことでした。令旨は、源行家みなもとのゆきいえが預かって、散在する源氏一門の有力者に伝えるために、東国に向かいました。


 法皇は、いつ遠国へ流されてしまうのかとご心配なさりながら、日々を送られていましたが、5月12日の昼頃、鳥羽邸中をイタチが走りまわって大騒ぎになりました。何かの前触れではないかとお思いになった法皇は、陰陽頭の安倍泰親の下へ、警備の目を潜って密かに使いをお送りになって、占いをさせました。その結果は、「これから3日のうちの吉事、ならびに凶事」とありました。法皇は、「吉事は結構だが、この上さらにどんな凶事が起こるというのか」とご心配なされました。


 するとその翌日、日頃、宗盛が一所懸命に清盛にお願いし申し上げなさっていた甲斐があって、ようやく清盛が法皇を郊外の鳥羽邸から市内へとお移し申し上げました。依然として高倉上皇が実権をお持ちになられましたが、法皇の幽閉は解かれることになりました。これが「3日のうちの吉事」でした。


 15日に、突如、清盛が兵庫の福原から上京していらっしゃいました。相当お怒りのご様子で、「いちいち議論している暇などない。すぐに以仁王を取り押さえて、高知の土佐国とさのくにに流してしまえ」と大声で指示なさいました。以仁王が源氏一門に蜂起を促された令旨の存在が、清盛に伝わったのでした。これが「3日のうちの凶事」でした。


 即座に宮中から王の下に役人が派遣されました。その中には、王に謀反をおすすめ申し上げた源頼政の次男も含まれていました。まだ、頼政の謀反は清盛には伝わっていなかったのです。

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