第4章:重盛と宗盛
清盛には息子が何人かいらっしゃいますが、公卿となられた方を年長から挙げると、重盛、宗盛、知盛、重衡がいらっしゃいます。特に、重盛と宗盛は、清盛とともに平家一門を率いた方で、成親の謀反の遠因にもなった1177年の叙任で左右大将になられたことは、すでに述べました。
重盛と宗盛は、兄弟ではありますが、いろいろな面で違っていらっしゃいます。生年は重盛が1138年で宗盛が1147年、その差9歳です。1156年の保元の乱の時には、重盛19歳ですでに清盛を助けて戦功を立てていらっしゃいましたが、宗盛はまだ10歳でいらっしゃいました。しかし、その翌年に宗盛は従五位下に叙されました。重盛の叙爵が14歳であったことと比べて早い叙爵で、以降宗盛の出世の速度は重盛よりも速く、1177年に至って兄弟が左右大将に並ぶに至っています。
この出世の差は、お二人の生母の違いが影響していました。宗盛の母の平時子は、貴族の家系の出身であり、後白河法皇の側室であり高倉天皇の母である滋子とは姉妹で、さらに、天皇の妻の徳子の母でもいらっしゃいます。それに対して重盛の母はそのような特別な身分の出身ではありませんでした。そのため、宗盛は生まれた時から血縁を拠り所にさまざまな貴族社会のバックアップが得られたのに対し、重盛はそのような関係を一から築いていく必要がありました。重盛一門と藤原成親一門との婚姻関係はそのような背景から進められたもので、重盛は成親を通して後白河法皇のバックアップを得て、貴族社会での地盤を築かれました。しかし、それは、清盛と法皇の対立や成親の失策が重盛の立場を不安定にすることを意味していて、それが重盛の慎重な性格を形作る一因となりました。
重盛は、正しい人でいらっしゃいました。野心的な後白河法皇と父清盛の間をとりもち、有力なバックアップを持たずに平家の棟梁をお務めにならなければならなかった重盛は、誰から見ても立派で正しい言動を続けることが生きる道でありました。それに対し、宗盛は、優しい人でいらっしゃいました。血筋のよい宗盛は正しくある必要がない代わりに、生まれ持っての優しい気質をお持ちになり、人の情に敏感な方でした。ただ、戦場で名を上げるのには不向きな性格で、また生き馬の目を抜く政治の世界を渡っていくには迫力が不足していらっしゃいました。
成親の失脚ののちも、重盛は平家の棟梁でいらっしゃいましたが、政界での足がかりであった成親の大失態のため、政治的な権力は衰えてしまい、また成親の殺害を止められなかったことで、ご本人の政治に対する気力も失われてしまいました。そのようなこともあり、成親の失脚の後に、左大臣をお辞めになっていらっしゃいます。内大臣もお辞めになりたいとの希望でしたが、法皇と清盛から慰留されてそれは思いとどまられました。重盛の左大将辞任に合わせて、その穴埋めとして、宗盛が中納言から大納言に出世なさいましたが、平家内の重盛と宗盛の力関係は、より宗盛側に傾くことになりました。
宗盛には、妻清子との間に長男の清宗がいらっしゃいましたが、1178年、成親の失脚の翌年には、次男がお生まれになりました。ところが、清子は出産は無事であったものの、その後の容態が悪く、床に伏されてしまいました。「私が死んだ後も、この子のことをよろしくお願いします。乳母の手に預けてしまわないで、私の形見だと思ってそばに置いてお育てください。」と遺言を残してとうとう亡くなられてしまいました。宗盛は、清子の死を悲しんで、遺言に従って次男を手元で育てることにし、将来清宗が総大将になるときには次男は副将に、との願いから、幼名を「副将」と名づけて可愛がられました。
その後、宗盛は右大将も大納言も辞任なされました。清子の死を嘆き悲しむあまりに、気持ちが沈んで政務に集中できなくなってしまわれたためでした。また、重盛の左大臣辞任のあと、平家の代表としての責任が重くなり、重盛の代わりに法皇と清盛の間を取り持つ役割を期待されるようになったものの、重盛のように上手く立ち回れず苦しい状況が続いたことも、影の辞任の原因でした。
そんな折、高倉天皇の妻で清盛の娘の徳子のご体調が優れないということで、床に伏されるようになられました。宮中も平家も大変ご心配申し上げて、全国の寺で読経を行い、全国の神社で祈祷を行いました。医者は薬を尽くし、陰陽師は術を極めました。しかし、ご体調は一向によくなりません。
広島の安芸国に厳島神社という神社があります。清盛が深く信仰申し上げなさって、出家後に大規模な修造をなさいました。徳子が高倉天皇に入内なさってのちは、何度も参詣して、皇子の誕生をお祈り申し上げていました。しかし、皇子どころか姫も誕生することなく、6年以上の歳月が過ぎてしまいました。そこへ今回のご病気でしたので、清盛の心中はどれほどでいらっしゃったでしょうか。
しばらくして、徳子のご不調は実は悪阻であったことがわかりました。待ちに待ったご懐妊に、宮中も平家も沸き立ちました。もし皇子であったなら平家の繁栄は間違いなく、人々は、「平家は運も味方につけている。きっと皇子に違いない」と噂をしました。清盛は、読経、祈祷、陰陽術、大法、秘法、ありとあらゆる手段を用いて、皇子の誕生を祈願しました。生霊、死霊が、平家への積年の恨みを徳子と皇子に向けることを恐れて、保元の乱、平治の乱の朝敵の恩赦を行い、処刑された人々を丁寧に埋葬しなおしました。
清盛の弟の教盛は、娘が成親の長男の成経の妻でしたが、先の謀反で成経が流罪になってから娘が悲しむ様子を見て心を痛めていました。そこで、この機会に成経の恩赦を重盛にお願いしました。このような頼みごとをする時は、やはり重盛が一番頼りになるからです。重盛は清盛のもとに向かわれて、「保元の乱、平治の乱の朝敵だけでなく、成親殿もまた徳子を苦しめていると聞いています。成親殿の長男の成経殿がまだ流罪先で生きながらえていますが、彼を召し返してはどうでしょう。成親殿は生前、成経殿のことを気にかけていたと聞いていますので、彼の恩赦は成親殿のお心を和らげるのではないでしょうか」とおっしゃったところ、清盛はいつになく穏やかで、「それは尤もだ。すぐにそうしよう」とおっしゃいました。
さて、1178年の11月に、とうとう徳子が産気づかれたとのことで、京中が騒がしくなりました。ご産所は六波羅の池邸となりました。池邸は、清盛の義母の池禅尼とその子の頼盛が住まれる邸宅でした。法皇にとっても皇子は孫でいらっしゃったため、急いで池邸までいらっしゃいました。法皇と清盛という2人の有力者の孫のご誕生ということで、関白を始め、太政大臣、公卿、殿上人、その他何かしがの官位についている人という人は皆、大急ぎで六波羅へと集まってきました。神社仏閣に使者を立てられ、伊勢神宮以下二十数ヶ所で祈祷を行い、東大寺、興福寺以下十六ヶ所で読経を行いました。
重盛は、例によって慌てることのない方でしたので、それから随分してから、長男の維盛を始めとした息子たちをお連れになって、色とりどりの着物を40着と銀の剣を7振に馬を12頭を引いていらっしゃいました。これは、昔、藤原道長が娘の出産の時に行なった例にならって、縁起を担がれたとのことでした。
そのように皆急いで集まって、神社仏閣で霊験あらたかな読経、祈祷を散々に行ったにもかかわらず、いつまで経ってもお生まれになりません。清盛と母の時子はすっかり心配なさって、「なぜ生まれないんだ、どうなっているんだ」と繰り返されるばかりでした。いろいろな修験者がさまざまな祈祷を提案し申し上げましたが、「なんでもいいからやってくれ」とばかりお答えになっていらっしゃいました。
その様子を見て法皇は、産所の近くにお座りになられて、千手経を一際よく通る声でお読みになられた所、周囲の空気が一変して、依代として修験者が連れてきた子供が、さっきまで踊り狂っていたのに突然静かになりました。法皇は、「どのような物怪であろうとも、この老法師がここにいる以上、絶対に近づくことなどできないぞ。特に、今ここにいる怨霊は皆、私が一人前に育てたものばかりではないか。恩に報いる理由はあっても、仇をなすいわれはないはずだ。速やかに退散しなさい」とおっしゃって、大悲呪をお唱えになられると、すぐさまご出産なさいました。皇子でした。
徳子の弟の重衡が産所からお出でになって、「安産でございました。皇子誕生でございます」とおっしゃると、法皇を初めとして並び居る人々が一斉にわっとお喜びになりました。その声は門の外まで響いてしばらく止みませんでした。これで、京中の人が皇子がご誕生なさったことを知りました。清盛は、嬉しさのあまりに、言葉も出ず、ただ声を上げてお泣きになりました。重盛は、皇子の側にお座りになり、金貨99枚を白い絹袋に入れて枕元に置き、「天を父とし、地を母としてお育ちください。お命には東方朔の寿命を持ち、お心には天照大神がお入りになられますよう」とおっしゃって、桑の弓、蓬の矢で天地四方を射させなさいました。
宗盛は、先だっての妻の死のために喪に服していらっしゃったため、お出でになりませんでした。兄弟揃ってお祝いなさることになれば、さらにめでたかったろうと思うと残念でした。乳母には、もともと宗盛の妻の清子がなられる予定でしたが、お亡くなりになったため、徳子の伯父であり、高倉天皇の伯父でもある平時忠の妻が代わりになりました。
このようにめでたいことがあったにもかかわらず、重盛の心は晴れませんでした。なぜ晴れないのか、誰にもその本当の理由はわかりませんでした。ある人は、平家一門の中での重盛の立場が原因だと言いました。清盛の息子の重盛、宗盛、知盛、重衡と、娘の徳子、盛子のうち、重盛以外はすべて清盛の妻の時子の子供でした。重盛にも基盛という同母弟がいたのですが、すでに早世していて、重盛の立場は平家一門の中では浮いていたのです。一門の人々が繁栄に酔いしれる中、一人平家の行く末を案じていたのは、そのようなことがあったのかもしれません。
翌年の春のこと、重盛が夢の中で、長い長い浜辺の道をお歩きになっていると、道のわきに大きな鳥居があって、人が集まっていました。「ここは何の鳥居ですか」とおたずねになると、「春日大明神の鳥居でございます」と答えが返ってきました。春日大明神とは藤原氏の氏神でいらっしゃいます。その鳥居の前で法師の首が高々と掲げられていました。「あれは誰の首ですか」とまたおたずねになると、「あれは平家の清盛殿でございます。悪行が度を越されたので、大明神がお取りになったのです」と答えが返ってきました。それを聞いて、はっと目が覚め、平家の運命が尽きようとしていることを思って、お泣きになりました。
翌日、重盛は、出仕しようとしている長男の維盛をお呼びになって、「親の立場でこのようなことを言うのはばかばかしいことではありますが、あなたはなかなか見所があります。しかし、平家の行く末のことを考えると心配に思います」とおっしゃって、人に酒を用意させました。「あなたにまず飲んでいただきたいところですが、親より先には飲みたくないでしょうから私から飲みましょう」といって、3杯お飲みになって、維盛にも3杯お勧めになりました。維盛は、酒を飲みながら、いつになく改まった重盛の様子に、一体何が起きるのだろうと考えていました。
「引き出物を」とおっしゃって、重盛は錦の袋に入れた太刀を持ってこさせ、維盛にお渡しになりました。それを見て、きっと家宝の小烏という太刀に違いないと喜んで、袋を開けてみたところ、そうではなくて無文という太刀でした。大臣の葬儀の時に使う太刀でしたので、びっくりして重盛の顔を見たところ、重盛は涙をお流しになっていて、「この太刀は大臣の葬儀の時に使う無文という太刀です。お祖父様に万一のことがあったときに、これを持ってお供をしようと考えて用意していたのですが、どうやら私のほうが先になりそうですので、あなたに上げましょう」とおっしゃいました。
しばらくして、重盛は熊野権現に参詣なさって、一心にお祈り申し上げなさいました。「父清盛のこれまでの振る舞いを見るに、道理に叶わないことをして、なにかにつけて天皇、法皇をお悩ませ申し上げています。私は長男として何度も諌めてまいりましたが、父はそれを気に止めることはありません。このようなことでは、これから一門の衰退を見ることになるのではないかと不安です。儚い栄華なら、いっそ出家して、来世に菩提を求めるべきなのかもしれませんが、未だに決心がつきかねています。もし、子孫代々繁栄が続くのであれば、どうか父清盛の悪心を和らげて世の平和をお守りください。一代限りの栄華であれば、私の寿命を縮めて来世の苦輪からお救い下さい。」
その帰り、和歌山の岩田川を渡るとき、水に濡れた衣に、重ね着の衣の色が透けて、薄墨色の喪服のように見えたのを見て、重盛は「私の願いは叶ったようだ」とお喜びになって、その場で熊野権現にお礼の使者を立てられました。その後、京に戻って数日で病に倒れられました。重盛の意向で、治療も祈祷も行わず、1179年の8月1日にお亡くなりになりました。享年、43歳。世間では働き盛りという歳のことで、人柄もよく武勇にも優れ、また清盛をなだめられる稀有な人材でもありましたので、世間の人から惜しまれることこの上ありませんでした。
清盛は兵庫の福原の別荘にいらっしゃいましたが、重盛が治療も祈祷も受け付けないとお聞きになって、本当にお亡くなりになるのだと覚られて、泣く泣く、急いで京に上られました。人の親が子を思う気持ちは言葉に尽くせるものではないですが、子に先立たれるほど悲しいことはありません。ましてやこの方は、平家の棟梁であって、世間の人望も厚い人でしたので、その悲しみは比べるものもありません。清盛だけでなく、一門の人々、皆涙に咽ばないものはありませんでした。ただし、宗盛の側近の一部だけは、「次は当主様が世を治める番だ」と喜ぶものもいたようです。
良くないことは重なるもので、時を同じくして、重盛の異母妹の盛子もお亡くなりになりました。盛子は9歳の時に、藤原摂家の生まれで氏長者で関白の藤原基実に嫁いだということはすでに述べましたが、その後数年で基実はお亡くなりになっていました。盛子は、基実の子で、盛子の養子である基通の後見人として、藤原摂家の持つ膨大な領地を相続なさっていて、間接的に平家がそれを支配していました。盛子がお亡くなりになったことは、この間接的な支配が崩れるということで、平家にとってただ悲しい以上の重要な意味を持っていました。