第2章:成親の野心
ご即位の3年後の1171年の正月に、高倉天皇が11歳でご元服なさいました。ご元服のお姿は、たいそう可愛らしいものでした。元服とは、ものの分別のつく歳になって一人前の大人として仕事ができるようになったことを示す儀式で、成人の証として冠や烏帽子をつけます。元服前の天皇には摂政が代理で政務を行いますが、元服後は天皇が関白の補佐を受けながら政務を行うようになります。また、元服をすると結婚をすることができるようになります。
後白河法皇と清盛は、互いに協力することが世の安定のためによいことだとお考えになり、清盛の娘の徳子を後白河法皇の養女として、高倉天皇とご結婚させ申し上げることになさいました。徳子に皇子がお生まれになったら、法皇も清盛も後見として影響力を行使する立場に立たれることを期待されてのことでした。法皇の養女だと兄妹での結婚になるということで反対があったものの、同年の12月に入内なさって、翌年に中宮になられました。中宮とは、天皇の妻のことですが、常に最高で1人しかいない特別な方であるので、特別な名前でお呼びすることになっています。
さて、法皇の側近に、大納言の藤原成親という方がいらっしゃいました。もともとは藤原家の傍流でしたが、父家成が鳥羽上皇の第一の側近であったことで、目覚しい繁栄をしている家系でいらっしゃいました。家成が清盛と親交が深かった関係から、成親の妹は清盛の長男の重盛の妻であり、重盛の長男である維盛の妻は成親の娘でした。また、成親の長男の成経の妻は、清盛の弟の教盛の娘でした。
成親が平家とこのように複雑な姻戚関係を結んでいるのは、もともと清盛の策略でした。平家は朝家の血を引く家系でしたが、貴族の家格としては、朝家の血を引いている家系よりも藤原氏の方が格上と考えられていました。そこで親交の深かった藤原成親一門との平家一門との婚姻を進めることで、成親は平家の経済力と軍事力を背景にして政界での発言力を高め、平家は家格を高めることで高い官位に付くことができるようになりました。
ところが、成親が平治の乱で後白河上皇派の一人として信西殺害に加担なさって、敗北なさったために、罰をお受けになることになりました。他の首謀者は皆処刑や流罪など重い罰をお受けになったのですが、成親は重盛の義兄であったため、重盛の計らいで軽い罰にとどまり、数年で復帰なさいました。
その後に清盛が娘の盛子を、藤原基実の妻として嫁がせなさいました。基実は、藤原氏の中でも最も家格の高い摂家の生まれで、氏長者であり二条天皇の関白でありました。この結婚によって、成親よりも家格の高い藤原摂家との間に姻戚関係ができたため、清盛にとって成親との姻戚関係の重要性は低下していしまい、平家と成親の関係にも微妙な影を落とすようになりました。しかし、平家が繁栄する傍ら、成親も後白河法皇の第一の側近として目覚しい繁栄を遂げていたため、表立って事が起きることはありませんでした。
高倉天皇の御元服の5年後の1176年に、当時の内大臣の左大将であった藤原師長が太政大臣に出世なさるとのことで左大将を辞するという話が上がったとき、何人かの公卿の方が左大将の後任になることをお望みになりました。大納言藤原実定や中納言藤原兼雅などが名乗りをお挙げになりましたが、成親もまた切に願われました。
左大将とは武官の最高位で、右大将と共に近衛府を統括する官です。公卿の官は、上から太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議の順ですが、この内で内大臣と大納言の間くらいに相当すると考えられていて、公卿が兼帯を切望する官職でした。
成親は、左大将への就任を願って、さまざまな祈りを捧げなさいました。まず、石清水八幡宮に100人の僧を集めて大般若経600巻を省略せずに7日間読ませなさいました。すると、山鳩が3羽飛んできて、境内で互いに喰い合って死んでしまいました。「鳩は八幡大菩薩の第一のお使いなので、八幡宮でこのようなことがあるのはおかしい」ということで宮中に報告したところ、「乱が起きる前触れである」との占いが出ました。
しかし、成親は全く臆することなく、今度は上賀茂神社に7晩続けてお詣りになりました。7日目の夜にお詣りから帰ってお休みになっていると、夢のなかで
さくら花かもの河風うらむなよ散るをばえこそとどめざりけれ
と、上賀茂神社の中から声がしました。賀茂明神が、成親の願いが叶えられないことを夢を通してお知らせになったのです。
それでも諦めずに、今度は上賀茂神社に修験者を連れてきて、100日間の祈祷を行わせなさいました。それが、賀茂明神の怒りに触れて、雷神の力を以て境内の杉の木に雷を落とされたので、あわや神社が焼け落ちてしまいそうになりました。宮中の命令でその修験者は実力で京から追い出されてしまいました。
ところが、成親がどれだけ願われたとしても、この時の任官の決定は、天皇でも法皇でも関白ですら意のままにすることはできず、清盛の意向で実質的に決まってしまいました。そのため、実定も兼雅も成親も左大将になることはできず、明けて1177年の正月、清盛の長男の重盛が内大臣の左大将に、次男の宗盛が中納言の右大将になられました。重盛は39歳、宗盛は30歳の時のことでした。兄弟で左右大将を占められるのは、過去には4度しか例がなく、藤原氏以外では初めてのことでした。
この結果をお聞きになって恨みに思われた成親は、「他の人はともかく、平家の次男の若造に右大将を取られたのは許せない。やりたい放題やりすぎだ。なんとしても平家を滅ぼして、大将になってやる」などと、恐ろしいことをおっしゃいました。そもそも父の家成ですら中納言までしかなれなかったのに、すでに大納言にまでなられて、何の不足があるのでしょう。その野心の強さが、平治の乱に加担した原因でもあり、これから起きる事件の引き金にもなるのです。
東山の麓、鹿ヶ谷という所は、如意ヶ岳を越えて三井寺に続くところで、絶好の要害の地です。そこに、俊寛僧都の山荘がありました。そこに、成親を始めとする人々が集まって、平家を滅ぼす算段を繰り返し議論していました。集まっている人々は後白河法皇の側近が多く含まれていましたが、成親、俊寛の他、西光法師や源行綱などがいました。この議論は、成親が左大将になれなかった1177年の正月よりも前から行われていて、「平家を滅ぼす」という発言は、実は、この陰謀を受けてのものだったのです。
ある時、法皇が、会合にお忍びでご参加になられました。法皇はこの陰謀を始めからご存知で、密かに平家の転覆を画策していらっしゃったのです。会合の議論が終わった後は、酒宴で結束を深めるのが常でしたが、法皇もご参加なさいました。その中で、成親がうっかり酒の入った瓶子をひっくり返してしまわれたので、法皇が驚いて声をお上げになられたところ、成親が平然とした様子で、「平氏が倒れてしまったようですな」とおっしゃったのが、笑壷に入られたようで大笑いをなさいました。俊寛僧都が、「それでは、倒れたそれをどうしようか」と言うと、今度は西光法師が、「首を取ってしまわないといけませんね」と言って、瓶子の首を持って片付けてしまいました。
成親は、法皇第一の側近として、この陰謀の中心でいらっしゃいましたが、貴族でしたので合戦となると心もとなさがありました。そこで、源氏の出身の武家である行綱に、合戦での活躍を期待をしていらっしゃいました。ある時、行綱を呼んで、「その時が来たら、あなたに大将をお願いしたいと思っています。事が上手く進めば、報酬は望むままにいたしましょう。まずは、弓袋に使ってください」と言って、高価な白布を50反お送りになりました。1反あれば着物が一人分作れるので、50反はかなりの量でした。
さて、陰謀の首謀者の一人である西光法師の子に、師高というものがいました。石川の加賀国を治める加賀守であったのですが、目代を立てて現地の統治を任せていました。ところが1176年に、その目代が、北陸地方で広く信仰を集める白山の末寺とトラブルになり、武力攻撃して寺を焼き払うという事件が起こりました。白山の高僧たちはこのことに怒って、僧を率いて目代の屋敷に押し寄せました。すでに日が暮れていたので、そのまま夜を明かして、明けてから屋敷に入ってみると、目代は夜のうちに京に逃げてしまって、すでにもぬけのからでした。
であれば、白山の本寺である延暦寺に訴えようということになって、白山中宮の神輿を振り上げ申し上げて比叡山に向かいました。ひと月ほどで比叡山の麓の東坂本まで着いた時、8月半ばにもかかわらず、北のほうから雷鳴と共に雪雲が現れ、比叡山も京もすべて雪で真っ白になってしまいました。白山中宮の神様が比叡山の神様に挨拶をなさったようです。神輿は、山の麓にある日吉山王七社のうち、客人宮に安置申し上げました。この客人宮の神様と白山中宮の神様は父子だったためです。
延暦寺はこの訴えを受け入れ、加賀守の師高を流罪にすることを、宮中に進言申し上げましたが、すぐに返事は返ってきませんでした。そこで、何度もご進言を繰り返し申し上げましたが、やはり返事は返ってきませんでした。師高の父の西光法師が後白河法皇の側近であることもありますが、延暦寺の力が強くなってきて政治に対して介入することが多くなってきたことを、法皇が嫌われていることも大きな理由で、延暦寺の要求は頑として拒否なさるとお決めになられているようでした。
年が明けても状況が進展しないことにしびれを切らした延暦寺は、1177年4月、強硬手段に訴えることにしました。山王七社のうち十禅寺、客人、八王子の三社の神輿を飾り付け、陣頭に振り上げ申し上げて、大挙して天皇の邸宅である内裏に向かいました。そのまま内裏に乱入されて騒ぎを起こされるわけには行かないので、武士達に内裏の警護の指令が出されました。それを受けて、平重盛、平宗盛と、源頼政が、手勢を率いて、それぞれ東、西南、北をお守りになりました。
頼政は、平治の乱の後、わずかに京に残った源氏の中の最長老で、細々と源氏の名跡を守っていました。しかし、平家と比べると、頼政の勢力は見る影もないほど弱小であったため、重盛、宗盛の守る東、西南に比べて、頼政の守る北は手薄でした。そこで、延暦寺の僧たちは、最初にそこから入ろうとしました。多勢に無勢なのでそのまま押し切られるかと思われたのですが、僧たちが近づくと、突然頼政と配下の兵たちが甲を脱いで神輿を拝みました。
「今度の延暦寺のご進言は全く道理にかなっていて、お返事が遅れているのは理解に苦しみます。それを考えるに、ここで、神輿をお通しするのは当然のことでございます。しかし、この門の守りは手薄ですので、のちのち延暦寺の僧は弱みにつけこんだ卑怯者だという噂が立つかもしれません。また、私事ではございますが、ここをお通しすると宣旨に背くことになり、通らせまいとすると日頃拝み申し上げている薬師如来様に背くことになり、いずれにしても私は武士を続けることはできなくなります。そこで、東は重盛殿が大勢で守られていますので、そちらからお入りになってはどうでしょう。」
延暦寺の僧はしばらく議論していましたが、老僧の一人が、「全くその通りだ。神輿を立てて参上しているのだから、大勢の中を堂々と通ってこそ、のちのちに評価をされるというものだ。しかも、この頼政殿は武芸だけでなく歌道にも造詣が深く、風雅を解する人だ。そのような人に恥を欠かせるなんて人のやるべきことではない。東の方から入ることにしよう」と言ったことで、議論がまとまりました。
そこで、東に回って神輿を担ぎ入れ申し上げようとしたところ、そこを守っていた重盛配下の武士達が一斉に弓矢を打ちかけました。僧たちは多く射殺され、傷を追いました。神輿にも数多く矢が刺さり申し上げました。叫び声が充満し、僧たちは神輿をその場に置いたまま、延暦寺に逃げ帰っていきました。
僧は防いだものの、内裏の目の前に神輿を残されてしまったは失敗でした。何しろ神輿には神様がお乗りになっているので、いい加減な扱いをするとお怒りになって大変な災厄をもたらしかねません。その上、今回は矢を数多く射立て申し上げてしまっています。急いで公卿がお集まりになって、今後の方針を議論なさいました。神輿については、ひとまず祇園社にお入れ申し上げて、神官に矢を抜かせることになりました。
そののちも、延暦寺の僧が再び押し寄せてくるという噂が流れたり、逆に僧たちが延暦寺をすべて焼き払って鎮護国家の祈りを停止してしまうという噂がたったりして、一刻も早く神と僧の怒りを鎮めなければならないということになりました。なんといっても、朝家はすでに神輿に矢を射立てて申し上げてしまっており、何らかの災厄は不可避になっていたので、これ以上の失態は許される状況ではありませんでした。
清盛の義兄の平時忠が、延暦寺の僧の説得に当たられることになりました。延暦寺に時忠が到着なさるやいなや、説得なさる間もなくいきり立った僧たちに取り囲まれてしまいました。僧たちは、時忠を身ぐるみ剥がして琵琶湖に沈めてしまおうというようなことを大声で議論していました。今にも危害が及びそうなところで、時忠は懐から硯と紙をとり出されて、一筆書いて僧たちにお渡しになりました。
中には、「仏徒が乱暴を行うのは悪魔の仕業。賢帝が制止を加えるのは如来の加護。」とだけ書かれていました。これを見て僧たちは、尤もなことだと言ってその場の騒ぎは収まりました。紙一枚でいきり立つ延暦寺の僧を鎮め、事態を解決した時忠は大変ご立派であったと、人々はお褒めしました。延暦寺の僧についても、「いつもうるさいだけかと思っていたら、一応道理もわかるらしい」と噂になりました。
説得の結果、加賀守の師高は流罪になり、また神輿に矢を射立ててしまった重盛の部下の侍達は牢屋に入れられました。これで神の怒りが収まることを期待したのですが、1週間ほど経って京に大火事が起こりました。火事は、多くの貴族の邸宅を焼いた上に、内裏まで全焼してしまいました。恐れていた天罰が下ってしまったと、人々は噂しました。内裏が全焼したのは、歴史上これが4回目でしたが、これ以後は内裏は再建されず、代わりに正式な内裏ではない私邸を、里内裏として使う事になりました。