第10章:都落
7月22日の夜中、平家の本拠地である六波羅のあたりが騒がしくなりました。馬に鞍を置いて、物品をあちこちに運び隠していました。夜が明けてからの噂では、夜中に伝令が届いて、「義仲が北国から5万騎余で攻め上り、比叡山の麓の東坂本に満ち満ちています。延暦寺3000人の宗徒も義仲に味方して、今にも京に攻め込もうとしています」という知らせが入ったとのことでした。平家の人々はこの報告に驚いて、あちこちに防衛線を築きました。まず、京と比叡山の間の山科に3000騎余。宇治橋には2000騎余。西国への要衝の淀路には1000騎余を配置しました。
対する源氏は、義仲の軍が数千騎で宇治橋を攻めるという噂もあり、また別の軍で大江山を越えて攻めこむものがいるという噂もあり、大阪の摂津国と河内国からさらに別の源氏の勢力が反乱を起こして、四方八方から雲霞の如く攻め込むという噂もありました。これを聞いた平家の人々は、「こうなってはもうどうしようもない。ばらばらになるよりも一箇所に集まって覚悟を決めよう」と、各地に派遣した防衛軍を再度六波羅に集合させました。
24日の夜更けに、宗盛が、安徳天皇の母の徳子の下を訪ねて、「これまで、世の情勢について、まだ大丈夫だろうと思っていましたが、蓋を開けてみればこのような状況でした。京の中で最期の戦いをしようと人々は申し合わせているようですが、まだ6歳の天皇の目の前で、親類が殺されるようなひどい様子を見せ申し上げるのはかわいそうなので、法皇と天皇をお連れ申し上げて、西国の方へ逃げてはどうかと思った次第です」とご相談なさいました。徳子は、「今となっては、どのようにでも、あなたの計らいにお任せします」と、涙を袂で留めようとしても留め切れないほどの涙と共にお答えになられました。宗盛も、それを聞いて、袖を絞るほどに涙をお流しになりました。
後白河法皇は平家との関係は良好ではなかったので、都落の件は秘密にされていて、直前になって有無を言わさない形でお連れ申し上げる予定でいました。しかし、時の摂政であった藤原基通は、清盛の娘の盛子の養子であり、また清盛の娘の完子を妻に持ち、平家の全面的なバックアップを受けていらっしゃったので、今回の都落の計画も事前に知っていらっしゃいました。ところが、法皇と基通は裏で通じていたため、基通はその夜のうちに法皇に都落のことをお伝え申し上げなさいました。法皇はそれを聞いて、まだ日が上らないうちに、こっそりと行き先を告げずに法住寺邸を抜け出し、京の北の鞍馬にお逃げになられました。
翌日の早朝、宗盛が法住寺邸を訪れた時には、すでに法皇はいらっしゃらないで、お付きの女官たちが皆一様に涙を流していました。宗盛は、法皇がどこに行かれたのかお聞きになりましたが、誰もそのことを知らず、皆心配のあまりに泣いていることがわかったのみでした。その後、都のほうぼうに手を尽くされましたが、誰も法皇の行方を知らず、平家の人々の慌て騒ぎようは、この世の終わりかというほどでした。それもそのはずで、平家が都落するときに、天皇だけをお連れ申し上げて、実権を持つ法皇をお連れ申し上げないとなると、平家は源氏から、天皇を拉致し申し上げた朝敵として糾弾され、法皇により平家討伐の院宣を出されてもおかしくないからです。
しかし、そうは言っても、このまま当てもなく京に留まることはできないので、予定通り、天皇だけでもお連れ申し上げて都落をするより他はないということになり、朝の6時頃に天皇を御輿でお迎えにあがり申し上げました。天皇は今年で6歳、まだ幼くあどけなくいらしゃいましたので、何も疑問をお持ちになることもなく、御輿にお乗りになられました。母の徳子もご同乗なさって、三種の神器である内侍所、神璽、宝剣もお乗せ申し上げました。徳子の伯父の時忠が、「印鑰、時の簡、玄象、鈴鹿などもわすれるな」と、公務に必要なものや宝物などを忘れないよう念を押されましたが、慌てていたために、例えば、日の御座の御剣など、忘れたものも少なくありませんでした。そのまま、時忠は、天皇の御輿をお供申し上げなさいました。
摂政の基通は、法皇に情報を漏らされたことを、まだ平家の人々に気づかれてはいらっしゃいませんでした。天皇のお供をし申し上げなさって、七条大宮までいらっしゃいましたが、小さな子供が牛車の前をふっと横切りました。基通が御覧になると、左の袂に「春の日」と書いてあるのが見えました。これは氏神の春日大明神のお使いだと頼もしくお思いになっていると、その子供が
いかにせん藤のすえ葉のかれゆくをただ春の日にまかせてや見ん
と歌を詠みました。これを聞いて、平家とともに都落をすることに対する春日大明神の警告だとお気づきになって、すぐさま道を飛ぶように引き返し、三井寺の別院であった知足院に立てこもりなさいました。
維盛は、いつかはこのような日が来るのではないかと思っていましたが、いざその日が来ると、やはり悲しい気持ちは抑えられませんでした。維盛の妻は、故藤原成親の娘でした。顔は桃の蕾が露でほころんでいるように麗しく、目元は紅や白粉をつけて色気があり、長い黒髪が柳のように風に揺れる様子は、比べるものもないほどに美しい方でした。間には、10歳になる息子と、8歳になる娘がいました。
「日頃から言っていましたが、私は一人で平家一門とともに、西国に行きます。どこまでも一門と行きたいとは思いますが、どこで敵が待っているかもわかりませんので、生きていられる保証はありません。しかし、例え私が死んだと聞いても、出家して尼になることはしないでください。どんな人でもよいので再婚して、子供たちを育ててください。きっとよい人がいるはずです。」そのように維盛が妻を説得しましたが、何も返事をすることもなく、ただ顔を床に向けて床に臥せっているだけでした。
時間になって、出発しようとすると、妻が袖にすがりつきました。「都には父も母ももういません。あなたに捨てられた後は、誰かと再婚しようなどと思ってもいないのに、どんな人でもいいので再婚してなどとおっしゃるのは、悔しいです。あなたとこのように相思相愛になれたのは、きっと前世からの縁があったのでしょう。でも、誰でもそのような縁があるとは限りません。どこまでもお伴して、同じ野の露と消え、ひとつ海の藻屑となると誓ったのに、あの言葉は嘘だったのですか。いや、私だけのことならば、我慢もしましょう。でも、幼い子供たちを誰に託してどのようにしたらいいのでしょう。あんまりな仕打ちではありませんか。」と、怒ったり、慕ったりして言い寄りました。
維盛はそれを聞いて、「確かに、あなたは13歳、私は15歳の時に結婚して、火の中でも海の底でも一緒に行き、死ぬときは必ず一緒に死のうと言いましたが、このような情け無い状態で都を離れることになってしまって、あなたと子供たちをお連れして、行く宛もない旅で辛い目に合わせ申し上げたくはないのです。それに、今はあなた方をお連れするための準備もできていません。どこかの海辺に落ち着いて、安心できる状況になれば、すぐにでもお迎えいたします」と言って、心を決めて立ち上がりました。
渡り廊下に出て、鎧を着て、馬に乗ろうとしたところで、息子と娘が走りだしてきて、鎧にすがりついて、「一体どこへお出かけになるのですか。私も行きます。私も行かせてください」と泣きながら慕ってきました。一度は思い切った心が再び弱くなって、どうやって声をかけたらいいのかとただただ困惑して、立ち尽くしました。
そこへ維盛の兄弟たちが馬に乗ってやってきて、「もう皆さん遠くまで行ってしまっています。何をしていらっしゃるのですか」と口々に言ったので、維盛は馬に乗って外に出てきましたが、再び家に入って弓の先で簾を上げて、「これをご覧になって下さい。幼い子供たちがあまりに慕ってくるので、なんとか説得しようとしていたため、思いの外に遅れてしまいました」と泣きながら言ったので、兄弟もみな涙を流しました。
平家が都を落ちて行く時には、本拠地の六波羅や西八条邸を始め、平家に関係する家々にみは火をかけて焼き払ってしまいました。あれほどきらびやかで金銀七宝があふれ、人々の往来で賑やかだった家々も、一門の都落と共に灰になって跡形もなくなってしまうのは、世の無常を強く感じさせる出来事でした。
東国で源氏に味方している者たちの親類で、3年前に京の警護のために上京していた者たちがいました。畠山重能、小田山有重、宇都宮朝綱でした。源氏の反乱が起きてから、取り押さえられて閉じ込められていましたが、都落にあたって、処刑するべきかということになりました。その時、知盛が、「御運がお尽きになった以上、このようなものを何百人首を切ったところで、覇権を取り戻すことはできないでしょう。ふるさとにいる妻子や家来たちが嘆き悲しむだけだと思います。もし、思いがけなく運命が開けて都にお戻りになることができたら、ここで助けたことは必ず報われるのではないでしょうか。なんとか彼らを本国に帰すことはできないでしょうか」とおっしゃったところ、宗盛は、「もっともなことだ」と釈放なさいました。
釈放された3人は、頭を地面につけて涙を流して、「この3年間、いつ処刑されてもおかしくないところで命を助けていただいた上は、どこまでもお供して、最後まで見届けたいと思います」と申し上げたところ、宗盛は、「あなたたちの魂は東国にあるのにもかかわらず、抜け殻だけで西国に連れていくことはできません。急いで帰りなさい」とおっしゃったところ、力をおとして涙をこらえて引き下がりました。これらも、源氏が反乱を起こすまで、20年余もの間付き従った主従の間柄でしたので、別れの涙はこらえ切れないものがありました。
頼盛は、一門の人々と同様に、自宅の池邸に火をかけて出発なさいましたが、鳥羽邸の南門のところで、「忘れたことがある」とおっしゃって、平家の赤印を切り捨てて、300騎余を率いて都にお戻りになりました。頼盛が都に留まられることにした理由は、頼盛の母の池禅尼が平治の乱の時に頼朝の命を助けたことで、頼朝が頼盛に対して何度も、「あなたのことは特別に考えております。亡き池禅尼から受けたご恩は忘れられることではありません。八幡大菩薩のご加護もございますでしょう」と書状を送り、平家追討の軍勢に対しても、「決して頼盛殿の侍たちに弓を引いてはならない」と支持していたため、「平家一門の運は既に尽きてしまったので、今は頼朝殿に助けられるのを期待しよう」という考えになられたのでした。
宗盛のもとには、頼盛が裏切って都に戻られたことが伝えられました。中の一人が、「都にお戻りになる頼盛殿に多くの侍が付き従っています。けしからんことです。頼盛殿には憚られますが、他の侍たちには弓の一つでも射かけておくべきではないでしょうか」と申し上げたところ、宗盛は、「長年の恩義を忘れて、一門の行末を見届けようともしないようなものは、既に人の道に背いた者たちなのだから、そこまでのことをするまでのこともない」とおっしゃいました。「維盛たちは」とおっしゃったところ、「未だに誰の姿も見当たりません」と答え申し上げたので、知盛は涙を流して、「都を出て1日も立たないうちに、これほど人の心が変わってしまうとは。なんて悲しいことだ。いずれはそうなるだろうとは思ってはいたものの、つい先日まで、都で一緒に最後の戦いをしようと誓ったばかりではないか」と、宗盛の方を恨めしそうにご覧になりました。
しばらくすると、維盛とその兄弟たちは1000騎余の兵を連れて、淀のあたりで合流しました。宗盛が嬉しそうに到着を出迎えて、「いままでどうしていたのですか」とお聞きになったところ、維盛は、「幼い子供たちがあまりに慕ってくるので、なんとか説得しようとしていたため、遅れてしまいました」とお答えしました。宗盛が、「もっと強気にご子息もお連れなさればよかったのではないですか」とおっしゃったところ、維盛は、「行末がとてもそれほど頼もしく思えませんでしたので」と申し上げ、問われてかえって別れの悲しさを思い出して涙を流しました。
後ろを振り返ると、出発の時に火を放って燃えている家の煙が立ち上るのが見えました。心なしか、空は霞んでいるように思えます。都落の平家はその勢7000騎余。これはここ数年の戦いでかろうじて残った最後の兵力をかき集めたものでした。行末は、雲の彼方に霞んでいて、いつ果てるともわからない旅路に向かう平家の人々は、その心の内を歌に託しました。
はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな
ふるさとをやけ野の原にかえりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく
別の件で出陣していて、ちょうど京に戻ってくる途中の肥後守貞能が、都落の平家と出会いました。貞能は宗盛の前で畏まって、「これは一体どちらへ落ちなさるおつもりですか。西国にお下りになったら、あちこちでうち散らされて、不名誉な評判が立ってしまうのは残念です。京に戻って、最後の戦いをするべきではないですか」と申し上げると、宗盛は、「貞能は知らないのか。もう義仲は比叡山の麓まで来ていて、その勢5万騎余。私だけならともかく、徳子やお母様に辛い目に合わせ申し上げるわけには行かないので、仕方なく、ひとまず都落をすることにしたのだ」とおっしゃいました。それを聞いて貞能は、「では、私は暇を頂いて、京で最後の戦いをしてきます」と申し上げて、自分の配下の500騎余の兵を維盛に預けて、直属の30騎余で京に戻りました。
貞能が戻ってきたとお聞きになって、お隠れになっている頼盛は、裏切り者の自分を討ちに来たとお思いになり、たいそう恐れられてお騒ぎになりましたが、貞能はそのようなつもりはありませんでした。都落の時に焼き払った西八条邸の焼け跡に陣を取って、一晩待ちましたが、平家の人々で加勢しようとするものは一人も顕れませんでした。
さすがに心細く思ったのか、重盛のお墓を掘って、お骨に向かって、「なんと情けないことなんでしょう。一門をご覧になって下さい。生きているものは必ず死に、楽しみは必ず終わって悲しみが訪れると、昔から言いますが、これほどつらいことを目にするとは思いもよりませんでした。重盛殿は、このようなことが起きるとわかっていらっしゃったのですね。私もその時にお供しておけばよかったものを、命の惜しさにこのような目にあってしまいました。死んだ時には、きっとお迎えに来てください」と泣く泣く申し上げて、源氏の馬に踏まれる不名誉を避けるため、骨を高野山に送り、あたりの土を賀茂川に流して、宗盛とは反対の東国の方へと落ち延びて行きました。
福原に着いて、宗盛は、主だった侍たち数百人をお集めになって、おっしゃいました。「積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及んだために、神に見放され、法皇からも見捨てられ、京を離れ、行く宛のない旅をする事になりました。このような状況では、何をお返しすることもできませんが、同じ木の下で雨宿りをするのも、同じ川の水を飲むのも、前世の縁といいます。ましてやあなた方は先祖代々仕えてきた家来です。あるものは血縁があり、あるものは深い恩を受けたものもいます。身を立てたその恩を返すのは、今をおいて他にあるでしょうか。私たちには、天皇が三種の神器を持ってご一緒になられています。天皇をお守りして、どのようなところでも参ろうではありませんか。」
すると、皆、涙を流して、「卑しい鳥や獣でも、恩に報いる心はございます。ましてや、人間として、そのような心がないわけがありません。20年余の間、妻子を育んで、所従を従えてこれたのは、全く平家の恩でないことなどありません。ましてや、武士として二心あるのは恥でございます。日本を出て、雲の果て、海の果てに向かうとしても、最後までお仕えいたします」と、口々に申し上げました。
翌朝、屋敷に火をかけて、皆、舟に乗り、平家は福原を後にしました。
さて、24日夜半に、平家の都落から逃れて法住寺邸を抜けだした法皇は、まず最初に京の北の鞍馬にいらっしゃいましたが、まだ京に近いため不安だということで、そこから険しい山道を抜けて、横川の寂場坊というところに居を定めなさいました。すると、平家を裏切って源氏に寝返った延暦寺から、長年、対立関係にあった法皇に対して、延暦寺で匿い申し上げる用意があるとの連絡が届いたため、法皇は延暦寺に居をお移しになられました。
平家が京を離れたものの、源氏はまだ京に入っていないため、防衛と治安が機能していない京に入るのは危険であると、他の皇族の方々も皆、散り散りにお隠れになられているため、京は主人がいない町になってしまいました。このようなことは、日本の歴史始まって以来のことではないかと、人々は噂をしました。
28日に、義仲の軍勢5万騎余に守られて、法皇は京にお戻りになられました。軍の先陣には、源氏の印である白旗が掲げられていて、ここ20数年見ることのなかった白旗が京に戻ってきたようすを、人々は物珍しいような懐かしいような思いで眺めました。合わせて行家も京に入り、その他義仲と行動を共にする各地の源氏も京に入ったため、京中が源氏でいっぱいになりました。義仲と行家の2人は、検非違使の長から平家追討の指示を受け取りました。また、法皇は平家に対して天皇と神器を京に返却するように院宣を発令なさいました。これにより、平家は正式に賊軍の立場に転落し、代わって源氏が官軍となりました。
天皇が平家に連れ去られなさってしまったため、京に新しい天皇を擁立申し上げる必要があるということになりました。義仲は、以前からかくまっていた以仁王の息子の北陸宮を、皇位継承者として推薦しましたが、法皇はこれを無視しなさいました。以仁王は反逆者であって、すでに皇族ですらありません。その息子を皇位継承者として認めることはありえないというのが、法皇のお考えでした。
代わりに法皇は、平家にお連れ申し上げられた現安徳天皇の父、故高倉上皇の息子をお集めになられました。故高倉上皇は4人の息子がいらっしゃいましたが、長男は安徳天皇で、次男は皇太子にし申し上げるために平家がお連れ申し上げました。京には三男と四男がお残りになっていらっしゃいました。法皇はまず5歳になる三男をお呼びになられました。「こちらへ来なさい」と法皇がお呼びになられたところ、三男は法皇を拝見なさって、大泣きに泣かれました。法皇はそれをご覧になって「もういいから連れていきなさい」と三男を退出させなさいました。
次に4歳になる四男をお呼びになられると、四男は人懐っこく、すぐに法皇の膝の上にお座り申し上げなさいました。「このような老法師にこれほど懐くというのは、本当にこの子こそ私の孫なのだろう。亡き高倉上皇の幼い頃に本当によく似ている」とおっしゃって、四男を次の天皇とし申し上げなさることになさいました。実は、内々に占いを行なった結果も、四男が帝位にお就きになられるべきというものだったのでした。
8月10日には、義仲、行家を始めとした源氏10数人に任官が行われました。義仲は新潟の越後国を賜り、行家は広島の備後国を賜りました。しかし、義仲は越後国が嫌だと言ったので、福井の越前国を代わりに賜り、行家は備後国が嫌だと言ったので、岡山の備前国を代わりに賜りました。また、任官の内容には含まれませんでしたが、義仲は自らのことを朝日将軍と自称しました。
16日には、平家一門160人余が解任されました。同時に殿上人の資格も剥奪されましたが、平時忠は殿上人の資格を剥奪されませんでした。これは、天皇と神器を返し申し上げるよう、時忠に度々使いを送っていたためでした。
17日には、平家一門が福岡の大宰府に着きました。大宰府は、日宋貿易を推進していた平家一門にとって、ゆかりの深いところであり、平家一門の味方もいると思われました。しかし、長年の家来に使いを送っても、すぐに参りますと返事はするものの、一向に集まってくる気配もありません。一門は、菅原道真が祭られている太宰府天満宮にお参りをしました。その時に重衡がお詠みになった歌に、皆涙を流しました。
すみなれしふるき宮この恋しさは神もむかしにおもひしるらん
20日に、故高倉上皇の四男が、後鳥羽天皇としてご即位なさいました。摂政は、安徳天皇の時のまま変わらず、藤原基通がご留任なさいました。平家は、ご即位のことを聞いて、「しまった。三男、四男もお連れ申し上げるべきだった」と後悔なさいましたが、時忠は、「そうしたら、義仲がお連れ申し上げた北陸宮がご即位なさったでしょう」とおっしゃいました。
平家の間では、大宰府のあたりに新しい都を作るべきだという話になりましたが、なかなか良い土地が見つかりませんでした。そこで、福岡の豊前国にあり、平家との縁が深く、九州で大きな力をもつ宇佐八幡宮に参拝することにしました。7日間に渡る参拝の末に、宗盛の夢のなかにお告げがありました。宝殿の扉が自然に開き、神聖で高貴な声で
世のなかのうさには神もなきものをなにをいのるらむ心づくしに
とおっしゃるのをお聞きになって、宗盛は目覚め、不安に思って、
さりともとおもふ心もむしの音のよわりはてぬる秋のくれかな
とつぶやきました。一門は、そのまま大宰府に戻ることになりました。
大分の豊後国に勢力を持つ緒方惟栄という武士がいました。源氏の挙兵に合わせて、九州でも挙兵しましたが、平家の勢力の回復で豊後国に追い返されていましたが、9月になって、京にいる豊後国の領主から、平家を撃つべしとの指示が伝わり、惟栄は再び挙兵の準備を始めました。
これを聞いた平家一門は、大騒ぎになり、惟栄が昔、重盛の家来であり、今でも形式上は維盛の家来であることから、維盛を通じて説得しようとしましたが、惟栄は応じず、「平家には重恩がありますので、甲を脱ぎ、弓を外して参るべきではありますが、法皇から急いで九州から追い出すように言われています。すぐに立ち去っていただきますようお願い申し上げます」と、使者を通じてお伝え申し上げました。
平家が惟栄の伝言を拒否すると、惟栄は3万騎余の軍勢を率いて挙兵しました。慌てて大宰府から逃げる平家は、御輿を用意する時間もなく、天皇こそ簡易な手輿にお乗せ申し上げましたが、それ以外の人々は、天皇の母であっても裾を手繰って裸足で歩いてお逃げになりました。折節、台風が来ていて、大宰府のあたりは豪雨に見舞われ、強風が砂を巻きあげていらっしゃいました。濡れる頬が雨によるものか涙によるものかは、誰にも分かりません。雨の中、険しい山を越え、鶉浜という砂浜にたどり着きなさいました。その頃には雨は止んでいましたが、裸足での慣れない山歩きに、足から血が流れ、砂浜は赤く染まりました。
すると、山鹿秀遠というものが、数千騎で平家の迎えにあがり、山鹿城に立てこもりなさいました。しかし、山鹿城へも敵が攻めてくるという知らせが届き、平家は小舟で海へお逃げになり、福岡の豊前国の柳ヶ浦にお渡りになりました。山口の長門国から源氏が攻めてくるという知らせが入り、また小舟に乗って海に逃れられました。維盛の弟の清経は、先行きに絶望して、月の夜に念仏して、静かに海に沈みました。
長門国は、宗盛の弟の知盛の国でした。長門国の目代が、平家が海に小舟で漂いなさっていることを聞きつけ、舟を用意して、四国へとお送り申し上げました。四国には、田口重能という平家の忠臣がいて、四国の人々を集めて、香川の讃岐国の八島に粗末ながらも内裏をお作り申し上げました。それができあがるまでの間、卑しい民家に天皇をお入れ申し上げることもできないので、舟の上での生活が続きました。
海の上の生活は、波に揺られて全く落ち着きませんでした。その上、遠くの白鷺を見ては、源氏の白旗と驚き、遠くで雁が鳴く声を聞いては、源氏が舟を漕ぐ音かと不安に感じ、一刻も心の休まる隙がありません。お伴する女性たちも、京ではあれほど美しかったのが、血の涙に化粧も崩れ、同じ人とは思われないほどに変わってしまいました。