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第1章:平家の台頭

祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常しょぎょうむじょうの響きあり。娑羅双樹しゃらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前のちりに同じ~


 これまでの長い歴史の間には、さまざまな人が栄華を極め、権力を欲しいままにしてきましたが、どれほど世にときめくとしてもいつか滅びる運命から逃れるものはいませんでした。中でも、平朝臣清盛公たいらのあそんきよもりこうは、最高の官職である太政大臣だいじょうだいじんにまで登りつめなさり、一門の人々も悉く高官になられながら、ついに一門の滅亡を避けられなかったという方でいらっしゃいます。


 平清盛は平家へいけ一門の出身でいらっしゃるのですが、そもそも平家の源流を遡ると、歴代天皇を輩出する朝家ちょうかにつながっています。清盛の出身は、平家の中でも三重の伊勢国いせのくにを本拠地とした伊勢平氏いせへいじと呼ばれる一門で、京都の山城国やましろのくに平安京へいあんきょうを開いた桓武天皇かんむてんのうの子孫でいらっしゃいました。そのひ孫である高望王たかもちおうが、たいらの姓を天皇から頂いて、皇族を離れて臣下に連なったのが、伊勢平氏の初代でいらっしゃいます。


 清盛は、1118年、伊勢国の産品うぶしなに、平家の棟梁であった平忠盛たいらのただもりの長男としてお生まれになりました。当時、天皇の邸宅である内裏だいりに上がることができるのは、身分の高い殿上人てんじょうびとと呼ばれる人のみでしたが、平家一門は、高望王が皇族を離れられて以来、殿上人になれずにいました。しかし、鳥羽上皇の勅願ちょくがんを受けて、忠盛が三十三間の御堂を建て、千一体の仏像を奉納したことで、初めて殿上人に加えられました。


 清盛を中心とする平家は、武家と呼ばれる武勇を以て天皇に仕える氏族の中でも、家柄にも武力にも特に優れた一門でした。その当時、平家と同じくらい有力な武家は、源義朝みなもとのよしともを中心とする源氏一門しかありませんでした。源氏も平家と同様に朝家から臣下に下った一門で、その中でも義朝の出身は、清和せいわ天皇の子孫で、大阪の河内国かわちのくにを本拠地とした河内源氏かわちげんじと呼ばれる一門でした。義朝は、清盛よりも5年後の1123年に、源氏の棟梁であった源為義ためよしの長男として生まれました。


 清盛が38歳になった1155年、天下の実権は鳥羽上皇とばじょうこうが握っていらっしゃいました。当時の天皇は上皇のお気に入りの息子であった近衛天皇このえてんのうでいらっしゃいましたが、17歳の若さでお亡くなりになられました。そこで、やはり上皇のお気に入りであった近衛天皇の甥の守仁もりひと親王を後継ぎにとお考えになられましたが、まだ13歳と若かったことに加え、守仁親王の父であり、近衛天皇の兄の雅仁まさひと親王を越えてご即位なされるのは良くないと、反対の声が上がりました。そこで、当座の中継ぎとして、雅仁親王が後白河ごしらかわ天皇として29歳でご即位なさいました。しかし、その翌年、実権を握っていた鳥羽上皇がお亡くなりになられたことで、事態は急展開を見せることになります。


 鳥羽上皇の長男で、近衛天皇の前の天皇であった崇徳すとく上皇は、鳥羽上皇から疎まれて政権から遠ざけられていましたが、これを機に政治の実権を握ろうと画策なさいました。それに対し、後白河天皇は崇徳上皇に政治の実権を握らせないように断固とした行動をおとりになられました。この対立は、貴族の藤原氏ふじわらしや、武家の平家や源氏なども巻き込んで、京を二分する対立になりました。崇徳上皇側は、藤原氏を束ねる氏長者うじのちょうじゃであり左大臣の藤原頼長ふじわらのよりながや源義朝の父の為義などがご支持申し上げました。後白河天皇側は、鳥羽上皇の側近を中心とした多くの貴族や武家が支持申し上げ、清盛や義朝も味方し申し上げました。両者の緊張は武力衝突という形ですぐに具体化しました。保元ほうげん元年のことでしたので、保元の乱と呼ばれました。


 清盛の異母弟に平頼盛よりもりという方がいらっしゃいました。当時の身分の高い男性は、家門の繁栄のため、妻の他にも側室を持つことが珍しくありませんでしたが、忠盛も側室を持っていてました。清盛は側室の子でしたが、頼盛は妻の池禅尼いけのぜんにの子でした。池禅尼は、貴族社会に広い人脈を持った人で、その人脈を使って忠盛を助けてきた、平家の影の功労者でした。池禅尼は、後白河天皇と対立する崇徳上皇の皇子の乳母であったので、頼盛は上皇を助けて清盛と敵対するべきかどうか迷われました。しかし、池禅尼はいち早く上皇側の敗北を悟って頼盛に清盛に従うよう勧めました。これによって、清盛を棟梁とする伊勢平氏の一門は分裂することなく、一致して後白河天皇を支持することになりました。


 結局、乱は、最大兵力を擁する清盛がご支持申し上げた後白河天皇の圧勝に終わり、崇徳上皇は香川の讃岐さぬきに流罪、頼長は戦死、為義は死刑となりました。また、この乱で、後白河天皇の後見であった乳母の夫の信西しんぜいが、大きな影響力を持つことになりました。


 3年後の1158年には、予定通り、守仁親王が二条にじょう天皇としてご即位なさり、後白河天皇は上皇じょうこうとなられました。さらに、二条天皇は鳥羽上皇の側近の支持を受け、後白河上皇から実権を奪って、自らの権力を固めようとなさいました。しかし、上皇の後見であった信西は、天皇のそのような動きに反発申し上げたため、上皇派と天皇派の間での緊張が急速に高まりました。さらに、信西は後白河上皇の権威を背景に権力を行使していたのですが、上皇そのものは権力の蚊帳の外に置き申し上げようとしました。唯一の側近といえる信西のそのような態度に危機感をお感じになられた上皇は、自らの側近を急いで育成なさるべく、上皇に好意的な貴族や武士を抜擢なさいました。これによって、二条天皇派、信西派、後白河上皇派の三つ巴の状況が出来上がりました。


 清盛は、その3つのグループのどれにも属さず、中立を保っていました。京の最大兵力を持っている清盛を無視することはできなかったため、清盛が味方でないうちは誰も直接的な行動に出ることはありませんでした。ところが、翌年、清盛が和歌山の熊野権現くまのごんげんにお詣りなさるということで、一門を連れて京を離れたことで、軍事的な平衡が崩れて事態が急変しました。後白河上皇派と二条天皇派が、上皇や天皇に無断で手を組んで、上皇派がクーデターを起こして、信西を殺害したのです。その後、上皇派が二条天皇を幽閉申し上げ、政治の実権を握ろうとしました。平治元年へいじがんねんのことでしたので、平治へいじの乱と呼ばれました。


 清盛はクーデターのことを熊野で聞き、京に引き返して乱を起こした上皇派を武力で壊滅させなさいました。上皇派の中心人物のひとりであり、源氏の棟梁であった義朝は、敗走先で殺害されました。唯一残った天皇派は、これを機に後白河上皇への圧力を強め申し上げましたが、翌年、上皇の指示で、清盛によって、信西殺害の共犯を理由に、天皇派の中心人物が逮捕、流罪になり、天皇派、信西派、上皇派の三方がすべて失脚する事態になりました。


 この二つの乱の結果、藤原氏は武力組織と領地の多くを失い、影響力を大きく減らしました。また源氏は棟梁であった為義、義朝の双方が朝敵として処刑・殺害されたことで、京における勢力をほぼ完全に失いました。二条天皇と後白河上皇は、どちらも有力な側近を失われたため、反目し合いながらもどちらも主導権をお取りになれない状況に陥りました。そんな中、唯一分裂を回避し、武力と経済基盤を無傷で温存し、両方の乱で勝者の立場にあった清盛が率いる平家一門が、勢力を急拡大させることになりました。


 清盛は、平治の乱の後に、正三位しょうさんみの位に上がり、1160年には参議さんぎの官に任じられなさいました。参議以上の官には従三位じゅさんみ以上の方しか任じられず、貴族の中でも特に公卿くぎょうとお呼びして特別に扱われました。公卿の地位は従来は藤原氏がほぼ独占していましたが、清盛は武家として初めて公卿の地位に登られることになりました。


 そのまま膠着状態が数年間続きましたが、1165年の春のころから、二条天皇の体調が優れない日々が続くようになりました。そのまま回復することなく、夏ごろには重篤なご容態になられたため、天皇の次男で昨年12月にお生まれになったばかりの方がいらっしゃいましたが、6月25日に慌ただしく立太子りったいしが行われ、その夜に六条天皇にご即位なさいました。その様子を聞いた京の人々は、「生後7ヶ月のご即位は前例もなく、慌ただしいにもほどがある」と噂しました。このように慌ただしく即位が行われたのは、二条天皇がご存命のうちに、後白河上皇の影響下にない天皇を擁立申し上げようと、二条天皇の側近が画策したものと思われます。


 7月27日には、二条上皇がお亡くなりになられました。23歳の若さでのことでした。内裏でお仕え申し上げなさった側近の方々は、みな涙に咽ばれました。


 天皇、上皇の葬儀の時には、墓所の周囲に奈良と京の寺の額を掛けるという習わしがあり、その時に額を掛ける順番は古来より決まりがありました。まず奈良には、聖武しょうむ天皇の勅願により建てられた東大寺とうだいじの額を掛けます。続いて、藤原氏の祖である不比等ふひとの御願により建てられた興福寺こうふくじの額を掛けます。その後、京には、興福寺と並ぶ寺として天台宗てんだいしゅうの開祖の最澄さいちょうが開いた延暦寺えんりゃくじの額を掛け、最期に天武てんむ天皇の勅願により建てられた三井寺みいでらの額を掛けます。


 ところが、何を思ったか、延暦寺の僧が、東大寺の次、興福寺の前に延暦寺の額を掛けてしまいました。これに怒った興福寺の僧がどう抗議をしようかと議論を始めたところ、興福寺の僧の中から僧兵が2人飛び出してきました。僧兵とは寺の防衛の為に武装した僧のことです。その2人が延暦寺の額を切って落とし散々に打ち割って、「うれしや水、なるは滝の水」と流行りの歌を歌いながら戻って行ってしまいました。延暦寺と興福寺はもともと仲が悪かったので、一触即発の事態になるかと思われましたが、意外にもその場ではそれ以上の事態には発展しませんでした。


 その翌日、29日の昼頃、延暦寺の僧が比叡山ひえいざんから大挙して下りてくるという事態が起こりました。誰にもその理由がわかりませんでしたが、僧兵が京の市内に乱入して暴れだしては大変なことになるので、急いで武士達が西山麓の西坂元に向かって説得を試みました。しかし、聞く耳を持たない僧兵たちに、ものともせずに突破されてしまいました。


 「後白河上皇が、延暦寺の僧にご指示なさって、平家一門を追討されようとしている」という噂が、どこともなく立ちました。そこで、警戒のために武士で内裏の四方を固め、また平家一門は本拠地である六波羅ろっぱらに集合しました。後白河上皇は、清盛が武力蜂起しては大変なことになると、急いで六波羅にお向かいになられました。清盛は噂を深刻に捉え、大騒ぎをなさいましたが、長男の重盛は、「そんなことが起きるわけがないでしょう」と平然として、父をなだめておられました。


 ところが、延暦寺の僧は、六波羅には向かわずに、平家とは何の関係もない清水寺きよみずでらに向かって、仏閣僧坊の1つも残らずすべて焼き払ってしまいました。その様子に誰もが唖然としましたが、後から事情を調べると、清水寺は興福寺の末寺であったので、先の葬儀の時の会稽かいけいの恥を雪ぐためだったということでした。葬儀の最中に、興福寺の乱暴に反抗して騒動を起こすことは憚られたため、日を改めたのです。


 翌日、延暦寺の僧が退いた後、後白河上皇も重盛がお供してお帰りになられました。清盛は、まだ警戒して六波羅に残られました。重盛がお戻りになってから、清盛は重盛におっしゃいました。「全く恐ろしいことです。上皇が普段からお考えになっておっしゃられていらっしゃるから、平家追討という噂が立ったのでしょう。重盛も心を許さないよう注意なさって下さい。」重盛は、「そんなことは顔にも言葉にもお見せにならないほうがよいです。人に知られて良いことがおこるとは思えません。そもそも、上皇のお考えに背かず、情を以て事に当たっている限り、神仏のご加護で一門は安泰ではないですか。」とお返事になったので、清盛は、「重盛は恐ろしいほど落ち着いていますね。」とおっしゃいました。


 さて、後白河上皇は妻の他に側室が何人かいらっしゃいましたが、その中でも平滋子たいらのしげこを特別にご寵愛なさって、それ以外の妻や側室にはあまり関心をお持ちではいらっしゃいませんでした。妻になるか側室になるかは、身分の違いが重要であって、愛情の違いではなかったため、そのような逆転がおこったのでした。滋子には憲仁のりひと親王という皇子がいらっしゃいましたが、上皇はその皇子をなんとかして天皇にご即位させなさろうとあれこれと画策なさっていました。


 平滋子は、姓が平であることからもわかるとおり、平氏のご出身でいらっしゃいました。平氏とはいっても、清盛の伊勢平氏とは別で代々貴族の家系でしたが、姉の時子ときこが清盛の妻であることで、清盛一門とのつながりも深いお方でした。清盛は二条天皇がご存命の間は憲仁親王の擁立に積極的ではありませんでしたが、お亡くなりになられたことで態度をお変えになりました。


 翌年の1166年10月8日に、憲仁親王の立太子が行われました。親王は天皇の伯父にあたり、親王6歳、天皇3歳です。長幼の順が逆ですが、珍しいとはいえ過去に例がないわけではありませんでした。さらに、1168年3月20日、六条天皇がわずか5歳の時に、憲仁親王に位をお譲りになられて、親王は高倉たかくら天皇にご即位なさいました。わずか5歳で伯父に譲位をするというのは、さすがに日本はおろか、世界でも例がないだろうと思われるほど珍しいことで、人々は眉をひそめると同時に六条上皇にご同情申し上げました。


 清盛はちょうどこのころ、内大臣から最高官である太政大臣へと出世されましたが、1168年に病にお倒れになりました。高倉天皇のご即位が早まった理由のひとつには、清盛の不在による政情不安を心配した後白河上皇が自身に近い高倉天皇を擁立することで、急いで政治の実権を握ろうとしたことがあったようです。清盛は、1168年2月10日、高倉天皇のご即位の少し前に、51歳にして仏道に入って出家しゅっけされました。入道にゅうどう功徳くどくで病が治ることを期待されてのことで、果たして程なく回復なさいました。その後は、兵庫の福原ふくはらに別荘を立てて、隠居なさいました。


 後白河上皇も、翌年に出家なさいましたが、出家の後も法皇となって高倉天皇の後見として実権を握られました。法皇はこの時、43歳でいらっしゃいました。


 清盛は、後白河法皇を全面的には信頼していらっしゃいませんでした。それには、法皇が天皇にご即位なさったころから権力闘争が激化して、保元の乱、平治の乱が起こったことがありました。その原因のひとつに、もともと今様いまようなどの芸能に傾倒して貴族社会とのつながりの薄かった法皇が、たまたま中継ぎとしてご即位なさったことで権力欲をお持ちになられたことがあるとお考えになったためです。清盛は、たまたまこれまで勝者の側にいたことで太政大臣にまで昇り詰めることができたものの、何かあれば突然権力の座から追い落とされることもありえると、常に警戒なさっていました。


 とはいえ、朝家は天照大神てんしょうだいじんの嫡流のご家系で、また、法皇は現天皇の父でいらっしゃいます。その上、打ち続いた内乱の中を生き残ってきた政治力は無視できないものがあり、清盛は注意深く法皇との距離を見極めていかなければならないとお考えになっていました。1164年には、信心深い法皇の御願によって、法皇の邸宅である法住寺ほうじゅうじの一画に、父忠盛の建てた御堂を参考にして、三十三間堂を造営申し上げなさるなど、良好な関係の維持に努めていらっしゃいました。


 また、在京の貴族や武家の反乱を恐れられた清盛は、元服前の15歳くらいの少年を300人集めて、皆同じ髪型にして赤い服を着させて、京の中を常に見回らせなさいました。彼らは、平家について悪いことをいう人を一人でも聞きつけたら、仲間を集めてその家に乱入し、家財を没収して、その人を捉えて六波羅に連れていきました。そのようなわけで、世の人は何か思うことがあっても、それを口に出すことは決してしないようにしていました。


 平家一門の栄華はとどまるところを知りませんでした。日本秋津島あきつしまは66カ国、平家の管理下の国は、平治の乱以前は5カ国だったのが、最終的には30カ国を越えて、日本の半分は平家の支配下に収まりました。さらに、日宋貿易にっそうぼうえきを積極的に推進して、そこからの利益を独占していました。平家の邸宅は、日本だけでなく世界の財宝が集まり、美しい服を着飾った人で溢れて、咲き乱れる花のようでした。門前には車馬が集まって、常に雑踏を極めていました。世の人は服のデザインにつけても着こなしにつけても、六波羅流といって平家の人々の真似をしました。


 後白河法皇の側室の平滋子の兄の時忠ときただという方がいらっしゃいました。高倉天皇がご即位なさった1168年に、39歳で中納言になられました。高倉天皇のご外戚がいせきであり、清盛の義兄でもいらっしゃるということで、その権勢には目を見張るものがありました。藤原氏の氏長者が天皇を補佐する関白かんぱくの職になぞらえて、平関白へいかんぱくという通り名がつくほどで、「平家一門でないもので、人の数に入るものはいない」とおっしゃったと伝えられていて、平家一門の繁栄と奢りの程をよく表している言葉として、歴史に残っています。

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