愛玩
黒猫を飼い始めた。ずいぶんとおとなしい猫だった。拾ったのは夏休みの真っただ中で、道端の段ボールからみぃみぃと鳴いているのを見つけたのがきっかけだった。閉ざされていた蓋を開けて中を覗き込めば、生まれたばかりだろうか、やせ細った子猫がまだ真ん丸な爪を立てて段ボールを登ろうと二本足で立つ姿があり、私はそのかわいらしさにあらがうことができず、汗を拭くために持ってきていたタオルに包んで猫を持ち帰ることにした。
家は2LDKのマンションで、お母さんとお父さんを含む三人で暮らしていた。私が小学生になった時に引っ越したこのマンションのエントランスには、でかでかとした文字で『不用意な動物への餌付け禁止』『燃えるゴミの回収は火曜日』『粗大ゴミはご自分で処理をお願いします』とルールを印字したプリントが貼られていた。その中にははっきりと『ペット禁止』の文字が踊っているのを知っていたけれど、タオルに包んだ子猫をお腹に抱えた私は俯いていたからそれを見ることができなくて、だから知らないふりをしてエレベーターを待った。
待っている間は猫が鳴かないか、誰かにバレてしまわないかと気が気ではなかったけれど、幸いにも誰にも気付かれることはなく、それ以上に誰かとすれ違うこともなく、私はエレベーターに乗り込むことに成功した。降りてきたエレベーターには誰も乗っていなくて、私はうんと背を伸ばすと三階のボタンを押し、それから七階までは階段を登ると、七○六号室の扉の前に立った。ドアポストの内側にはセロハンテープで鍵が貼り付けてあって、それを使ってドアを開いた。
玄関扉から右側にはバスルームやトイレ、それからキッチンなんかが揃っていて、正面にリビングを隠す暖簾があった。いつもの私は帰るとまず手を洗っていたけれど、子猫を抱えた私はそういうわけにもいかず、玄関扉に鍵をかけ直し、ドアチェーンをつけてから自室へと駆け込んだ。
黒猫は衣装箪笥の、靴下を入れていた小棚を空けて隠すことにした。お母さんが買ってきてくれたけれど、趣味の合わなかった服を敷物にしたそこに子猫を入れた。ほっと息を吐く間もなく、箪笥からは幾分かくぐもった鳴き声が聞こえて、私は慌てて黒猫の口にティッシュを詰めた。そこから染み込ませるようにして冷蔵庫の中にあったミルクを飲ませていると、ちょうどそのタイミングでお母さんが帰ってきて、ドアチェーンの存在に不平を訴える声が聞こえた。「はーい!今開けるー!」大きな声で返事をすると、箪笥をしめて玄関へと走った。
それから暫く、鈍感なお父さんは何にも気付かなかったけれど、お母さんは鼻をむずむずとさけせると、しきりにくしゃみをするようになり、赤く腫らした目で食卓につく私たちを睨め付けた。
「あなたたち、最近ねこを触って帰ってきたり、してないわよね?」
意を決して放たれたそのセリフに、本当に心当たりのない父はもちろん、ぎくりとからあげを丸呑みしてしまった私も首を振ると、おかしいわね、と母は首をひねりくしゃみをした。
このままではいけないと感じた私は母がパートに出かけたタイミングを見計らい洗面台からお父さんの脱毛クリームを拝借し、お風呂の中で黒猫に塗りたくった。シャワーを流しながら、その毛がなくなるまで一心不乱に剝いでしまった。毛のない黒猫はもはや黒猫ではなくなっていた。
夏休みが終わると教科書を放り出したランドセルに猫を入れて、学校まで持っていくようにした。教室にはさすがに入れないで、体育館裏の陰にそっと隠し、お昼には給食の残りを持って行った。ある日、仲の良かったかすみちゃんが、最近付き合いの悪くなった私を不審に思い後をつけて、猫を見つけてしまう事件があった。物知りなかすみちゃんは猫を指すと「スフィンクスだ!」と大きな声を上げた。それは何かのテレビ番組で見たという、毛のない猫の品種らしかった。まだ名前を決めあぐねていた私は、猫の名前をすふぃんくすにした。
「撫でても良い?」
人懐っこいと思っていたスフィンクスは、そう尋ねながらに既にあたまをなでようとしたかすみちゃんに嚙みついた。私は彼女を保健室まで連れていく傍ら、もうこんなことないようにするから猫のことをどうかばらさないでほしいとしきりに頼んだ。かすみちゃんはしぶしぶうなずくと、そのかわり躾けたら一番に撫でさせてよねといった。私はそれにうなずきありがとうとごめんねをたくさん言った。その日からスフィンクスの牙を少しずつやすりで削るようになった。ものを噛めなくなったので、カエルやバッタ、それからやっぱり給食の残りなんかをペースト状にすりつぶして食べさせた。
そろそろ良いかというところで霞ちゃんは転校してしまい、結局約束を守れなかったのを思い出す。もう何十年も昔のことだ。
どうしてそんなことをいまさらになって考えているかというと、私はーーそれを人と呼んでいいのかはわからないけれどーー人よりも賢く、人よりも強く、人よりも数の多い、そんな侵略的宇宙人につかまってペットにされてしまったからだった。理不尽にアキレス腱を折られ、裸にされて、私はそれでも飼い主に媚びるように鳴き声を上げるおとなしいペットだった。




