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祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


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はじめて残った笑み

気づかないまま残ったものほど、いちばん静かに、深く根を下ろしていく。

初冬の午後だった。


教会の小さな部屋には、やわらかい光が落ちていた。


窓の外は冷たいのに、

中は少しだけ温かい。


壁に寄り添うように置かれた机の上には、湯気の立つカップが三つ。

湯の匂いと、乾いた木の匂いが、静かに混ざっている。


「……あったかい」


ミヤが言う。


両手で包むように持ちながら。


その声は、外で話す時より少しだけ緩んでいた。

教会の中でだけ落ちる声だった。


クチナシもカップを持つ。


少しだけ迷ってから、口をつける。


「……」


熱い。


でも、前みたいに驚かない。


ほんの少し眉が動くだけ。

喉を通る熱さに、もうすぐには身体がこわばらない。


「慣れたね」


ミヤが笑う。


クチナシは小さく頷く。


「……うん」


それだけでいい。


言葉が短くても、止まらない。

沈黙が、苦しくない。


何も話していなくても、そこにいていいと分かる。


それが、もう当たり前になっている。


部屋の隅には神父がいる。

本を開いているけれど、ページはほとんど進んでいない。

二人の会話が、ちゃんと耳に入る距離だった。


「ね」


ミヤがカップを置く。


少しだけ楽しそうに。


「覚えてる? この前の話」


クチナシが顔を上げる。


「……?」


「先生の」


少しだけ目を細める。


「あの時、“どうだろうね”って言ったやつ」


クチナシは少し考える。


「あ……」


小さく思い出す。


「……すき、ってやつ」


ミヤが笑う。


「そう、それ」


少しだけ視線を逸らす。


頬に手をやるでもなく、照れるふうに大げさに振る舞うでもなく、ただ少しだけ目を逃がす。


「今もね、よくわかんない」


軽く言う。


「前よりは、ちょっとだけ違うけど」


クチナシは、それを聞いて、


「……ちがう?」


と、小さく返す。


「うん」


ミヤは頷く。


「前は、なんとなく気になるって感じだったけど」


少しだけ間を置く。


言葉を選ぶみたいに。


「今は……それだけじゃないって分かった感じ」


窓から落ちる光の中で、ミヤの横顔が少しだけ遠くを見る。


「他にも、ちゃんとあるって」


クチナシは、少しだけ黙る。


よく分からない。


でも、否定もしない。


気になるだけじゃない。

その先に、何か別のものがある。

その言い方は、曖昧なのに、なぜか曖昧じゃなかった。


「……そう」


それだけ言う。


ミヤは、その反応を見て笑う。


「クチナシは?」


「……なに」


「好きとか」


クチナシは止まる。


考える。


長く。


好き。


その言葉はもう知らないものではない。

でも、自分の中のどれがそれなのかは、まだはっきりしない。


「……ない」


正直に言う。


ミヤは、少しだけ目を細める。


「ほんとに?」


クチナシは少しだけ迷って、


「……わからない」


言い直す。


その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。


好き。


その音は、まだ遠い。


菓子の甘さ。

ミヤの手の温度。

神父が戻ってくる足音。


それから――


夢の底にある、静かな気配。


顔は思い出せない。

名前も知らない。


けれど、否定せずにそばにいてくれた誰かがいる。


その人を思い出そうとすると、胸の奥が少しだけやわらかくなる。


でも、それが好きなのかは分からない。


だから、クチナシはもう一度、小さく言う。


「……わからない」


ミヤが、ふっと笑う。


「それ、増えてるってことだよ」


クチナシは首を傾げる。


「……?」


「前は考えなかったでしょ」


クチナシは、少しだけ黙る。


それから――


「……うん」


小さく頷く。


確かに、前なら“ない”で終わっていた。

分からない、と言い直すこともなかった。


ミヤが、その様子を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。


それから、ふと思い出したように言う。


「じゃあさ」


軽く。


「神父さまのことは?」


クチナシが、少しだけ止まる。


「……しんぷ」


繰り返す。


ミヤは頷く。


「うん。どう思ってるの?」


クチナシは、考える。


長く。


言葉を探す。


「……」


視線が少しだけ揺れる。


でも――


逃げない。


「……いる」


ぽつりと。


ミヤが瞬きをする。


「いる?」


クチナシは頷く。


「……ずっと」


少しだけ間を置く。


「……いなくならない」


それだけ言う。


言葉は少ない。


でも、そこにはクチナシが知っていることの全部が入っていた。


怒鳴られない夜。

起こされない朝。

消えない灯り。

戻ってくる足音。

いつも同じ場所に立っている影。


ミヤは、少しだけ黙る。


その言葉を、ゆっくり受け取る。


「……そっか」


静かに言う。


軽くではなく。

少しだけ深く。


クチナシは、それ以上言わない。


言葉は足りない。

でも、それで全部だった。


ミヤが、少しだけ息を吐く。


それから、いつもの調子に戻る。


「じゃあさ、石やる?」


軽く言う。


クチナシは頷く。


二人で外へ出る。


冷たい空気が、頬に当たる。


でも、嫌じゃない。


部屋の温かさを背中に残したまま出る冬の空気は、ただ冷たいだけではなく、少しだけ澄んでいた。


「……」


石を拾う。


指先に意識を向ける。


浮く。


少しだけ。


前よりも、安定して。


石は短く揺れながらも、落ちるまでの間が確かに長くなっている。


「ほら」


ミヤが身を乗り出す。


「今の、すごくよかった」


クチナシは石を見る。


それから、


少しだけ間を置いて――


「……うん」


認める。


自然に。


ミヤが止まる。


「……」


目を見開く。


「今、自分で言った」


少しだけ驚いた声。


クチナシは視線を逸らす。


「……いわれたから」


小さく言う。


その言い方が、どこか不器用で。


ミヤが、ふっと吹き出す。


「なにそれ」


笑いながら。


「素直じゃん」


クチナシが少しだけ眉を寄せる。


「……ちがう」


でも――


その声が弱い。


否定しきれていない。


ミヤがさらに笑う。


その笑い方が、


少しだけおかしくて。


軽くて、でもちゃんと嬉しそうで。

責めるのでも、からかうのでもなく、ただクチナシの変化そのものを受け取って笑っている。


クチナシの口元が動く。


今度は、はっきりと。


少しだけ長く。


消えない。


最初の頃みたいな、気づけばほどけていた一瞬のものじゃない。

ほんの短いけれど、確かに“そこにある”と分かる形で残る。


「……」


自分でも気づかないまま、そのまま続く。


ミヤが、完全に止まる。


「……」


言葉が出ない。


ただ、見ている。


その顔を。


クチナシは気づかない。


石を見たまま、呼吸の続きみたいにその表情を持っている。


「……なに」


少し遅れて聞く。


ミヤは、やっと息を吐く。


少しだけ震えている。


「……なんでもない」


小さく言う。


でも――


全然なんでもなくない。


その顔を見て、

どうしていいか分からないくらい、

嬉しい。


庭で、道で、教会の中で、少しずつ何かがほどけてきたことは知っていた。

けれど、それが今、こんなふうにはっきり見えてしまうと、胸の奥のどこかが強く鳴る。


「……」


クチナシは首を傾げる。


でも、それ以上は聞かない。


また石を見る。


そのまま、少しだけ肩の力が抜けている。


構えていない。


石を浮かせる前の指先にも、前ほど強い緊張がない。


それが、当たり前になっている。


少し離れた場所で、


神父がそれを見ている。


何も言わない。


ただ、静かに。


二人の間にあるものを見ている。


クチナシの笑み。

ミヤの反応。

その距離。

その空気。


「……」


ほんのわずかに、


視線が止まる。


それから、静かに逸らす。


変わらない顔で。


でも――


その奥に、


ごく薄い陰りが残る。


まだ誰も知らないもの。

まだ壊れていないものの、

かすかな予兆。


それは形にもならないほど小さい。

けれど、何かを長く見てきた者だけが感じ取る、ほんのわずかな曇りだった。


風が吹く。


冷たい。


冬が、少しだけ深くなる。


ミヤが腕をさする。


「寒いね」


軽く言う。


クチナシは頷く。


「……へいき」


同じ言葉。


でも――


さっきより、やわらかい。


前のような、何でも押し返すための“へいき”じゃない。

ただ、今の自分の中にある感じを、そのまま短く言っただけの声。


ミヤが笑う。


クチナシも、


ほんの少しだけ、


また口元を緩める。


それはまだ、


深い笑顔ではない。


でも――


確かに、


そこにある。


二人の間に。

この時間の中に。


そしてそれは、


まだ失われることを知らないまま、


いちばん穏やかな形で、


そこに残っていた。


空は少しずつ暗くなり、

教会の壁に冬の影が長く伸びる。


クチナシはもう一度石を浮かせる。


さっきより、ほんの少しだけ長く。

ほんの少しだけ素直に。


ミヤは、それを見ている。


笑ったままではなく、でも笑みの名残を残したまま。


神父は、その少し外側にいる。


三人は同じ庭にいて、

同じ空気の中にいて、

それぞれ違うものを見ている。


けれど、その違いすら、今はまだ穏やかだった。


だからこそ、

この時間は美しかった。

壊れる前触れをまだ知らないまま、

ただ静かに、積もるみたいに残っていく時間だった。

その笑みは、まだ失われることを知らないまま、いちばん穏やかな場所に留まっていた。

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