「あいだを歩く」
外の世界は、まだ怖かった。
冬の空気は、刺すように冷たかった。
教会の石畳は白く乾いて、
踏むたびに小さく音を返す。
クチナシは、入口の前に立っていた。
「……」
少しだけ落ち着かない。
外へ出ること自体は、もう初めてではない。
けれど――
三人で、というのは初めてだった。
一人で外へ出た時の静けさとも、
神父と二人で歩いた時の緊張とも違う。
今日は、もう一つ気配がある。
それが何を変えるのか、まだ分からないまま、胸の奥だけが少しだけ固い。
「行きますよ」
神父が言う。
短く。
変わらない声。
クチナシは頷く。
「……うん」
外へ出る。
すでにミレイヤ――ミヤが待っている。
外套を羽織り、白い息を吐きながら、こちらを見る。
冬の光の中で、水色の髪は少しだけ灰色を混ぜたように見えた。
「おはよう」
軽く手を上げる。
いつも通り。
「……おはよう」
クチナシは、小さく返す。
ミヤは少しだけ笑う。
それから、神父を見る。
「近くの町でいいんだよね」
「ええ。遠出はしません」
短いやり取り。
慣れている。
三人で歩き出す。
道は静かだった。
教会の周りには人が少ない。
風の音と、足音だけ。
ミヤが少し前。
クチナシがその後ろ。
神父がさらに後ろ。
自然とその並びになる。
誰が決めたわけでもないのに、そうなっていた。
「寒いね」
ミヤが言う。
振り返らずに。
クチナシは少し考える。
「……へいき」
答える。
でも、指先は少し冷たい。
神父の視線が一瞬そこに落ちる。
何も言わない。
ただ、見ている。
道が続く。
森の縁を抜け、
少し開けた場所へ出る。
やがて――
音が混じり始める。
遠くから、人の声。
荷の音。
足音。
「もうすぐだよ」
ミヤが言う。
軽く。
クチナシは頷く。
「……うん」
少し歩くと、道が開ける。
町だった。
教会から一番近い、小さな町。
大きくはない。
でも――
人は多い。
店が並び、
荷車が行き、
人が行き交う。
声が重なる。
近い。
思っていたより、ずっと近い。
クチナシの足が、止まりかける。
「……」
視線が揺れる。
誰かと目が合いそうになる。
すぐ逸らす。
肩が強張る。
音が、刺さる。
足音。
声。
笑い。
全部が近い。
「……」
呼吸が浅くなる。
その時――
「こっち」
ミヤの声。
すぐ前。
気づくと、ミヤが一歩前に出ている。
クチナシとの間に、わずかな距離を作る。
人の流れと、クチナシの間に入る位置。
自然に。
「大丈夫」
軽く言う。
振り返らない。
クチナシは、少しだけ顔を上げる。
ミヤの背中。
その向こうに、人。
でも――
直接ぶつからない。
流れが、少しだけ避ける。
ほんのわずかに。
ミヤの立ち方ひとつで、人の目線や足取りがやわらぐ。
それは偶然ではなく、ミヤ自身がもう知っている動きだった。
「ミレイヤ様」
声がかかる。
通りの端の店。
男が軽く頭を下げる。
深すぎない。
でも、他の客より、少しだけ丁寧。
「こんにちは」
ミヤが返す。
自然に笑って。
その笑顔に、男の表情が緩む。
「今日はお散歩ですか」
「うん、近くだから」
軽い会話。
でも、その中にあるのは――
ただの挨拶じゃない距離。
知っている相手。
大事にしている相手。
粗末に扱わない相手。
クチナシは、それを見る。
言葉にはできない。
でも、分かる。
ミヤは、この町でも特別だ。
怖がられているわけじゃない。
遠ざけられているわけでもない。
ちゃんと、受け入れられている。
その受け入れられ方を、ミヤ自身も当然のこととして知っている。
「これ、見て」
ミヤが言う。
店先の小物を指す。
木で削られた小さな飾り。
冬らしい葉の形をした細工。
クチナシの視線が止まる。
ほんの一瞬。
すぐに逸らす。
でも、ミヤは気づいている。
何も言わない。
ただ、少しだけ体をずらす。
クチナシが見やすいように。
それだけ。
「きれいでしょ」
軽く言う。
クチナシは頷く。
「……うん」
声が、ほんの少しやわらぐ。
また歩き出す。
ミヤは前。
クチナシは後ろ。
神父はさらに後ろ。
人の流れが来る。
ミヤが、ほんの少し位置を変える。
肩の向き。
歩幅。
それだけで、流れがずれる。
ぶつからない。
視線も、やわらぐ。
守られている。
でも、押し返されている感じはない。
自然に。
神父は、それを見る。
二人の距離。
歩き方。
ミヤの立ち位置。
「……」
何も言わない。
ただ、理解する。
ミヤは、“どう見られているか”を知っている。
だから、どう動けば、どうすれば、人の流れが変わるかも知っている。
それを使っている。
無理なく。
当たり前のように。
クチナシは、その背を見る。
前にいる存在。
人の中を歩ける存在。
声を受けて、返せる存在。
その全部が――
外の世界だった。
怖い。
でも、
その背があると、
全部じゃない。
全部が敵じゃない。
そう思える。
「……」
クチナシは、少しだけ歩幅を上げる。
ミヤとの距離を、ほんの少し縮める。
ミヤは気づかない。
あるいは、気づいても何も言わない。
そのまま歩く。
クチナシも、そのままついていく。
三人で歩く。
町の中を。
クチナシは、もう一度顔を上げる。
人。
店。
声。
光。
全部がある。
まだ怖い。
でも――
少しだけ、見ていられる。
神父が後ろにいて、
ミヤが前にいる。
その間に、自分がいる。
それだけで、
外の世界は、
完全に遠いものではなくなっていた。
ミヤ越しに見る世界。
それはまだ借り物みたいだった。
自分の足で立っているようでいて、どこか背中を借りている感覚。
それでも、確かに、クチナシの中へ入り始めていた。
ふと、一瞬だけ。
夢の中にも、こんなふうに前を歩く誰かがいた気がした。
怖いものから遠ざけるように。
けれど、無理に振り返らせないように。
白い手袋。
静かな足音。
名前を思い出せない誰か。
でも、それはすぐに消える。
目の前には、ミヤの背中があった。
水色の髪。
冬の外套。
人の流れを自然に分けていく立ち方。
夢ではない。
ここにある背中だった。
クチナシは、少しだけ歩幅を上げる。
ミヤとの距離を、ほんの少し縮める。
⸻
少し進んだ先で、町の中心から外れた小さな広場に出る。
人の流れが少し緩む。
荷車の音も遠くなる。
ミヤがようやく足を少し緩める。
「ここなら、さっきより楽でしょ」
振り返って言う。
クチナシは、少しだけ周囲を見る。
人はいる。
でも、さっきほど近くない。
息がしやすい。
「……うん」
今度は、さっきより少しだけ素直な声で言う。
ミヤが、少しだけ笑う。
「よかった」
それだけ。
大げさに褒めない。
頑張ったとも言わない。
ただ、そのまま受け取る。
神父がその後ろから追いつく。
三人の距離が、ようやく並ぶ。
ほんの短い時間だった。
でも、クチナシには、その“並ぶ”が少し不思議だった。
教会では、座る場所も、立つ場所も、なんとなく決まっている。
外では、人が多すぎて、自分の場所がどこにあるのか分からなくなる。
けれど今は、神父とミヤのあいだに、自分の立つ場所がある。
「……」
クチナシは、少しだけ自分の足元を見る。
石畳。
乾いた土。
他人の靴音。
その中で、自分もちゃんと立っている。
ミヤが、近くの店先に吊るされた冬用の小さな飾りを見上げる。
「これ、前より増えてる」
軽く言う。
店の女が笑って答える。
「もうすぐ祭りですから」
祭り。
その言葉に、クチナシの目が少しだけ動く。
知らない言葉ではない。
でも、まだ実体のない言葉。
神父が、そのわずかな反応を見る。
「この町の冬前の小さな行事です」
説明は、それだけ。
多くは言わない。
けれど、置いていかない。
クチナシは、その言葉を受け取る。
祭り。
この町にも、そういうものがある。
教会の中だけではないことが、また一つ増える。
ミヤは、店先の飾りを見たあと、自然にクチナシの方を見る。
「今度、見に来られたらいいね」
軽く言う。
クチナシは、すぐには答えない。
でも、前みたいにただ黙って終わらない。
「……ひと、おおい?」
小さく聞く。
ミヤが、少しだけ目を丸くする。
質問されたことより、その問い方そのものに。
でも、すぐに笑う。
「多い。でも、今日みたいに歩けると思うよ」
その言い方は、無責任ではなかった。
大丈夫だと言い切るのではなく、今日の続きとして差し出す言い方だった。
クチナシは、少しだけ考える。
今日みたいに。
ミヤが前にいて、神父が後ろにいて、自分がそのあいだにいるなら。
「……」
答えは出ない。
でも、その言葉を追い払わない。
それだけで十分だった。
神父は、そのやり取りを静かに聞いている。
何も言わない。
ただ、クチナシの中で“外”が少しずつ恐ろしいだけのものではなくなっていくのを見ている。
それは急に変わるものではない。
ひとつずつ、借りた景色が増えていく。
ミヤ越しの世界。
神父越しの町。
その借り物が、少しずつクチナシの中に残っていく。
そして、いつか自分の目で見るための形になっていく。
冬の光は、さらに傾く。
白かった息が、また薄く見える。
「そろそろ戻りましょう」
神父が言う。
ミヤが頷く。
クチナシも、少し遅れて頷く。
来た時と同じように、また歩き出す。
でも、帰り道のクチナシは、行きより少しだけ顔を上げていた。
まだ怖い。
まだ、人の声は近い。
視線も、気になる。
それでも、さっきより少しだけ見える。
店の布の色。
吊るされた飾り。
荷車の軋む音。
話している人の顔。
全部を受け止められるわけではない。
でも、ほんの少しだけなら見ていられる。
教会へ戻る道のあいだじゅう、
クチナシは何度か、ミヤの背中を見た。
その向こうに町を見た。
そして、時々だけ、神父が後ろにいることも確かめた。
前と後ろに、人がいる。
そのあいだを歩く。
それだけのことが、今日は何かひとつ新しいことみたいに感じられた。
冬の空気は、相変わらず冷たかった。
けれど、クチナシの中には、町のざわめきが少しだけ残っていた。
怖さと一緒に。
でも、それだけではないものとして。
外の世界はまだ遠い。
それでももう、ただ閉ざされているだけのものではなかった。
それでも、そのあいだでなら、少しだけ歩けた。




