『分からないまま、選ぶ』
すべて、奪われた。
名前も。
記憶も。
理由も。
それでも――
「これは、私のものだ」
処置は、なお続く。
空間は刃の性質を保ったまま、定義の上書きを繰り返す。
だが対象は崩れている。
ネリネは、一歩前に出る。
理由はない。
思い出せない。
それでも、止まらない。
アガリアレプトの正面に立つ。
逃げない。
視線を外さない。
「思い出せない」
欠落を、そのまま言葉にする。
「名前も、声も、分からない」
空白のまま立つ。
本来なら、ここで切除される。
統合不能。
不要な残滓。
だが。
「でも、消していいものじゃない」
拒否だけが、明確に残る。
アガリアレプトが応じる。
「非合理です」
揺るがない評価。
だが。
ネリネは、頷く。
「そうよ」
一度、受け入れる。
理解はしている。
それでも。
「でも、私のものよ」
基準が反転する。
正しいかどうかではない。
“自分のものかどうか”。
その瞬間。
ネリネの首元――白い薔薇が、微かに軋む。
馴染んだ感覚。
見慣れた重さ。
そこから、蔓が滑り出る。
絡み、形を取る。
鎌。
ずっと昔から使い続けてきた武器。
身体に馴染んだ軌道。
説明はいらない。
手に取る。
迷いがない。
思い出しているわけではない。
それでも、“使い方が残っている”。
ネリネは構える。
足の位置。
重心。
刃の角度。
すべてが自然に定まる。
後方で、ナベリウスが息を呑む。
「……は、は?なんでそれ使えんだよ……」
理解が追いつかない。
だが、目を離せない。
ヴァレフォルは小さく震える。
「……わ、わかってないのに……うごいてる……」
恐怖と驚きが混じる。
それでも、その場から動けない。
ムルムルが、わずかに傾く。
「ケケ……残ってるねぇ」
軽い声。
だが、そこだけ正確に見ている。
アガリアレプトの処理が、わずかに遅れる。
「……行動保持を確認」
「理由消失状態での武装維持」
分類が揺れる。
記憶がない。
だが技術は残る。
理由がない。
だが選択は成立する。
ネリネが踏み込む。
鎌を振るう。
速い。
迷いがない。
考えていないからこそ、最短。
記憶の切片と衝突する。
刃同士が擦れる。
完全には断てない。
だが、削れる。
“定義された刃”に対して、“理由を持たない動き”が干渉する。
ズレが生まれる。
ネリネは止まらない。
もう一度振るう。
今度は角度を変える。
身体が覚えている。
どこを削れば、空間が崩れるか。
それを“思い出さずに”選ぶ。
白い領域に亀裂が入る。
診療所と処刑場の境界がさらに歪む。
アガリアレプトの声が揺れる。
「……処理不能領域拡大」
ネリネは、呼吸を整えない。
理由がないから。
疲労も、まだ認識できない。
それでも。
動き続ける。
アスモデウスが隣に立つ。
同じ位置。
理由は戻らない。
だが、“離れない”という行動だけが残る。
ムルムルが、ぼそりと落とす。
「ケケ……それ、切れない」
核心だけ。
クチナシが前に出る。
ヘルハウンドが間を詰める。
全員が、理由を持たないまま動いている。
それでも、連携が崩れない。
ナベリウスが思わず呟く。
「……なんだよこれ……」
答えは出ない。
だが、現実として成立している。
ネリネの鎌が、再び振り下ろされる。
今度は深く入る。
空間の一部が裂ける。
白が崩れる。
定義が揺らぐ。
アガリアレプトの処理が追いつかない。
「……定義不能」
分類が破綻する。
記憶ではない。
感情でもない。
論理でもない。
それでも存在する。
ネリネは立っている。
分からないまま。
空白を抱えたまま。
それでも。
それを“自分のもの”として選び続ける。
その状態が、処置そのものを拒む。
ヴァレフォルが小さく息を呑む。
「……き、きえない……」
ムルムルが、かすかに笑う。
「ケケ……終わらないやつだ」
戦いは、最終段階へ入る。
思い出せなくてもいい。
理由がなくてもいい。
それでも――
手放さないと決めたものだけが、
自分になる。




