『空白は、飢えに喰われる』
何も持たなければ、失うものはない。
そう思われている。
関わらなければ、傷つかない。
選ばなければ、間違えない。
持たなければ、奪われない。
けれど。
この世界では、それは違う。
何も持たないものは、
何も守れないのではなく、
“何も持っていないこと”そのものを、
奪われる。
村の“匂い”は、まだ消えていない。
腐敗ではない。血でもない。
もっと乾いたもの。
――満たされなかったものの残り香。
観測を終えたはずの地点から、アスモデウスは動いている。
ナアマと別れた直後。
同じ場所にいながら、もう同じものを見ていない位置。
それでも、残っている“痕跡”だけは追える。
アスモデウスはそれを辿る。
地面でもない。
建物でもない。
人そのものでもない。
“選んだ跡”だけを拾っていく。
奪った跡。
残した跡。
迷った跡。
その全てが、同じ方向へ収束している。
村の奥。
屋敷だった場所へ。
最も“満たされていたはずの場所”。
だからこそ、最も歪みが集まる場所。
扉は開いている。
壊された形跡はない。
中は、荒れていない。
整っている。
異様なほどに。
均されているわけではない。
“崩れていない”。
その違和感。
アスモデウスは、そこに入る。
足音はない。
床を踏んでいるのに、重さがない。
まだ“観測者”のまま。
奥で、音が鳴る。
グラスが触れる音。
軽く、澄んだ音。
この村に残る音ではない。
女がいる。
長い髪。
整った姿。
貴族の衣装。
場違いなほど、完成されている。
戦場とも、飢餓とも、無縁のような佇まい。
ベルゼブブは、振り向かない。
グラスを揺らしながら言う。
「……遅いわね」
一拍。
「観測者のくせに」
アスモデウスは、少しだけ首を傾ける。
「気づいてたんだ」
ベルゼブブは、ゆっくりと振り向く。
微笑む。
完璧に整った、貴族令嬢の顔。
「余の“飢え”を辿って来たのでしょう?」
グラスを傾ける。
「なら、当然よ」
その目が、わずかに細くなる。
「飢えは、嘘をつかないわ」
アスモデウスは、黙って観る。
言葉ではなく、構造を見る。
この女は、食べていない。
だが、満ちている。
満ちているのに、足りない。
矛盾が成立している。
「……面白いね」
ベルゼブブは笑う。
「でしょう?」
一歩、近づく。
距離が近い。
近すぎる。
「卿は、よく見ているわ」
声が、耳元に落ちる。
「でも」
一拍。
「見方が偏っている」
アスモデウスは反応しない。
ただ、観測を続ける。
だが。
ベルゼブブは、それを許さない。
「見るだけのものが、どうして偏るの?」
問い。
だが、答えを求めていない。
“定義の否定”。
アスモデウスの視界が、わずかに歪む。
ベルゼブブの指が、空間をなぞる。
瞬間。
村の光景が重なる。
さっきまで見ていたもの。
奪い合う人間。
泣く子ども。
迷う手。
そして――あの男の子。
選び続けた揺れ。
それらが、一度に流れ込む。
情報ではない。
“圧”。
感情の密度。
アスモデウスの輪郭が、わずかに揺らぐ。
「……ああ」
ベルゼブブが、楽しそうに息を吐く。
「やっぱり、空っぽ」
一歩、下がる。
距離を戻す。
「だから、偏るのよ」
グラスを口元へ運ぶ。
だが、飲まない。
「余はね」
一拍。
「“足りないもの”で満たすの」
視線が突き刺さる。
「卿は違う」
「何も持たないから、何も選べない」
その言葉。
ナアマの言葉とは、違う方向で同じ場所を刺す。
“残るもの”。
“持つもの”。
アスモデウスの中で、何かが引っかかる。
だが、理解には至らない。
「……選ぶ必要、ある?」
ベルゼブブは笑う。
今度は、歪んだ笑み。
「あるわよ」
その瞬間。
空気が変わる。
ベルゼブブの背後で、何かが開く。
衣装の隙間から、黒が滲む。
美しい形が、崩れ始める。
脚が増える。
関節がずれる。
皮膚の内側から、別の構造が現れる。
貴族令嬢の姿が、“表皮”だったと分かる。
「選ばないものは」
声が変わる。
甘さの中に、濁りが混じる。
「いずれ、食われるだけ」
背中から伸びた腕が床に触れる。
軋む音。
それが“本来の姿”。
飢えそのもの。
アスモデウスの視界が、わずかに乱れる。
観測が、追いつかない。
対象が、定義から外れる。
「余は、満たされないものを食べる」
一歩、踏み出す。
「卿は――」
間合いが消える。
「何も持たないまま、消えるのかしら?」
その瞬間。
流れ込む。
飢え。
肉でも血でもない。
“存在”そのものが削られる。
アスモデウスの輪郭が崩れる。
声が薄れる。
形が、維持できない。
初めて。
観測者が、“対象になる”。
アスモデウスは、わずかに後退する。
逃げではない。
距離の再計測。
だが。
遅い。
ベルゼブブは笑う。
「いい顔」
愉悦。
「初めてでしょう?」
一拍。
「“満たされない側”になるのは」
視界が揺れる。
存在が削られる。
ナアマの言葉が、わずかに残る。
――残るものの重さ。
だが、まだ分からない。
理解には至らない。
ただ。
消える、という感覚だけが、初めて明確になる。
空間が歪む。
観測は終わる。
戦闘が始まる。
空っぽは、安全じゃない。
満たされていないものは、
満たされようとする。
それは内側からでも、
外側からでも同じだ。
選ばないままではいられない。
何も持たないままでは、残れない。
だから。
ここで初めて、
“選ぶ理由”が必要になる。




