『選びきれないまま、選び続ける』
正しい選択は、分かりやすい。
救うなら、すべてを救う。
奪うなら、すべてを奪う。
どちらかに決めれば、結果ははっきりする。
中途半端は、効率が悪い。
どちらも救えず、どちらも壊す。
だから、間違いに見える。
けれど。
それでも選ぶことをやめないなら。
失敗し続けることをやめないなら。
それは、本当に“無駄”なのか。
飢えた村の片隅。
壊れきる一歩手前で、まだ踏みとどまっている場所がある。
そこに、一人の男の子がいた。
年は幼い。
背は低く、腕も細い。
だが、その目だけは止まっていない。
見ている。
選ぼうとしている。
小さな家の中。
床には、ぐったりと横たわる幼い子どもがいる。
妹かもしれない。
血の繋がりは分からない。
それでも、男の子はその子を守ろうとしていた。
アスモデウスは、それを見ている。
見ているだけ。
ナアマもまた、黒い傘の下で同じものを見ていた。
けれど、やはり二人の視線は違う。
アスモデウスは、動きの結果を見る。
ナアマは、選ぶ前の震えを見る。
男の子は外へ出る。
足取りは軽くない。
迷いがある。
向かう先は、別の家。
まだ、持っている側の家。
扉の隙間から中を覗く。
パンがある。
水もある。
そして、中にも子どもがいる。
同じくらいの年。
痩せているが、まだ動ける。
男の子の視線が揺れる。
奪えば助かる。
奪わなければ、こちらが死ぬ。
単純な構図。
だが、単純には選べない。
男の子は、入る。
音を立てないように。
息を殺して。
手を伸ばす。
パンを掴む。
その瞬間、視線がぶつかる。
中にいた子どもと。
見つかった。
逃げるか。
奪い切るか。
その一瞬で、決まる。
男の子は――半分だけ、持っていく。
残す。
奪いきらない。
逃げる。
外へ飛び出す。
息を切らしながら、自分の家へ戻る。
パンを差し出す。
倒れていた子どもが、それを掴む。
食べる。
生きる。
だが、足りない。
完全には戻らない。
同時に、あちらも。
半分残されたパンでは、足りない。
どちらも、救いきれない。
結果だけが残る。
中途半端な救い。
中途半端な破壊。
男の子は、その場に座り込む。
手を見る。
震えている。
やったことは分かっている。
奪った。
残した。
どちらも選んだ。
どちらも選びきれなかった。
「……これで、よかったのか」
答えはない。
ただ、時間だけが進む。
ナアマは、傘の奥で微笑む。
「選び続けたのね」
優しい声。
だが、肯定でも否定でもない。
ただ、そこにあるものを拾う声。
アスモデウスは、その光景を観測する。
分析する。
結果を見る。
「中途半端だ」
即答。
迷いがない。
ナアマは少しだけ首を傾ける。
「そうかしら」
「どっちも助けられないなら、意味がない」
正しい。
結果だけを見れば、そうなる。
助けた数。
残った量。
失われたもの。
それだけを並べれば、男の子の行動は効率が悪い。
アスモデウスにとって、それは失敗に近かった。
ナアマは視線を男の子へ戻す。
彼は、まだ動いている。
座り込んだまま、終わらない。
また立ち上がる。
外へ出る。
今度は水を探す。
別の家へ向かう。
同じことを繰り返す。
奪う。
残す。
迷う。
止まらない。
壊れきらない。
ナアマが、静かに言う。
「終わらないのよ」
一拍。
「この子は、どちらかに落ちない」
アスモデウスは、わずかに目を細める。
観測を続ける。
男の子は、また誰かを助けようとする。
だが、また足りない。
また失敗する。
それでも、やめない。
「……効率が悪い」
アスモデウスは言う。
ナアマは笑う。
「ええ。でも」
傘の奥で、瞳がわずかに細まる。
「それが、一番壊れにくい形よ」
一拍。
「だから、最後が綺麗なの」
アスモデウスは答えない。
ただ、見ている。
男の子が、また選ぶ。
また迷う。
また救いきれない。
その繰り返し。
その揺れが、確かに存在している。
村のあちこちでは、もう崩壊が進んでいた。
奪った者が、奪われる。
守ろうとした者が、殴る。
隠した者が、暴かれる。
人間であろうとした形が、飢えの前で剥がれていく。
その中で、男の子だけが中途半端だった。
完全に奪うこともできない。
完全に与えることもできない。
救うこともできない。
見捨てることもできない。
どちらにもなれないまま、何度も選ぶ。
アスモデウスには、それが不思議だった。
壊れるなら壊れればいい。
奪うなら奪えばいい。
守るなら、他を切ればいい。
その方が分かりやすい。
その方が記録しやすい。
だが、男の子はそうしない。
壊れながら、壊れきらない。
醜さを見せながら、優しさも捨てない。
ナアマは、その揺れを見ている。
黒い傘の下で。
美しいものを見るように。
「ねえ」
ナアマが言う。
「あなたには、あれが無駄に見えるのね」
「うん」
アスモデウスは迷わず答える。
「残る結果が少ない」
「そう」
「助けたいなら、もっと奪えばいい。奪いたくないなら、最初から手を出さなければいい」
一拍。
「どっちにもならないから、どっちも壊れる」
ナアマは微笑む。
「でも、あの子はまだ選んでいるわ」
「選んでるのに失敗してる」
「ええ」
柔らかく肯定する。
「それでも、選ぶのをやめていない」
アスモデウスは、少しだけ黙った。
その沈黙は、感情ではない。
処理の遅れ。
理解できないものを前にした時の、わずかな停止。
男の子は、水を抱えて戻ってくる。
半分だけ。
残りは、別の家に置いてきた。
自分の家の子どもに飲ませる。
足りない。
それでも少しだけ、息が戻る。
男の子は笑わない。
安心もしない。
ただ、もう一度外を見る。
次に何をすればいいのかを探している。
ナアマが、小さく息を吐く。
「壊れる前は、綺麗ね」
前にも言った言葉。
けれど、今は少しだけ意味が違った。
壊れる直前の人間の醜さではなく。
壊れながらも、まだ選ぼうとする形。
その危うさを見ている。
アスモデウスは、やはり答えない。
その代わり、男の子を見続けた。
観測は続く。
まだ、結末には至っていない。
だが、この時点で――
ナアマは、何が残るかを見ようとしている。
アスモデウスは、何が壊れるかを見ようとしている。
同じ場所に立ちながら。
同じ男の子を見ながら。
それでも二人は、まったく違うものを待っていた。
全部を救うことはできない。
全部を捨てることもできない。
だから、人は途中で止まる。
迷う。
削れる。
失敗する。
それでも。
選ぶことだけは、やめない。
それは結果としては足りない。
けれど。
その“足りなさ”の中にしか、
残らないものがある。




