『それは、もうボクじゃない』
正しさは、比較で決まる。
元の形と、今の形。
混ざる前と、混ざった後。
差があれば、それは誤りとして扱われる。
修正すればいい。
元に戻せばいい。
それは、間違っていない。
けれど。
変わったあとにしか持てないものがあるなら。
混ざったからこそ選べるものがあるなら。
それは本当に、切り捨てるべき誤差なのか。
「非合理です」
アガリアレプトの断定に、アスモデウスは「知ってる」と返した。
その声は軽くない。
ネリネも同じように、分からないまま残すと選んだ。
理由も、定義もないまま。
それでも手放さないという選択。
その“誤差”が、白い空間の中に確かに残る。
ムルムルが天井近くで小さく笑う。
「ケケケ……消えないねぇ」
誰も返さない。
全員が分かっている。
ここから先は、“削られる側”だと。
アガリアレプトの杖が、静かに持ち上がる。
これまでと同じ動き。
だが意味が違う。
観測ではない。
分解の段階。
振るわれた瞬間、空間が“切り分けられる”。
「個別診察に移行します」
音は広がらない。
代わりに、位置だけが分断される。
クチナシの視界から、ネリネが消える。
ネリネの視界から、全員が消える。
ヘルハウンドの隣から、気配が抜け落ちる。
ナベリウスの舌打ちも、ヴァレフォルの震えも、ムルムルの気配さえも――
“最初から存在しなかったもの”として処理される。
“離された”のではない。
最初から一緒にいなかったように、配置が書き換えられる。
ネリネは、炎の中に立っている。
燃える森。
焦げた匂い。
逃げ場のない熱。
さっきまで見せられていた切片が、そのまま空間になる。
誰かがいる。
でも、顔も名前も分からない。
手だけが、近い。
――掴めない。
ネリネは膝をつく。
「……また、これ」
同じ断片。
同じ“欠けた記憶”。
今度は逃げ場がない。
“見せられている”のではなく、“そこにいる”。
拒否できない。
一方で――
アスモデウスは、白の中に立っていた。
床も壁もない。
境界だけがある空間。
音がない。
重さもない。
ついさっきまで隣にいたネリネの気配も、完全に消えている。
自分の輪郭すら、少し曖昧になる。
「……ああ」
小さく呟く。
さっきの言葉の続きのように。
「こっちか」
理解が早い。
ここは“診察のための空間”。
余計なものを削いだ、純粋な観測領域。
足元に影はない。
呼吸の感覚も、薄い。
自分が“存在している理由”が、わずかに遠くなる。
さっきまで感じていた“残していい”という選択さえ、輪郭を失いかける。
そのとき。
前方の空間が、ゆっくりと歪む。
何かが“形成される”。
輪郭ではない。
まず、密度。
次に、光。
最後に――“人の形”。
そこに立っていたのは、
アスモデウスだった。
だが、違う。
今の身体ではない。
もっと曖昧で、もっと軽い。
光の粒子で構成されたような、不完全な存在。
目はある。
だが、焦点がない。
感情が、乗っていない。
ただ、“見るためだけの存在”。
さっきアガリアレプトが言っていた“観測者”。
そのままの形。
アスモデウスはそれを見る。
そして、少しだけ笑う。
「……ああ」
一拍。
「ボクか」
目の前のそれは、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
評価もない。
拒絶もない。
“観測”だけがある。
アガリアレプトの声が、どこからともなく落ちる。
「初期状態の提示」
「現在の異常との比較を行います」
白い空間に、もう一つの“アスモデウス”が並ぶ。
現在の身体。
エルフの少年の姿。
血があり、温度があり、感情が乗る器。
ついさっきまでネリネの前に立っていた“今の自分”。
対比が、明確になる。
どちらが“本来”か。
どちらが“混線”か。
昔のアスモデウスが、一歩だけ近づく。
足音はない。
ただ、距離が詰まる。
アスモデウスは動かない。
観察する側に回る。
「……懐かしいね」
軽く言う。
だが、その言葉にはわずかなズレがある。
“懐かしい”と感じること自体が、すでに異常だから。
昔の自分は、懐かしさを持たない。
過去も未来も、等価だった。
目の前のそれは、手を伸ばす。
触れるためではない。
“測る”ために。
アスモデウスの頬の前で、止まる。
距離が定義される。
温度が比較される。
存在の重さが測定される。
そして、何も言わないまま結論だけが出る。
――違う。
アガリアレプトが告げる。
「現在の個体は、観測者ではありません」
「混入があります」
「他者由来の感情が、行動選択に影響しています」
ネリネの前で言われた言葉と、同じ構造。
だが今度は、直接自分に向けられる。
昔のアスモデウスが、わずかに首を傾ける。
疑問ではない。
ただ、差異を確認している。
アスモデウスはそれを見る。
静かに。
逃げない。
「……そうだね」
一拍。
「その通りだ」
認める。
否定しない。
さっきまでネリネに言われていたことと同じ。
分からないまま残す。
その“分からなさ”を、ここでもそのまま受け取る。
だが、そこで終わらない。
「で?」
軽く首を傾げる。
「それが、何?」
問い。
初めて、観測者ではない反応。
“意味”を求める。
昔の自分にはなかった動き。
アガリアレプトが即答する。
「修正対象です」
「不要な混線は排除します」
白い空間がわずかに狭まる。
距離が詰まる。
逃げ場はない。
ネリネが炎の中で追い詰められているのと同じ構造。
ただ形が違うだけ。
アスモデウスは目を細める。
前の自分と、今の自分。
その差を、正確に理解する。
そして。
「……なるほど」
小さく笑う。
今度は、ちゃんと笑う。
さっきネリネの前で見せたものとは違う。
自分で選んだ笑い。
「そこを切る気なんだ」
軽い口調。
だが、完全に把握している。
この診察が何を奪うのかを。
白い空間が、さらに静まる。
観測が、処置へ移行する直前。
ネリネの炎と、アスモデウスの白。
それぞれ別の場所で、同じことが起きている。
分からないものを、“なかったことにされる”直前。
アスモデウスは動かない。
ただ、前の自分を見ている。
そして、わずかに呟く。
「――それ、ボクじゃないよ」
ネリネが「私のだから」と言った、その続きのように。
同じ選択。
名前がなくても。
理由がなくても。
それでも残すという意思。
否定が、初めて生まれる。
ここから、“選択”が始まる。
元の自分に戻すことはできる。
混ざる前の形に整えることもできる。
けれど。
そこに“今の自分”は含まれない。
同じように見えても、同じではない。
だから否定する。
それは正しくても、
それだけでは足りないから。
選び直したものは、もう別のものになる。
それでも残すなら、
それが今の形になる。




