『残留と誤認』
それが自分のものかどうか。
確かめる方法は、いくつもある。
記録。
因果。
発生源。
どこから来たのかを辿れば、
正しく分類できる。
それは正しい。
けれど。
どこから来たのかよりも、
今ここにあることの方が重いものもある。
それを誤りだと切り捨てるか。
それでも残すと選ぶか。
診察は、その境界をなぞる。
ネリネの周囲の炎が、さらに広がる。
森が深くなる。
手が、もう一度だけ揺れる。
今度は、ほんのわずかに近い。
診察は、次の段階へ移る。
白い空間の中で、燃える森だけが色を持っていた。
赤。
黒。
焦げた土の色。
名前のない手の白さ。
ネリネは膝をついたまま、それを見ている。
見たくない。
でも、目を逸らせない。
その前に、アスモデウスが出た。
歩幅はいつも通り軽い。
けれど、足音に遊びがない。
彼はネリネとアガリアレプトの間へ、自然に割り込む。
「それ以上、触らないでくれる?」
声は静かだった。
軽さは残っている。
けれど、逃がすための軽さではない。
そこに立つための声。
アガリアレプトが視線を向ける。
初めて、対象がネリネから移る。
「あなたも不安定です」
一拍。
「他者の感情を、自己の感情と誤認している」
その言葉で、アスモデウスの表情が止まった。
笑みが消えたのではない。
どの顔を使えばいいのか、一瞬だけ決まらなくなった。
沈黙が落ちる。
ネリネの周囲で揺れていた切片が、わずかに変質する。
炎の中に、別の像が混ざった。
血。
焼ける森。
誰かを庇う影。
アスモデウスの視線が、そこへ向く。
「……誤認?」
低い声。
アガリアレプトは即答する。
「はい。観測記録と現在反応に齟齬があります」
一拍。
「あなたは本来、その感情を所有していません」
さらに一拍。
「発生源は別個体です」
ネリネの視線が揺れる。
アスモデウスを見る。
さっき見た手と、今目の前にいる彼が重なりかける。
でも、重ならない。
似ている。
違う。
分からない。
アスモデウスが息を吐いた。
「……ああ、なるほど」
笑おうとする。
けれど、形にならない。
「それ、ボクも思ってたよ」
軽口のようで、違う。
ただの確認だった。
アガリアレプトは続ける。
「長期的混線により、自己認識が歪んでいます」
「他者由来の感情を、自身の意思と誤認」
「除去が適切です」
杖が、アスモデウスへ向く。
ネリネの周囲にあった切片の一部が移動する。
今度は、彼の背後へ。
燃える森。
逃げる影。
差し出された手。
今度は、受け取る側の視点。
アスモデウスの目が細くなる。
「……それ、触るなって言ったよね」
声が少し低くなる。
まだ抑えている。
でも、さっきより明確に冷たい。
クチナシが一歩だけ出る。
けれど、止まる。
今は割り込まない。
ヘルハウンドも動かない。
ただ見ている。
ナベリウスはスコップの柄を握ったまま、嫌そうに歯を食いしばっている。
「……胸糞悪ぃ診察だな」
ヴァレフォルのランタンが、小さく揺れる。
「……こ、これ……切ったら、だめ……」
小さな声。
「だめ、なもの……」
ムルムルは天井近くで止まっていた。
笑っていない。
片目のボタンだけが、ゆっくり揺れる。
「……声が薄くなってるねぇ」
誰に向けたのでもない声。
「切ろうとしてる」
アガリアレプトは止まらない。
「該当感情は、発生源と共に消失済みです」
一拍。
「現在の保持は、誤作動です」
言い切る。
アスモデウスの指先がわずかに動く。
掴もうとする。
けれど、対象がない。
「……消えた、ね」
一拍。
「じゃあ、今ここにあるのは何?」
問いではない。
それでも、アガリアレプトは答える。
「残留データです」
「不要な再生。削除対象」
杖が振られる。
背後の切片が収束する。
形を失い、感情の塊だけが残る。
理由のない執着。
説明できない選択。
離れられなかった時間。
選び続けてしまった千年。
アスモデウスの呼吸が、わずかに乱れる。
ネリネは、それを見る。
自分と同じだと思った。
分からないものがある。
説明できないものがある。
なのに、消されたくないものがある。
アスモデウスが顔を上げる。
「……それでもさ」
軽く言うように。
けれど、逃げない。
「触らせる理由にはならないよ」
拒絶。
アガリアレプトが、わずかに首を傾ける。
「非合理です」
アスモデウスは笑わない。
「知ってる」
一拍。
「でも、それでいい」
その言葉で、空間がわずかに揺れた。
処置が完全には通らない。
ネリネの切片も。
アスモデウスの切片も。
削り切れずに残る。
アガリアレプトの黒い瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「同種反応を確認」
一拍。
「原因不明の保持意志。複数発生」
ムルムルが、そこでようやく小さく笑った。
「ケケケ」
でも、いつもの軽さではない。
「名前がなくても、しつこいねぇ」
ネリネは、アスモデウスの背中を見る。
いつもより近い。
なのに、遠い。
彼が何を隠しているのか。
まだ分からない。
でも。
今、彼が自分の前に立っていることだけは分かる。
「……アスモデウス」
呼ぶ。
アスモデウスは振り返らない。
ただ、少しだけ肩を動かす。
「大丈夫」
軽く言おうとした声。
でも、少しだけ失敗している。
「たぶんね」
ネリネは眉を寄せる。
「たぶんじゃ困るのよ」
「厳しいなぁ」
ようやく、少しだけいつもの調子が戻る。
けれど、その声の奥にはまだ揺れが残っている。
アガリアレプトが杖を下ろす。
切片は消えない。
炎も。
森も。
手も。
そして、アスモデウスの背後に浮かぶ、誰かを守ろうとした影も。
「検査続行」
静かな声。
「感情由来の混線を、個別に分離します」
白い空間が、さらに静かになる。
椅子の配置が変わる。
壁のカルテが一斉に揺れる。
名前のない記録が、音もなく開いていく。
ナベリウスが低く吐く。
「……次、来るぞ」
ヴァレフォルがランタンを抱え直す。
「……見えたもの、全部……持っていかれそう……」
クチナシは槍斧を握る。
ヘルハウンドは前を見る。
アスモデウスは、ネリネの前から退かない。
ネリネも、もう下がらない。
理由はない。
説明もできない。
それでも、手放さない。
その選択だけが、白い診察室に消えずに残っていた。
消えたものは、消えたままのはずだった。
原因も、名前も、形も、
すべて過去に置いてきたはずのもの。
それでも。
今ここに残っているなら、
それはもう無関係とは言い切れない。
正しい形に戻すことはできる。
混ざったものを切り分けることもできる。
でも。
それを望むかどうかは、別の話になる。
触らせないと決めた瞬間、
それはもう誤作動ではなくなる。
理由がなくても、
説明できなくても、
選んでしまったものは、残る。
診察は続く。
今度は、混ざったものを
一つずつ剥がすために。




