「笑われたのではなく」
外には、まだ知らない顔があった。
昼の光は、少しだけ強かった。
教会の外。
石の壁に沿って、短い影が落ちている。
空は高く、雲は薄い。
風が、ゆっくりと通り過ぎていく。
クチナシは、その中に立っていた。
教会の扉のそば。
外に出ている。
けれど、完全には離れていない。
一歩下がれば、すぐに中へ戻れる場所。
それが分かる位置だった。
手には何も持っていない。
ただ、そこにいる。
目だけが、少しだけ動く。
遠くを見る。
通りの向こう。
人が歩いている。
声がする。
誰かが話している。
誰かが笑っている。
クチナシは、それを見ていた。
ただ、見ている。
近づかない。
離れない。
その距離のまま。
「……」
誰も、クチナシを見ない。
それが普通だった。
見ないか。
あるいは、見たとしても、すぐに逸らす。
そのどちらか。
だから、それでいい。
その方が分かる。
その方が、間違わない。
その時だった。
「こんにちは」
声がした。
近くで。
クチナシの身体が、ぴたりと止まる。
ゆっくりと顔を向ける。
すぐそばに、子どもが立っていた。
自分と同じくらいの背丈。
少しだけ丸い顔。
知らない顔。
でも――
笑っている。
クチナシは、その顔を見る。
動かない。
「……」
何も言えない。
子どもは、少し首を傾げる。
「ここ、ひとり?」
もう一度、声をかける。
普通の声だった。
怒っていない。
怖くもない。
値踏みするようでもない。
けれど、クチナシには分からない。
なぜ話しかけられているのか。
何を言えばいいのか。
身体が、固まる。
目だけが動く。
子どもを見る。
それから、少しだけ周囲を見る。
逃げ道を探すみたいに。
でも、動かない。
子どもは、少しだけ困ったように笑う。
それでも、離れない。
「名前、なんていうの」
クチナシの喉が、わずかに動く。
言葉はある。
知っている。
何度も紙に書いた。
神父と一緒に、何度もなぞった。
でも、出てこない。
「……」
口が少しだけ開く。
閉じる。
また開く。
声にならない。
子どもは、それを見ている。
待っている。
急かさない。
クチナシは、その視線を受ける。
逃げたい。
でも、足が動かない。
やっと、声が出る。
「……クチナシ」
小さい。
ほとんど消えそうな声だった。
子どもは、それを聞く。
少しだけ目を見開いて――
それから、笑った。
「へえ。クチナシっていうんだ」
そのまま、頷く。
「きれいな名前だね」
クチナシは、止まる。
言葉の意味が、すぐには分からない。
でも、“違う”のは分かる。
今まで聞いてきたものと。
向けられてきた言葉と。
呼ばれてきた声と。
何かが、まるで違っていた。
「……」
返せない。
どう返せばいいのか分からない。
子どもは、少しだけ間を置いてから言う。
「ぼくは――」
自分の名前を言う。
クチナシは、それを聞く。
覚えようとはしない。
まだ、そこまで届かない。
ただ、音として聞く。
やわらかく、短く残る音。
「またね」
子どもは、そう言って手を振る。
そのまま、歩いていく。
振り返らない。
特別なことをした顔でもなく、普通に。
ただ普通に、去っていく。
クチナシは、その背中を見ていた。
ずっと。
見えなくなるまで。
動かない。
「……」
何も分からない。
何が起きたのか。
なぜ話しかけられたのか。
なぜ笑われたのか。
いや。
違う。
あれは、笑われたのではない。
そのことだけは、なんとなく分かる。
でも、それが何なのかは分からない。
クチナシは、しばらくその場に立っていた。
風が吹く。
石壁の影が、少しだけ揺れる。
それでも、まだ動かない。
やがて、ゆっくりと教会の中へ戻る。
扉を閉める。
外の音が遠くなる。
中は静かだった。
いつもの空気。
冷たすぎず、怒ってもいない空気。
クチナシは、少しだけ歩く。
神父のいる場所へ。
部屋の中。
神父は机に向かっている。
クチナシは、入口で止まる。
少しだけ迷う。
そのまま黙っていてもよかった。
たぶん、言わなくても過ぎていく。
でも、過ぎていかないものが胸の中に残っていた。
それで、言う。
「……神父」
神父が顔を上げる。
「どうしました」
クチナシは、少しだけ言葉を探す。
うまくまとまらない。
何が起きたのか自分でも分かっていないから、言葉にしようとすると余計に崩れる。
それでも、そのまま言う。
「……いまの」
止まる。
神父は待つ。
急かさない。
「……なに」
それだけ。
神父は、しばらくクチナシを見ていた。
外から戻ってきたばかりの、ほんのわずかな違いを見て取るように。
「誰かに、声をかけられましたか」
クチナシは頷く。
「……わらった」
神父は、その言葉を聞く。
少しだけ間を置く。
「嫌でしたか」
クチナシは、すぐには答えない。
考える。
さっきの顔を思い出す。
声を思い出す。
胸の中に残っている、まだ名前のつかないものを探る。
「……ちがう」
小さく言う。
神父は頷く。
「それは」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「笑われたのではなく、笑いかけられたのです」
クチナシは、その言葉を聞く。
理解はしきれない。
けれど、覚える。
「……ちがう」
もう一度、繰り返す。
神父は、静かに続ける。
「お前を、嫌がっていない顔です」
クチナシは、止まる。
その言葉は、初めてだった。
嫌がっていない。
怖がっていない。
避けようとしていない。
そんな顔があるのだと、初めて言葉で教えられる。
「……いやじゃない」
確認するように。
神父は頷く。
「ええ」
短く。
揺れない。
クチナシは、しばらく動かない。
頭の中で、何かがゆっくり動く。
でも、まだ形にはならない。
ただ、残る。
さっきの顔。
声。
言葉。
きれいな名前だね。
その音だけが、少しだけはっきりしている。
クチナシは、何も言わずにその場に立っていた。
神父は、それ以上説明しなかった。
ただ、見ている。
クチナシが、自分でそれを置く場所を見つけるのを待つように。
その日の夜。
クチナシは、寝台の上で目を閉じていた。
眠る前。
少しだけ、思い出す。
昼のこと。
知らない顔。
笑った顔。
「……」
小さく息を吐く。
言葉にはならない。
でも、前とは違う。
全部が同じではない。
見たものすべてが、怖いわけでもない。
向けられるものすべてが、痛いわけでもない。
それだけが、分かる。
しばらくして、礼拝堂の方から小さな灯りが揺れた。
神父が、夜の祈りを始める時間だった。
クチナシは、寝台から降りる。
裸足で廊下に出る。
冷たい床。
小さな灯り。
静かな背中。
神父は、いつもの場所で跪いている。
手を組み、目を閉じている。
クチナシは、その少し後ろに座った。
同じように手を組む。
まだ少しぎこちない。
指の重ね方も、力の抜き方も、うまく分からない。
それでも、形だけは覚えていた。
目を閉じる。
暗くなる。
昼の声が、もう一度浮かぶ。
きれいな名前だね。
その言葉は、胸の奥に残っている。
けれど、同時に。
ほんの少しだけ、別のものもあった。
窓の外。
夜の風が、壁を撫でる。
かすかに、何かが窓辺を掠めたような音がした。
葉かもしれない。
ただの風かもしれない。
クチナシは、目を開けない。
神父も動かない。
音は、すぐに消えた。
何もなかった。
そう思えるほど、静かだった。
クチナシは、もう一度息を吐く。
そして、また目を閉じる。
祈りの意味は、まだ分からない。
けれどその夜、クチナシは、笑いかけられた顔と、自分の名前と、窓の外を掠めた小さな音を、胸の中に並べたまま座っていた。
その日、笑顔は痛くないものになった。




