第99話(閑話) 何も起きない一泊
本宿は、静かだった。
表の宿の騒がしさが嘘みたいに、廊下の足音まで柔らかい。
古い木の床。
低い天井。
灯りは少なく、影が多い。
ルーカスが宿の者と短い確認を済ませた。
声は丁寧で、内容は簡潔。
余計なことを言わせない話し方だ。
「今夜は“何も起きない”前提で動きます」
「起きた場合は――裏口、井戸の脇、あの塀を越えます」
ロウが肩を竦める。
「逃げ道って、ほんと好きだな」
「好きではありません」
ルーカスは即答する。
「必要です」
クラリスは礼を返し、宿の者に微笑む。
白猫の笑顔。
薄いけれど、崩していない。
「お湯を。あと、食事は簡単でいいわ」
宿の者が頷いて去ると、空気が一段だけ軽くなった。
レナートは部屋の隅に立ったまま、窓を見ている。
外の暗さ。
路地の気配。
風の音。
何もないのに、何もないことを確認している。
ロウがその背中に向かって言った。
「先生、窓の外に答えでも落ちてんの?」
レナートは返事をしない。
しないまま、視線だけを戻す。
ロウを見る。
見るだけで止める。
「……出るなよ」
低い声。
命令じゃないのに、命令より重い。
「出ねーって」
ロウはあくび混じりに返す。
「出るなよ」
「ヘイヘイ」
それで終わり。
終わるから、長引かない
長引かないから、生活の一部みたいに馴染む。
◇
湯は、熱すぎた。
神殿の祈り湯みたいな香りはない。
ただの湯。
それが、ありがたい。
ロウが桶を抱えて戻ってきたとき、髪がまだ湿っていた。
滴が首筋を伝う。
顔は、少しだけ幼く見える。
クラリスがふと視線を上げる。
「……眠れそう?」
ロウは肩を竦めた。
「布団がふかふかすぎて、落ち着かねえ」
「贅沢ね」
言いながら、クラリスの声は軽い。
叱らない。
笑って拾うだけ。
ロウが鼻で笑う。
「贅沢、って言うなら、姫の方だろ」
クラリスは“姫”と呼ばれても直さない。
直すと会話が止まる。
今は止めない方がいい、と知っている。
「わたしは慣れてるだけよ」
白猫の笑顔のまま、淡々と返す。
ルーカスが机に紙を置いた。
旅の確認。
出立の時間。
合流の手順。
言葉は少なく、線だけが増える。
ロウがそれを覗き込む。
「なあ、そんなに紙ばっか見て目、死なねえ?」
「死にません」
ルーカスは丁寧に言い切る。
「死ぬのは現場です」
クラリスが小さく息を吐いた。
「言い方」
「事実です」
ロウが笑いそうになって、やめた。
笑うと、場が明るくなりすぎる。
明るくなると、気が緩む。
気が緩むと――レナートの視線が刺さる。
刺さる前に、ロウは匙を動かした。
薄い粥。
温い塩味。
腹に落ちる。
何も起きない飯。
何も起きない湯。
何も起きない夜。
それが、逆に怖い。
怖いのに、安心してしまう。
安心してしまうのが、悔しい。
ロウは粥を飲み込み、ぽつりと言った。
「……変だな」
クラリスが視線だけで拾う。
「何が?」
「何も起きないの」
ルーカスがペンを止めずに答える。
「何も起きないのは、最善です」
ロウがむっとする。
「その最善、つまんねえ」
「つまらないのが、最善です」
同じ言葉なのに、今度は少しだけ柔らかかった。
レナートが、短く言う。
「食え」
「食ってる」
「食え」
「はいはい」
それだけで、ロウはもう一口飲んだ。
◇
灯りを落とした。
影が濃くなる。
音が細くなる。
クラリスは横になりながら、最後に一言だけ置いた。
「明日は神殿ね」
何も起きない夜は、こうして終わった。
終わってしまう。
そして――
何も起きないまま、朝が来る。
だからこそ、次に起きることが“目立つ”。
それを、誰もが知っている。
知っているのに、眠る。
眠って、進むしかない。
神殿へ。




