第98話 出発の刻、同乗者
夜明け前。
公爵邸。
王都はまだ眠っているふりをして、起きている。
石畳の隙間に残った冷え。
門番の足音。
遠くで鳴る鐘の、乾いた一打。
公爵家の馬車が、裏門に並んでいた。
派手さはない。
けれど、公爵家の紋が一つ入るだけで、空気が変わる。
“ここから先は勝手に触るな”という無言の線が引かれる。
ルーカスが先に出て、馬車の順を確認している。
紙束はもう、胸元に収まっていた。
昨夜のまま、整っている。
私はロウを見た。
包帯の上に、靴。
立っている。
立てている。
ただ、顔に出さないだけで――痛いのは分かる。
「大丈夫?」
と聞くと、ロウは即答した。
「平気」
嘘だ。
でも、嘘をついていると分かった上で、止めるほど今は暇じゃない。
私は頷く。
「歩幅を合わせなさい。勝手に前に出ない。置いていかないから」
ロウは一瞬だけ、目を丸くして。
すぐ、そっぽを向いた。
「……知ってる」
可愛げはない。
でも、今のがロウの精一杯だ。
レナートは馬車の横で、手袋をつけ直していた。
黒い手袋。
白い指先が隠れると、いよいよ“貴族の顔”になる。
ただ、視線はいつも通り淡い。
眠そうで、面倒そうで、感情が薄い。
それでも、ロウの足元を一度だけ見た。
確認。
それだけで十分だ。
「乗れ」
短く言って、レナートが先に馬車へ入る。
ロウはその背中を見てから、ついていく。
肩を貸す、でもない。
抱える、でもない。
“自分で歩ける範囲で歩く”。
ロウの意地と、レナートの線引きが、そこで噛み合っている。
私は最後に乗り込もうとして――止まった。
馬車の前方。
新しい馬車が、もう一台、滑り込んできた。
王家の印。
それを隠す気もない。
ルーカスが即座に前へ出る。
「……殿下の護衛?」
御者が答えるより先に、布が揺れた。
降りてきたのは、白いローブ。
朝の薄光でも、目立つ。
目立ちすぎる。
セレスティナだ。
私は内心で舌打ちした。
(お忍びじゃない。これは“見せる”ために来た)
セレスティナは周囲を見回し、私を見つけると、微笑んだ。
柔らかい。
優しい。
祈りのように整った笑顔。
――これが、武器だ。
「クラリス様」
名前を呼ぶだけで、空気が少し甘くなる。
一緒に来た護衛たちの視線が、わずかに浮つく。
私は礼を返す。
丁寧に。
冷たくならない範囲で。
「聖女様。……早い到着ですね」
「殿下の命に従い、同行いたします」
その言い方がもう、“私は王太子の側だ”と宣言している。
ルーカスが一歩だけ前へ出た。
声は低く、柔らかい。
しかし、刃が入っている。
「同行の範囲を確認します。聖女殿は“王家の指揮監督下”としての調整役。現場判断には介入しない。よろしいですね」
セレスティナは瞬きを一度だけして、微笑みを崩さない。
「もちろんです。私はただ、祈りと調整を」
“祈り”。
その単語に、私は呼吸を整えた。
(泣き落としの入口は、いつもここからだ)
その時。
馬車の中から、低い声。
レナートだ。
外に出てこない。
出てこないまま、言う。
「管轄は」
一言だけ。
ルーカスが即座に拾う。
「ロウの件ですね。昨夜の整理通り、公爵家預かり。王家責任。医療監督はあなた」
レナートの返事はない。
ないが、沈黙が“了解”だ。
ロウが馬車の中で、ぼそっと言った。
「……来たな」
誰に言ったのか分からない。
でも、その声が少しだけ硬い。
ロウは、泣き落としの空気を知っている。
身体で覚えている。
私は馬車の段に手をかけたまま、セレスティナを見る。
笑顔の奥。
自信。
“自分が泣けば世界は動く”という確信。
そしてその確信が、こちらの計画を狂わせる。
――だから、狂わせる前に、こちらが導く。
「では」
私は微笑む。
同じ舞台に立つ顔で。
「出発しましょう。聖女様の“調整”が必要になる前に」
セレスティナは嬉しそうに頷いた。
護衛が動き、馬が鳴く。
馬車が軋み、王都の石畳を踏み始める。
ロウは窓の外を見たまま、言った。
「……次、泣くぞ」
小さな声。
冗談みたいに。
でも、冗談じゃない。
私は目を閉じずに、息を吐いた。
(来る。なら、構える)
王都の外へ。
神殿の揉め事へ。
そして――この聖女を、舞台から降ろすために。
⸻
宿場の灯りが見えた時点で、隊列は分かれた。
分かれる、と言っても、距離は取らない。
ただ――“視線”だけをずらす。
一つ目の宿。
街道沿いで、看板が目立つ。
馬車が停まれば、必ず誰かが見る。
「こちらが、おとりですか」
クラリスが、窓の外を見たまま言った。
白猫の笑顔は薄い。
薄いが、崩れてはいない。
ルーカスは頷く。
「はい。ここに“到着”した事実だけを残します」
レナートは返事をしない。
ただ、馬車の揺れに合わせて、指先が一度だけ動いた。
癖だ。
言葉を節約するときに出る癖。
ロウは、黙っている。
黙っているが、窓の映り込みで周囲を見ている。
夜の宿場町。
人の数。
歩幅。
荷の重さ。
――“仕事の匂い”がする者と、“ただの旅人”の匂いが違う。
ルーカスはそれを、あえて言葉にしない。
この少年は、言葉にしなくても拾う。
拾ってしまう。
だからこそ、こちらが先に言葉を整えておく必要がある。
馬車が、おとりの宿の前で止まった。
扉が開く。
乾いた酒の匂いと、炭の匂い。
宿の主が頭を下げた。
「お待ちしておりました」
――準備は整っている。
整いすぎている。
それを“怪しい”と感じるのは簡単だが、疑いだけで殴るのは下策だ。
ルーカスは礼式のまま、丁寧に言った。
「今夜、こちらで休む者は限られます。名簿は簡素で結構です」
宿の主が一瞬、眉を動かした。
「……承知しました」
ルーカスは、そこで初めて目的を置く。
「聖女セレスティナ様の到着は、こちらでお受けします」
その言葉に、クラリスの視線が微かに揺れる。
セレスティナが“どこで”合流したか。
その地点が、後で必ず証拠になる。
セレスティナの武器は、動けることだ。
なら、動ける場所を狭めればいい。
逆に言えば――ここで合流させれば、こちらも“見える”。
ルーカスは声を落とす。
「本命の宿は、路地奥です。看板のない方」
「記録に残す必要のない宿、ですね」
クラリスが小さく息を吐いた。
「ええ。残すのは、“おとりに泊まった”という外形だけです」
レナートが短く言った。
「……ロウは」
一語だけ。
だが、それで足りる。
ルーカスは頷いた。
「本命です。こちらには残しません」
ロウが、そこでようやく口を開いた。
「へー。俺、目立つんだ」
軽い。
軽いが、軽さの裏に、過去の手触りがある。
“目立つ”が、命取りになる場所を知っている口ぶりだ。
レナートが、視線も動かさずに言う。
「黙ってろ」
ロウが肩をすくめる。
「ヘイ」
クラリスは、そのやり取りを拾わない。
拾わないのが正しい。
これは二人の間の、無駄じゃない無駄だ。
◇
おとりの宿の食堂で、短い時間だけ灯りを浴びる。
それが“泊まった”証拠になる。
ルーカスは席に着き、簡単な飲み物だけを頼んだ。
酒は取らない。
取る必要がない。
必要なのは、相手の手順の崩れだ。
崩れれば、記録になる。
扉が開いて、白い影が入ってきた。
柔らかな金髪。
光に当たれば、薄い花弁の色が混ざる。
セレスティナだ。
笑みを崩さない。
崩さないまま、視線だけが周囲を測る。
「まあ。皆さま、こちらに」
甘い声。
その声の甘さが、場を“支配”するための道具だと、ルーカスは知っている。
セレスティナの視線が、クラリスに触れ、すぐに離れた。
――触れたくない。
触れれば、自分が負ける気がする。
その代わりに、狙う場所を探す。
セレスティナの視線が、レナートへ移る。
レナートは微動だにしない。
目も細めない。
微笑まない。
そこに“刺さらない”ことが、セレスティナには腹立たしい。
ルーカスは丁寧に言う。
「聖女様。合流の確認が取れました。これより、明朝出立いたします」
セレスティナが微笑む。
「ええ。神殿のために」
神殿のため。
その言葉を、彼女は盾にする。
盾にするからこそ、行動が自由になる。
だから、盾を“この場”で使わせる。
使わせた盾は、後で折れる。
クラリスが、白猫の笑みをほんの少しだけ戻した。
「助かるわ。聖女様がご一緒なら、神殿も安心でしょうもの」
セレスティナの目が細くなる。
“安心”という単語が、甘い皮を剥ぐ。
安心ではない。
牽制だ。
ルーカスはそこに追撃しない。
今夜は、何も起きない方がいい。
起きない夜は、明日の粗を育てる。
◇
合流の確認だけを終え、隊列は静かに散った。
おとりの宿に残る者。
本命の宿へ引く者。
最後に、ルーカスは振り返り、食堂の灯りを一度だけ見た。
何も起きなかった。
だからこそ、覚えておく。
何も起きない夜は、誰かが“起こせなかった夜”でもある。
起こせなかった理由は、必ずある。
その理由は――明日、神殿で、手順として崩れる。
ルーカスは扉を出た。
路地の暗がりへ。
看板のない宿へ。
そこに、ロウがいる。
そこに、守るべき“余白”がある。
明日のために。




