第97話「出発準備/段取り地獄」
夜。
王都の宿は、外見だけは静かだった。
窓の外では、衛兵の足音が一定の間隔で通り過ぎる。
「監視」じゃないと言い張るには、少し丁寧すぎる巡回だ。
私は机に広げられた紙を見下ろしていた。
紙の山。
封蝋の痕。
そして――ルーカスの筆跡。
きれいすぎて、腹が立つ。
「ここまで準備するの、普通?」
ロウが椅子に座ったまま、紙の端を指で弾いた。
「移動だろ。旅だろ。もっと……こう……適当でいいじゃん」
ルーカスは顔も上げない。
「適当で済むのは、適当な相手と、適当な旅だけです」
「俺は適当だよ」
「あなたは不適当です」
即答。
ロウがむっとした顔をした。
それが悔しそうで、子どもっぽい。
私は咳払いで笑いを誤魔化した。
「ロウ。今のは褒め言葉よ」
「どこが」
「“適当じゃ済まない”って意味だから」
ロウが一拍止まって、ふてくされた。
「……ほめられた気しねえ」
レナートは壁際で、荷の中身を無言で確認していた。
医療鞄。
包帯。
消毒用の薬草と、錠剤の小瓶。
針と糸。
――そして、予備の手袋。
触れるためのものじゃない。
触れないためのもの。
ロウが、その手袋に目を止めた。
でも、口にはしない。
最近、あの子はそういう“止め方”を覚えた。
(いい)
(口にしない優しさも、回復のひとつだ)
ルーカスが紙を一枚、私の前へ滑らせる。
「明日の動きです。まず、王家の通行許可証。次に、神殿側への通知――ただし“同行者”の扱いが穴です」
「穴?」
私が聞き返すと、ルーカスは淡々と頷いた。
「セレスティナを“同行させる”と書きながら、誰が監督するかが明記されていません。護衛の指揮系統も曖昧。宿の手配責任も不明」
ロウが横から覗き込み、鼻で笑った。
「雑だなぁ。王太子」
ルーカスはさらに続ける。
「ですが、雑さは“使えます”。責任が宙に浮く。宙に浮いたものは、こちらで拾える」
私は頷いた。
「拾って、握る。あとで落とす」
ロウが目を細めた。
「悪い顔してる」
「褒め言葉ね」
ロウが肩をすくめた。
「……まあ、先生が殴った時よりはマシ」
レナートの手が一瞬止まった。
空気が、わずかに冷える。
私は即座に話を戻した。
「セレスティナは、別行動にできる?」
ルーカスが紙をめくる。
「可能です。『安全確保のため、神殿側の随行を優先する』――と書けばいい」
「神殿側の随行……つまり?」
「セレスティナ本人が望む形です」
ロウが小さく笑った。
「泣き落としの舞台だもんな」
「そう。本人が“それが正しい”と信じている形に寄せればいい」
私は言った。
「そして、こちらは“同じ目的地”へ行く。合流は――宿屋で起きる」
ルーカスが頷く。
「宿は二つ押さえます。表向きの宿と、逃げ道の宿」
ロウが目を丸くした。
「逃げ道……宿?」
「あなたのためです」
ルーカスはさらっと言い切る。
「あなたは勝手に動くので」
ロウが机を叩きそうになるのを、ぎりぎりで我慢した。
代わりに、椅子を蹴るように揺らす。
「……動かねえし」
「動きます」
「動かねえって言ってんだろ!」
私はそのやり取りを、黙って聞いた。
止めない。
止めると、ロウは“我慢に戻る”。
今は、素が出てる方がいい。
レナートが、低い声で言った。
「動くな」
短い。
刺さる。
ロウが反射で顔を上げる。
「……はい」
すぐに従うところが、また可愛い。
腹が立つほど。
私は机の端を指で叩いた。
「じゃあ決める。明日は――」
ルーカスが続ける。
「朝、王家の通行許可。昼までに出発。セレスティナは“神殿の随行”で別行動。目的地は同じ。合流地点は第二宿」
「第二宿って、逃げ道の方?」
「はい。こちらが主導権を持てます」
ロウがぽつりと言う。
「……先生の診療所、どうなるの」
レナートの動きが止まった。
ほんの一瞬。
「閉めた」
それだけ。
言い訳もしない。
寂しさも見せない。
ロウが何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、いつもの憎まれ口を拾う。
「……医者が患者ほっとくの、良くないだろ」
レナートは答えない。
答えない代わりに、医療鞄の革紐を締め直した。
きつく。
きつく。
私は、それを見て思った。
(この人、もう医者だけじゃいられない)
(本人が一番わかってる)
ルーカスが最後の紙を差し出した。
「これが、明日の“表の書類”です」
私は受け取って、目を通す。
――形式は完璧。
穴だらけの命令書の穴を、こちらの書類で囲っている。
「よし」
私は封蝋を手に取った。
「これで行く」
ロウが立ち上がり、伸びをした。
足はまだ完全じゃないのに、背筋だけは堂々としている。
「じゃ、明日だな」
そして、いつもの調子で笑う。
「次、泣くの、セレスティナだろ?」
ルーカスが冷たく言った。
「泣くのは構いませんが、被害は最小にしてください」
ロウが肩をすくめた。
「りょーかい」
レナートが言った。
「……僕の視界」
ロウが即答した。
「了解」
私は小さく息を吐いた。
準備は整った。
明日は、動く。
そして――神殿へ。
“涙の舞台”へ。
今度こそ、こちらの手で、物語を完成させる。
【一人称】メモ
クラリス…私
ルーカス…私
レナート…僕(医者)・私(貴族)・俺(ブチ切れ)
ローワン…俺
灰の司祭…私




