第96話 控室の小さな勝利
控室は、静かすぎて落ち着かなかった。
壁も椅子も、磨きすぎて“生活”がない。
ここは人を休ませる場所じゃなく、待たせる場所だ。
扉の外から、革靴の音が遠ざかっていく。
さっきまでの緊張が、ようやく解け始めた。
私は息を吐く。
ルーカスが、紙束を揃える音を立てた。
あの音が聞こえるだけで、安心してしまうのは――もう癖だ。
「……で、俺、いつまでここ?」
控えめに言っているつもりらしいが、言葉の端は相変わらず生意気だ。
ロウは椅子の背にもたれ、片足を少し浮かせている。
まだ痛むのだろう。
それでも、痛い顔を“わざわざ”見せない。
「許可が出るまでです」
ルーカスが即答する。
「勝手に出たら、こちらの手続きが崩れます」
「手続きって、ほんと最強だな」
ロウが小さく笑う。
笑い方は子どもで、口の悪さだけが大人みたいだ。
私は視線で叱ろうとして――やめた。
叱るほどのことでもない。
何より、今のロウは“機嫌がいい”。
それが珍しい。
扉が開いて、衛兵が一礼した。
「公爵令嬢殿下、伯爵子息殿、監査官殿」
礼儀は完璧。
視線だけが、ロウで一瞬止まる。
ロウは気づかないふりをした。
気づいていないのではない。
気づいていて、反応しない。
(……スイッチじゃない)
(ただ、覚えたんだ)
「こういう時は黙ってるのが安全」って。
衛兵が淡々と続ける。
「控室の待機は継続。ただし――飲水と軽食の手配は許可が出ました」
ロウの目が、ほんの少しだけ輝いた。
瞬間。
本当に一瞬。
「勝った」
ぽつり。
誰に向けたでもない勝利宣言。
ルーカスが眉を動かす。
「何がです」
「こういう場所って、だいたい飯が遅い」
(そこか)
思わず笑いそうになるのを、私は喉の奥で止めた。
次に入ってきたのは、盆を持った女官だった。
丁寧な所作。
視線は下げたまま。
けれど――ロウの赤い髪のほうへ、吸い寄せられてしまうのがわかる。
見慣れないものを見る目だ。
ロウは、女官の視線に気づいた。
そして、ほんの少しだけ顎を上げた。
挑発じゃない。
“慣れてる”という顔でもない。
ただ――
「見られることに反応しない」顔だ。
女官が動揺して、お茶の器をわずかに鳴らした。
レナートが、静かに一歩前へ出た。
何も言わない。
言わずに、器の位置を直す。
それだけで、場の空気が整う。
ロウが、やや遅れて気づき、目を細めた。
「……先生、今の、助けた?」
レナートは、視線だけを返す。
「落としたら危ない」
「俺のことじゃなくて?」
「器のことだ」
ロウが、ふっと鼻で笑った。
「はいはい。そういうとこ」
その言い方が、やけに軽い。
昔の、無理してた軽口じゃない。
今のは――素だ。
私はその様子を見て、心の中でメモを取る。
(回復が、じわじわ来てる)
(本人だけが、自覚してないやつ)
ルーカスが紙束を抱え直し、こちらへ視線を向けた。
「クラリス様。移動の準備ですが」
「ええ」
私は頷く。
「今日中に整えましょう。明日は、出る」
ロウが顔を上げた。
「出る?」
「出る」
私は言葉を選び、ゆっくり言う。
「――次は、神殿の揉め事よ」
ロウは一拍置いてから、首を傾げた。
可愛い。
腹立つほど、可愛い。
「……それってさ」
「また、泣くやつ?」
ルーカスが淡々と返す。
「泣くやつです」
ロウが、妙に楽しそうに笑った。
「じゃ、次は俺、どこにいればいい?」
レナートの声が、低く落ちた。
「……僕の視界の中」
言った瞬間、レナート自身が“言い過ぎた”と気づいたのがわかった。
空気が一瞬だけ固まる。
ロウは、何も考えずに答えた。
「了解」
そして、当たり前みたいに付け足す。
「先生、治療だけしてろよ」
レナートが、目を細めた。
怒っているのではない。
――堪えている。
私は視線を逸らし、立ち上がった。
これ以上は、和ませすぎる。
次は“出発準備”だ。
「ルーカス」
「はい」
「準備の段取り、今夜のうちに洗い出して」
ルーカスは頷いた。
「承知しました。必要物資、同行者、行程、宿、護衛、文書一式」
ロウが呆れた顔をする。
「うわ、始まった」
その口ぶりが、もう。
“仲間内の文句”だ。
私は扉へ向かいながら、小さく笑った。
(大丈夫)
(この子は、戻ってきてる)
そして次は。
戻ってきた分だけ、守り切らなければならない。
――出発まで、時間がない。




