第92話 口頭は無効
神殿へ向かう準備は、静かだった。
静かなのに、刃物を磨いているみたいな空気。
ルーカスが机の上に紙を並べる。
・却下理由(権限外)
・追加指示(同じ権限者)
・整合性確認(宰相府提出用)
・同行者名簿(医療監督/随行/参考人の区分)
紙が揃うたび、王宮の空気が一枚ずつ“動けなくなる”。
レナートはいつもの礼式のまま、腕を組んで立っていた。
表情は薄い。
でも、目の奥が冷えている。
ロウは椅子に座ったまま、足をぶらぶら――はさすがにできないので、膝の上で指をいじっている。
余裕がある。
というより。
「……これさ」
ロウが小声で言った。
「殿下、文書で自爆してんの、ウケる」
私は口元を押さえた。
笑うと、場が崩れる。
崩すのは“向こう”でいい。
ルーカスがロウを一瞥する。
「声量を落としてください。ここ、王宮です」
「はーい」
返事だけは素直。
素直なのがまた腹立つやつ。
レナートの視線がロウに落ちる。
ロウは、何でもないように肩をすくめた。
……その瞬間。
ロウの目が、ふっと別の角度に動いた。
廊下の曲がり角。
足音。
布の擦れる音。
そして――香。
甘い香が、わずかに混じった。
私は眉を動かす。
来る。
レナートも気づいた。
ルーカスは紙束を一枚、裏返した。
ロウは、口角を上げた。
その顔が、ちょっとだけ悪い。
「……なあ、クラリス」
「なに」
「今、俺、歩けないことにしよっか」
私は瞬きした。
「は?」
「痛い。めっちゃ痛い。もうダメ。世界が終わる」
大袈裟。
でも、ロウの視線は廊下に固定されている。
レナートが、低く言った。
「ロウ」
「分かってる分かってる。先生、触んなよ。俺がやる」
――やる?
次の瞬間、扉が開いた。
侍女が二人。
その奥に、白い衣が見える。
セレスティナ。
目が合う前から分かる。
“舞台に立つ顔”だ。
セレスティナは優雅に一礼し、柔らかく微笑んだ。
「クラリス様。お呼びが――」
その言葉の途中で。
ロウが、椅子からずるりと滑り落ちた。
「い゛たたたたたた……っ」
床に片膝。
手をついて、肩で息をする。
痛い演技のわりに、落ち方が妙に上手い。
私は反射で立ちかけたが、ルーカスが目だけで止めた。
セレスティナが一瞬、固まる。
侍女が慌てる。
「きゃっ……! だ、大丈夫ですか!?」
ロウは顔を上げた。
目は潤んでいる――ように見える。
けど、声は妙に明るい。
「だいじょばない。無理。歩けない。俺、平民だし、そもそもここ、場違いだし……」
私は心の中で拍手した。
今のは、演技じゃない。
“正論の刃”だ。
セレスティナは、ロウを見下ろし――次に、レナートを見た。
そこに、わずかな苛立ちが混じる。
(あ。効いてる)
レナートは顔色一つ変えない。
礼式のまま。
そして、言葉だけが静かに落ちた。
「医療監督として申し上げます」
「この少年は、まだ完治していません」
「神殿への同行が必要だと言うなら、移動手段と安全確保の責任者を、文書で明示してください」
セレスティナが、ふわりと笑った。
「そんな、文書だなんて……」
やっぱり来た。
口頭で丸める気だ。
セレスティナは慈愛の声で言う。
「神殿が責任を持って――」
ルーカスが、すぐに被せた。
丁寧に、にこやかに。
「恐れ入ります。口頭は無効です」
「先ほど王宮より“却下理由”が文書で返っておりますので、こちらも文書で揃えないと整合性が取れません」
侍女の片方が息を呑んだ。
セレスティナの笑みが、一瞬だけ硬くなる。
私は穏やかに続ける。
「神殿が責任を持つ、というなら――責任者の名も。管轄も。範囲も。移動中の事故対応も」
「全部、書面で」
ロウが床で、手をひらひらさせた。
「あと、痛み止め。効かねえやつじゃなくて、ちゃんと効くやつ」
(お前、今それ言うんだ)
でも可愛い。
絶妙に腹立つ可愛さ。
セレスティナが、ゆっくりと呼吸した。
そして、慈愛を装った声で言った。
「……分かりました。では、神殿で用意します」
ルーカスが即答する。
「神殿で“用意する”は、今ではありません」
「ここで文書を出せないなら、同行はできません」
一拍。
セレスティナの視線が、レナートへ向く。
「あなたが、彼を抱えて連れて行けば――」
ロウの目が、きらりと光った。
(あ、来た)
レナートのまつ毛が、ほんの僅かに動く。
感情の波が出たのは、それだけ。
声は礼儀正しいまま、冷えた。
「恐れながら」
「医療行為に必要な接触以外は、いたしません」
セレスティナの笑みが、ひび割れた。
私は内心で思う。
(ここ、刺さった)
ロウが、床の上でニヤッとした。
――演技の“痛い”が、いま一番楽しそうだ。
ルーカスが、最後の釘を打つ。
「では、神殿の正式文書をお待ちします」
「出ない場合は、宰相府へ整合性確認の提出を進めます」
セレスティナの指先が、わずかに震えた。
王宮で、神殿が“文書を出せない”と示したら。
その瞬間から。
神殿の言葉は、“舞台の台詞”に落ちる。
ロウが、よいしょ、と立ち上がった。
さっきまでの痛みが嘘みたいに、すっと。
でも立ち上がった瞬間、思い出したように「いたっ」と小さく言う。
――最後の一押し。
可愛さの残弾。
レナートは見ていないふりをして、視線だけでロウの足を確認した。
犬が飼い主を振り向くみたいな、あの一瞬。
ロウは気づいて、ちょっとだけ胸を張った。
「ほら。歩ける。……たぶん」
私は笑いそうになった。
この子、余裕が出てきた。
余裕が出ると、戦える。
そして――戦える子ほど、守らなきゃいけない。
扉の外で、侍女が息を詰めたまま固まっている。
セレスティナは、笑顔を貼り付け直した。
「……では、文書を用意します」
そう言って去る背中が、少しだけ速かった。
ルーカスが、紙束を揃え直す。
「神殿は、口頭で押し切れないと分かりましたね」
私は頷く。
「次は、泣くわ」
ロウがぽそっと言った。
「泣けば勝てると思ってんだろ」
レナートが、静かに言う。
「勝たせない」
その声だけで、空気が締まった。
――次は神殿。
舞台の中心で、涙が落ちる。
でも今度は。
落ちた涙を、燃料にさせない。




