第87話 穴だらけの“命令”
王都の空気は、冬の刃みたいに澄んでいた。
静かで、冷たくて、触れれば血が出る。
王宮の回廊はいつも通り豪奢なのに、今日は妙に息が詰まる。
呼ばれたのは、殿下――レオンハルトの執務室。
「公務」としての対面。
だから、礼儀は外せない。
扉の前で、私は深く息を吸った。
次に息を吐く時、私は公爵令嬢で、婚約者で、そして――噂の火を消す側だ。
扉が開く。
室内は明るいのに、光が硬い。
窓の外は白く、机の上は紙の山。
そして中心に、殿下がいた。
白を基調にした衣装が、王家の“正しさ”を誇るように整っている。
顔は美しい。
――だから余計に、冷たさが目立つ。
私は礼式を取った。
「殿下。公爵家嫡女、クラリス・フォン・アルヴェーン。ご挨拶申し上げます」
隣で、ルーカスも礼式を取る。
背筋が一本の線みたいにまっすぐだ。
「殿下。お呼びにより参上いたしました」
殿下は、頷いただけだった。
挨拶を返すというより、確認するように。
「座れ」
命令は短い。
それがこの部屋の“格”だった。
席につく。
机の向こうの殿下が、紙束を一つ持ち上げた。
薄い封蝋が割られた跡。
――指示書。
さっきまで「非公式」だったものが、ここで「公式の形」に変わる。
私は、その紙が怖いというより。
紙が、誰かを殺す道具になるのが怖い。
殿下が言う。
「婚約者として命じる」
言葉の選び方が、雑だった。
婚約者で命じる?
王太子として命じるなら、手続きが要る。
婚約者として命じるなら、命令ではない。
――穴だ。
私は礼式のまま、丁寧に返す。
「恐れながら。婚約者としてのお願いと、王太子としての命令では、必要な裁可と責任の所在が異なります」
殿下の眉が一瞬だけ動いた。
苛立ちの端。
ルーカスが、続ける。
同じく礼式のまま。
声は落ち着いていて、感情がない。
――書類の声だ。
「殿下。本件の指示書を拝見しました。運用上、いくつか確認を」
殿下が顎で促す。
「言え」
ルーカスは紙を一枚取り、指先で整えた。
それだけで“これは武器です”と言っているように見える。
「まず、指揮系統です。責任が複数に分散しています」
一拍。
「王家の指揮監督下、と記されている一方で、神殿側への移行伝達と調整も記載がある。さらに、現場判断に委ねる条項が複数」
殿下は冷笑した。
「柔軟性だ」
ルーカスは首を振らない。
ただ、淡々と言葉を重ねる。
「柔軟性は、責任が確定している場合にのみ機能します。責任が確定していない柔軟性は、逸脱の逃げ道になります」
机の上の空気が、少し固まった。
私は、内心で笑いそうになった。
(ルーカス、相変わらず容赦がない)
でも、いま必要なのはそれだ。
情ではなく、構造。
殿下が紙を机に置いた。
音が大きい。
「結論は?」
ルーカスは視線を上げた。
礼儀は崩さない。
けれど、言葉はまっすぐ刺す。
「結論は、これは“命令”の形をした誘導です」
一瞬、室内が無音になった。
私の呼吸まで目立つ。
殿下の目が細くなる。
「誘導?」
ルーカスは頷く。
「揉める箇所を残し、揉めた責任を現場に落とす。動いた者だけが罰を負う。上位は『知らなかった』と言える」
殿下の指が、机の上で一度だけ動いた。
爪が紙に触れる。
私は、ここで一歩だけ足す。
丁寧に。
しかし、逃げ道を塞ぐように。
「そして、殿下。婚約についても同様です」
殿下の視線が、私に刺さる。
私は礼式のまま続ける。
「殿下は、断罪の場で“婚約破棄を言い渡すつもり”だったのでしょう」
一拍。
「ですが、宣言は成立していません。王の裁可も下りていません。従って――婚約は継続しています」
殿下の手が、紙を乱暴に掴んだ。
さっきの紙。
ぐしゃ、と音がしそうなほど強く。
私は目を逸らさない。
「継続している以上、私は“婚約者として”助言できます」
言葉の刃を、礼儀の鞘に納めたまま。
「殿下が本当に命令を出すのであれば、命令として整えてください。責任も手続きも、明文化して」
殿下の沈黙。
怒りが喉まで来ているのに、飲み込んでいる顔。
王太子の顔のまま、感情だけが浮いている。
その時。
室内の隅――存在感が薄い場所から、声がした。
低くて、眠そうで、少しだけ楽しげな声。
灰の司祭だ。
彼はいつの間にいたのか分からない。
黒いローブの奥、見えるのは目元だけ。
がっつりとした隈。
青白い皮膚。
――脳で生きている顔。
灰の司祭は、礼式も取らずに言った。
「穴ではなく、誘導口ですね」
殿下の視線が跳ねる。
「……誰の許可で入った」
灰の司祭は、肩をすくめる気配だけ見せた。
「許可の紙は、殿下の机のどこかにありますよ。たぶん。読んでいれば」
殿下のこめかみが、わずかに動いた。
灰の司祭は続ける。
「穴だらけに見せて、突っ込ませて、暴れさせて。燃えやすいところに火が移る」
一拍。
「そして燃えた後に、“誰の責任か”を問う」
室内の空気が、さらに冷えた。
ルーカスが目を伏せる。
(言い過ぎだろう)とでも言いたげに。
でも、止めない。
止めたら負けだと分かっている。
殿下が低い声で言う。
「黙れ」
灰の司祭は、あっさり黙った。
その沈黙が、むしろ不気味だった。
いつでもまた刺せる沈黙。
私は、ここで話を戻す。
殿下に“逃げ道”を残さず、しかし公務として整えるために。
「殿下。確認です」
殿下が睨む。
私は礼儀を崩さない。
「この指示書は、命令として執行されるのですか。それとも、婚約者への“要請”として扱われるのですか」
殿下は答えない。
答えた瞬間、責任が確定するからだ。
代わりに、殿下が紙束を持ち上げた。
机の上から、別の紙を引き抜く。
封蝋はない。
つまり、今この場で作れる。
今この場で“形”にできる。
殿下の声が落ちる。
「……運用に回せ」
それだけ。
命令の形を作らずに、命令を通す。
――やっぱり穴だらけだ。
ルーカスが、礼式のまま静かに言う。
「承知しました。では、運用上の確認を正式に文書で上げます」
殿下が苛立ちを隠さず言う。
「好きにしろ」
私は、心の中で火種を数えた。
この男は、計算しているつもりだ。
穴だらけを“設計”と呼ぶつもりだ。
でも。
“運用”は紙で殴る。
そして紙は、ときどき――くだらないところで全部をひっくり返す。
机の上の紙束が、王都の朝に向かって動き出した。
誰の責任かを決めないまま。
誰かの首を落とすために。
私は、笑わない。
ただ、次の手を考える。
(来なさい。穴の向こうから)
(今度は、こちらが“落とす”)




