第85話 婚約者として――命令は、書面で
王太子執務室は、静かに整いすぎていた。
香も、光も、沈黙も。
“場”そのものが、王宮の言葉でできている。
私は礼式のまま立つ。
お父様も、ルーカスも。
レナートもまた、貴族として崩れない。
殿下――レオンハルトは、机の前に立ったまま言った。
「婚約は存続している」
確認ではない。
宣告でもない。
“前提”として置く言い方だった。
「ならば、婚約者としての務めを果たせ」
「神殿の揉め事を片付けてこい」
「王家の面目に泥を塗るな」
来た。
ここからが本題。
婚約が続いているから、従え。
従わないなら、婚約者として失格だ。
――そういう形の首輪。
私は、笑わない。
怒らない。
ただ、礼式のまま首を少し傾けた。
「承りました、殿下」
「“婚約者として”動くのであれば、確認がございます」
殿下の眉がわずかに動く。
私の確認が、ただの質問で終わらないことを知っている。
私は続けた。
「本件は、王家の命令としての公務でしょうか理解されますか」
「それとも、殿下の私命でしょうか」
私命なら、従う必要はない。
公務なら、手続きが必要になる。
――どちらに転んでも、殿下の好きにはさせない。
殿下の口元が歪んだ。
「……公務だ」
「王家の命令として動け」
よし。
“書面”に落ちる。
ルーカスが、半歩前へ出た。
礼式は崩さない。
けれど、言葉は迷いがない。
「承知いたしました、殿下」
「では、命令の範囲と責任の所在を明記した指示書を頂戴いたします」
「対象は“教会案件の調整”」
「権限は“王家名義の交渉”」
「そして、万一の妨害・危険行為に対する保全措置――」
一拍。
「王家の監督責任を、書面で確認いたします」
殿下の視線が鋭くなる。
だが、ルーカスは一歩も引かない。
“公務”と言った以上、書面を拒めば矛盾になる。
その瞬間。
セレスティナが、息を吸った。
泣く気配が立ち上がる。
けれど殿下は泣かせない。
今日は泣きが目的ではない。
殿下は、別の刃を出した。
「同行者を指定する」
「聖女セレスティナを連れて行け」
それは命令であり、罠だった。
“泣きの舞台”を、移動先に持ち込む。
あなたの隣に置けば、何が起きてもクラリスのせいにできる。
私は、内心で息を吐いた。
(来た。ここか)
私は礼式のまま、淡々と返す。
「殿下」
「公務として同行者を指定されるのであれば」
「同行者の役割と責任も、同じく書面におまとめください」
セレスティナが一瞬だけ瞬きを止めた。
“役割と責任”。
泣くために同行するなら、その理由を言えと言っている。
私は続ける。
「聖女様は、神殿の代表として同行されますか」
「王家の随行として同行されますか」
「あるいは、ただの“同席”でしょうか」
ただの同席なら、責任は曖昧になる。
曖昧な責任は、矛先が一番弱いところへ飛ぶ。
つまり、私へ。
だから私は、曖昧を許さない。
殿下の指が、机の縁を叩いた。
一度。
二度。
苛立ちの音。
その壁際で。
灰の司祭が、袖の中で小さく首を傾けた。
目の下の濃い隈が、笑ったように見える。
「……公務は“舞台”ではなく、“手続き”です」
ぽつり。
それだけ。
でも、その一言が場の空気を決めた。
殿下が、紙に手を伸ばす。
乱暴ではない。
だが、速い。
「……分かった」
「書面は出す」
「王家命令としての指示書をな」
ルーカスが、深く礼をする。
「恐れ入ります」
私は、同じく礼式のまま頭を下げた。
「承りました、殿下」
「では――婚約者として」
「王家の命令を、記録の形で受領いたします」
殿下の目が細くなる。
私は微笑まない。
勝ち誇らない。
ただ、逃げ道を全部塞いで、受け取るだけ。
婚約は、首輪にもなる。
けれど――
書面になった瞬間、それは“鎖”にもなる。
次は、神殿側がどう動くか。
そして、セレスティナがその鎖をどうすり抜けようとするか。
私たちの戦いは、そこからだ。




