第84話 涙の刃
控室の扉は、開かない。
開けない。
開けさせない。
それが“保護”であり、“隔離”であり――王太子の作った檻だった。
廊下に漂う香が、甘い。
甘いのに、喉の奥がひりつく。
泣く前の香りだ。
「……ロウくん」
セレスティナの声は柔らかい。
柔らかいまま、距離だけ詰めてくる。
「怖かったでしょう?」
「痛かったでしょう?」
「ねえ……あなた、かわいそう」
ロウは椅子にもたれたまま、目だけを動かした。
扉の隙間から、白い布の影が揺れる。
彼女は控室に入れない。
入らせない。
けれど声は入る。
声だけなら、入れる。
(これ、狙ってんな)
ロウは、そう思った瞬間に。
感情が薄れていくのを感じた。
身体のどこかが、冷える。
視界が、狭くなる。
音が、整理される。
スイッチ。
情報のためのスイッチ。
セレスティナは続ける。
「殿下はね、あなたを助けようとしているの」
「王家の監督下なら、もう誰もあなたを傷つけられない」
「だから……素直に、言えばいいのよ」
「誰があなたを利用したのか」
「誰があなたを煽ったのか」
「――誰が、殿下に不敬を働いたのか」
そこまで言って。
彼女は、ほんの少し泣き声の予告を混ぜた。
声の震え。
息の乱れ。
涙が出る直前の、あの“間”。
ロウは、思った。
(あ、これ泣くな)
扉の外で、セレスティナの声が落ちる。
「私、怖いの」
「あなたが……悪い人たちに囲われて」
「殿下が傷つくのが……耐えられない」
――殿下が。
――殿下が。
――殿下が。
主語が、ずっと王太子だ。
ロウは、口の端で小さく息を吐いた。
(俺の心配じゃねえんだな)
その瞬間。
廊下の気配が変わった。
空気が一度、ぴたりと止まる。
クラリスだ。
扉の向こう側に、彼女が立った。
そして、声だけで礼儀を作る。
「聖女セレスティナ様」
「恐れながら、ここは公爵家の控室でございます」
セレスティナが、すぐに反応する。
「控室……?」
「でも、ロウくんは平民でしょう?」
「公爵家の控室に平民がいるなんて、おかしいわ」
クラリスは、あっさり言う。
「おかしいのは、王太子殿下の采配です」
「私どもは、殿下の指示に従い――“待機”しているだけ」
セレスティナの息が、一瞬詰まった。
言い返す材料が、まだ足りない。
だから彼女は、“涙”を使う。
「……違う」
「違うのよ」
「殿下は……正しいの」
「殿下はこの国を守っている」
「私は……ただ、みんなが怖いだけ」
声が震える。
涙が落ちる音はないのに、
“落ちたことにされる”音がする。
聞く側の胸を、勝手に締め付ける種類の演出。
ロウは、胸の奥が少しだけムズムズするのを感じた。
嫌な感覚。
理由のない罪悪感みたいなもの。
(……これが、強制力か)
ロウは自分の指先を見た。
握りしめようとしていないのに、少し硬くなっている。
身体が勝手に反応する。
そのとき。
別の足音。
革靴が、落ち着いた間隔で近づいてくる。
周囲の気配が一段、整った。
誰かが“主導権”を持っている音だ。
ルーカス。
そして――空気の端に、もう一人。
布が擦れる。
ローブ。
目元だけが覗く。
くまが濃い。
寝不足の色。
生き物というより、脳で動く影。
灰の司祭。
灰の司祭は、低い声で言った。
「泣くには、場所が違いますね」
セレスティナが、すぐに噛みつく。
「……あなたは」
「誰?」
灰の司祭は、少し考えるように間を置いた。
そして、淡々と。
「ただの司祭です」
「ただの“書類係”でもあります」
「……そして今日は、面倒を見る係です」
セレスティナの涙が、止まりかける。
“ただの司祭”の割に、言葉が刺さるから。
ルーカスが、静かに補足した。
「聖女様」
「控室の者に直接接触することは、手続き上、認められておりません」
「ここは公務の場ではない」
「――ですから、なおさら」
セレスティナの声が、少し高くなる。
「でも、私は聖女よ?」
「私は“祝福”を与える役目がある」
「心配して、声を掛けるのが悪いの?」
クラリスが、そこで初めて温度を落とした。
「祝福は、契約です」
「善意ではなく、条文です」
「善意の顔をした条文は、ただの刃になります」
セレスティナは、言葉に詰まった。
そして、次の手を出す。
「ロウくん」
「ねえ、聞いて」
「あなた、怖かったよね」
「公爵令嬢に利用されて、怖かったよね」
矛先を、クラリスに向けた。
泣き落としの燃料が欲しい。
物語を燃やしたい。
“かわいそうな私”のための敵が必要だ。
ロウの中で、スイッチが完全に固定された。
感情が薄い。
薄いまま、答えだけを探す。
(ここで俺が何か言ったら)
(切り取られる)
(燃料になる)
(先生も、クラリスも、切られる)
ロウは、口を開かない。
代わりに、呼吸を一つ落として。
視線だけを、扉の外に向けた。
セレスティナは、さらに詰める。
「……言えないの?」
「言えないなら、私が代わりに――」
そこで。
ルーカスが、柔らかく、しかし逃げ道のない声で言った。
「聖女様」
「“代わりに言う”は、証言ではありません」
「証言は本人のものです」
「そして本人は、いま“王家の監督下の参考人”」
「聖女様が触れてよい立場ではない」
セレスティナが、震える。
怒りと屈辱と、焦り。
「……殿下に言うわ」
「あなたたちが、私を侮辱したって」
灰の司祭が、ぽつりと言った。
「どうぞ」
「ただし」
「公式訪問の記録がない以上」
「“侮辱された公務”も存在しません」
セレスティナの息が止まった。
クラリスが、最後に畳み掛ける。
「聖女様」
「あなたが今したいのは、救済ですか?」
「それとも、舞台作りですか?」
沈黙。
廊下の空気が、ぐらりと揺れる。
セレスティナは、泣く。
泣いて、泣いて――泣きながら、言った。
「私は……正しいの……」
「私は、ただ……みんなを救いたいだけ……」
その瞬間。
ロウの胸のムズムズが、少しだけ強くなった。
だが。
灰の司祭が、低い声で結論を出す。
「救いたいなら」
「ここでは泣かないことです」
「涙は、救済じゃない」
「――支配です」
セレスティナの泣き声が、ぴたりと止まった。
そして。
廊下の奥から、別の足音が近づく。
短い。
軍靴に近い。
誰かが急ぎ足で来る。
「殿下より通達!」
衛兵の声が響いた。
「聖女セレスティナ様を、直ちに王太子殿下の元へ――」
ルーカスが、即座に動いた。
「通達文を」
「書面で」
衛兵が詰まる。
「……口頭です」
灰の司祭が、静かに笑った気配がした。
笑いはない。
ただ面白がっているだけの呼吸。
「口頭は、記録に残りません」
「便利ですね」
衛兵が焦る。
「殿下のご命令です!」
クラリスが、落ち着いて言った。
「命令は、書面で」
「それが、この城のルールです」
その瞬間。
廊下の空気が、一気に熱くなる。
レオンハルトが、遠くで怒鳴った。
「――いい加減にしろ!」
ロウは、目を細めた。
(来る)
次は。
政治で殴る。
その次は。
涙で燃やす。
そして――誰かを檻に入れる。
ロウは、ゆっくり息を吐いた。
(檻の継ぎ目は)
(ここだ)
扉の外で、クラリスが小さく言った。
「……さあ」
「“王太子の宣言しなかった婚約破棄”を」
「こちらから、確定させに行きましょう」
灰の司祭が、ぼそりと付け足す。
「火種を回収して」
「燃料を奪って」
「条文で、消す」
ルーカスが頷く。
「準備はできています」
ロウは、まだ椅子から立てない。
足が痛む。
でも、スイッチは切れていない。
(俺は)
(見る)
(聞く)
(覚える)
(――そして、次に繋ぐ)
廊下の向こうで、扉が乱暴に開く音がした。
怒りの音。
紙の音。
権力の音。
次の場所へ進む。
王太子の執務室へ。
涙の刃を、折るために。




