第82話 控室の少年、紙の戦場
控室の扉が閉まった。
金具が噛み合う音が、やけに大きく聞こえる。
部屋は広い。
けれど、広いだけだ。
調度品は上等。
窓は高い。
そして、外から鍵がかかる。
ロウは椅子に座らされる……というより、座った。
誰かに言われたからじゃない。
“座るのが一番、見えるから”だ。
「待機って、便利な言葉だな」
口は悪い。
でも声は低い。
騒げば損だと、もう身体が知っている。
衛兵が二名。
扉の左右。
視線は部屋の中に固定。
足の向きは、すぐに動ける向き。
鎧の擦れる音。
呼吸の間。
指の位置。
(……こいつら、訓練が違う)
ロウは、ふっと息を吐いた。
さっきの苛立ちが、薄れる。
胸の奥が冷えていく。
いつもの“切り替え”が、勝手に入る。
(待機ってことは、ここは「起点」だ)
(起点なら、誰かが来る)
(来るなら、目的がある)
(目的があるなら、役割がある)
役割。
……参考人。
その言葉が、舌に苦い。
でも、ここで感情を抱えても意味はない。
ロウは視線を上げた。
部屋の隅に、低い机。
紙束。
インク壺。
羽根ペン。
なぜ、控室に筆記具がある?
ただの待機なら、要らない。
(記録させる気だ)
(……もしくは、署名させる気だ)
ロウは、何も言わずに足を組み替えた。
怪我の足は、自然に庇う。
庇いながらも、顔には出さない。
出せば、相手がそこを見る。
(先生が見たら、怒るやつ)
(……いや、今は先生はいねえ)
扉の外で、足音が一つ止まった。
次の瞬間、鍵が回る音。
扉が少しだけ開く。
入ってきたのは、侍従服の男だった。
視線が忙しい。
緊張している。
「参考人ロウ様」
呼び方だけが丁寧だ。
立場が丁寧じゃない。
ロウは笑いそうになるのを、飲み込んだ。
「様はいらねぇよ」
「……てか、俺の名前、もう勝手に“公式”に入ってんのな」
侍従が小さく咳払いをして、紙を差し出した。
「こちら、待機中の確認書です」
「“王家監督下で待機している”ことの……確認を」
ロウの視線が、紙の上を滑る。
文字の配置。
印の欄。
責任主体の欄。
署名欄の肩書き。
(肩書き……参考人)
(責任主体……王家、って書いてねえ)
(“王太子殿下の監督”……って、王命じゃねえのに?)
ロウの中の冷たい部分が、さらに研ぎ澄まされた。
目の前の紙は、檻だ。
これに署名した瞬間、檻は完成する。
ロウはペンを取らない。
代わりに、顔を上げた。
子どもみたいな顔のまま、声だけは硬い。
「これ、誰の命令だ」
侍従の喉が鳴る。
「殿下の……」
「殿下って、王命なのか?」
「……いえ、王命では……」
ロウは、机の紙束の端を指で叩いた。
軽い音。
でも、言葉は重い。
「じゃあ、これに“王家の責任”って書けよ」
「責任主体が曖昧だと、俺が勝手に逃げたことにされる」
「俺は逃げねえ」
「……けど、逃げたことにされるのは嫌だ」
侍従は目を丸くした。
平民の少年が言う言葉じゃない。
それが顔に出ている。
ロウは肩を竦めた。
「先生の受け売りだよ」
口に出した瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
先生の名前を、軽く使った気がして。
侍従は一歩引いた。
「確認いたします……」
ロウは、今度は笑った。
薄く。
「確認しろ」
「確認して、“正しく書け”」
侍従が出て行く。
鍵がかかる。
また静けさ。
衛兵の片方が、視線を逸らした。
ほんの一瞬。
でもロウにはわかった。
(こいつ、今のやりとり聞いてた)
(“報告”する気だ)
ロウは、わざと大きめに欠伸をした。
「王宮って、暇だな」
「腹減る」
衛兵は反応しない。
けれど、呼吸が一つだけ乱れた。
(効いた)
ロウは椅子にもたれたまま、次の手を頭の中で組む。
(俺は“餌”だ)
(餌なら、釣りに来る)
釣りに来るのは誰だ。
王太子側。
聖女側。
神殿側。
もしくは――もっと別。
扉の外が、少し騒がしくなった。
足音が増える。
女の香が、扉の隙間から流れ込む。
「こちらへ通して」
甘い声。
泣き声の前の声。
それでもわかる。
――セレスティナだ。
ロウの眉が僅かに動いた。
(あー……来た)
扉が開く気配。
しかし、すぐ止まる。
誰かが止めている。
男の声。
丁寧。
でも固い。
ルーカスの声だ。
「恐れながら、聖女様」
「この控室は現在、“王家監督下での待機”に指定されています」
「面会の許可は、責任主体の明記が済んでからとなります」
セレスティナの声が、少しだけ尖った。
「……私は、善意で」
「怪我をした子を心配しているだけです」
ルーカスは、淡々と返す。
「善意かどうかは争点ではございません」
「手続きと責任の所在が争点です」
ロウは、椅子の上で片脚を揺らした。
(この人、強いな)
(強いっていうか……冷たい)
(でも、味方だ)
扉の外で、さらに別の声。
クラリスの声がする。
礼儀正しい。
でも、芯がある。
「聖女セレスティナ様」
「お心遣い、痛み入ります」
「ですが、私も“当事者”として申します」
「“記録のない善意”は、後で必ず刃になります」
一拍。
空気が変わる。
セレスティナの呼吸が、浅くなる。
「……クラリス」
「あなたは、どうしてそんなに冷たいの」
クラリスは、冷たくない。
ただ、冷静だ。
それが彼女の武器。
「冷たいのではありません」
「守りたいからです」
「――守るためには、紙が必要です」
外で、紙をめくる音。
ルーカスが何かを示している。
「こちらをご覧ください」
「現在の通達は“王命”ではなく“殿下の指示”です」
「その場合、監督権限の根拠が曖昧です」
「曖昧なまま面会を認めれば、面会した者すべてが“関係者”になります」
セレスティナの声が、少しだけ柔らかくなる。
その柔らかさが、逆に怖い。
「関係者になって……困る人がいるの?」
「例えば……医療監督の伯爵家嫡男、とか」
ロウは、椅子の背に頭を預けた。
(うわ、そこ突くんだ)
(大人って、やだね)
クラリスの声が、一段低くなった。
「困るのではありません」
「あなたが“使える”からです」
「あなたの善意も涙も、使える」
「……だからこそ、ここでは使わせません」
空気が凍った。
ロウが、小さく舌打ちしそうになって、やめた。
代わりに、鼻で笑った。
(クラリス、強)
その時。
扉の鍵が回った。
今度は、さっきの侍従が戻ってくる音ではない。
足音が、重い。
複数。
鎧の音。
そして――紙の音。
扉が開く。
入ってきたのは、王太子の側近らしい監察官。
その後ろに、侍従。
そして、部屋の外の廊下には、クラリスとルーカスの気配。
監察官が、低い声で言った。
「参考人ロウ」
「確認書を“修正”した」
「責任主体を明記する」
ロウは視線を落とした。
紙の欄に、書かれている。
“王家監督(王太子指示)”
そして、責任者名。
署名欄の肩書きにも、余計な文言が消えている。
(……通った)
(クラリスとルーカスが、通した)
ロウはペンを取った。
でも、すぐには書かない。
顔を上げる。
生意気に見える角度で。
「一個だけ」
「俺がここから出る時、誰が連れてくんだ」
「名前、書いとけ」
「後で“勝手に出た”とか言われたくねえ」
監察官の眉が動く。
普通なら叱る。
でも、叱れない。
なぜなら――正しいからだ。
監察官は短く頷いた。
「……付記する」
ロウはそれを見届けてから、署名した。
字は、意外と綺麗だ。
学んだのは、ここ二年。
でも、手は嘘をつかない。
署名が終わる。
紙が回収される。
監察官が言う。
「面会は許可が出るまで禁止」
「違反者は、責任主体の争いに巻き込まれる」
「……以上」
監察官が去る。
鍵がかかる。
静けさが戻った。
けれど――さっきまでの静けさとは違う。
ロウは椅子の背から体を起こした。
小さく息を吐く。
胸の冷たい部分が、少しだけほどける。
(俺、今……守られた)
守られたのに、悔しい。
守られたのに、安心する。
その矛盾が、今のロウだ。
扉の外で、クラリスが小さく言ったのが聞こえた。
「……よし」
「これで“記録なしの善意”は止められる」
ルーカスが答える。
「次は、殿下が“別の形”で殴ってくるでしょう」
「政治は、殴り方が多い」
クラリスが、少し笑った気配。
「なら、こちらも“返し方”を増やすだけ」
ロウは、部屋の中で一人、目を閉じた。
ほんの一瞬。
さっきまでの冷たいスイッチが切れて、別のものが胸に浮く。
(……先生に言いたい)
(俺、ちゃんとやったって)
でも言えない。
言える距離じゃない。
だから、言葉を飲み込む。
ロウは目を開けて、ぼそっと呟いた。
「……腹減った」
それは、子どもの言葉だった。
少しだけ。
ほんの少しだけ、戻ってきた。
そしてその同じ瞬間。
廊下の奥で、別の足音が止まった。
重く、苛立った足音。
紙を握り潰すみたいな気配。
――王太子が、次の“紙”を用意した。
その匂いがした。




